【拾】 度量
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一 度量
二 身の程
三 厚意
四 人望
五 後楯
六 家名
七 竜種
八 告白
九 弔い
一、度量
文長は、部屋を出ると玄関には向かわず、廊下を奥に進んだ。襖を開くと、座敷には芸妓が座っていた。十代半ば、幼顔の愛らしい娘だ。
「よろしいんですか、こんなことをなさって。」
鈴の鳴るような声で、娘は云った。
「いいんだよ。」
「幼馴染み、なのでしょ。」
「だからといって、
まあ、と
一刻ほどしたら呼びに来るようにと、女中に云い含めておいたのだ。店から使いが来たなどとは、真っ赤な嘘だ。
「向こうから会ってくれと頼んできたのだ。私は別に会いたくもなかったよ。酷い目に合わせた相手に、いけしゃあしゃあと頼み事をしてくる、──図々しい奴だよ。」
誉志乃は小首を傾げた。
「先ほど、お姿を拝見いたしましたが、優しそうな方にみえましたよ。」
文長は眉をひそめた。
「おまえは、ほんの童女の頃からこの世界に身を置いていて、まだ人を見る目ができていないのだね。そんなことでは、すぐに悪い男に騙されてしまうよ。男は、優しい顔をして近づいてくるのだからね。」
文長は、
「おまえはあの男を、美しいと思ったのだろう。」
誉志乃は答えずにいた。文長はその男をひどく嫌っている。ええ
「いいさ、私もそう思ったのだよ。旅をして、諸国を流れ歩いていたと聞いたから、さぞや
文長は意地悪い笑みを浮かべる。
「──旦那さんは、お優しい方とお見受けしますが、気をつけたほうがよろしいのかしら。」
誉志乃は人差し指を
「馬鹿だね。これまで、私がおまえに無理を強いたことなどあったかい。おまえを騙そうだなんて、これっぽっちも思っていない。むしろ騙してくれてよいくらいさ。──私ほど優しい男も
「旦那さんは、お心が広くていらっしゃるのですね。」
さも感心した風に、誉志乃は頬笑んだ。
二、身の程
「ああ、肩が
誉志乃は文長の背に回り、立て膝で肩に手を添えた。
「お前に会う隙もないくらいなのに、どうしてあんな奴に時間を割かなけりゃならないんだ。」
あいつが国を出て行ったと知ったとき、これで嫌な奴の顔を見なくて済むと思った。それが近ごろひょっこり舞い戻って、この土地で商売を始めたい、などと云いだした。気乗りはしないが、日吉の手助けを頼む、と市蔵に頭をさげられている。それなりのことをしなくてはならない。
あいつの名を聞いてから、耳鳴りがし始めた。滝壺に落ちたあと、しばらく酷い耳鳴りが続いたが、それが今にして、ぶり返したのだ。会う日が近づくにつれ、頭痛に吐き気までしてくる始末だ。
しかし、先ほど、あいつと語るうち、徐々に耳鳴りは治まっていった。大人になり、少しは
──あいつはもう、脅威ではない。
この土地で商売をする者は、三つの内、いずれかの商いの組合に入る。
一つは、白浜屋も属する地元の「古参」の商人で構成された組。
一つは、西の商人を中心とした「新参者」の組。
一つは、豊国の商人から成る「余所者」の組。
と、大雑把に分けるとこうだが、利害によっては地元の者でも、よその組合に入る場合もあるし、かなり
──まあ、「桃華会」の連中が、あの何処の馬の骨ともしれぬ者を組合に入れるとは思えないが。
入るには、組合の上の連中の承認がいる。たとえ、他の者を懐柔できにしろ、組合の長である杉田屋が、首を縦には振らないだろう。杉田屋には、
杉田屋は入り
ここぞ、という場面で稼ごうとするのが人の心情だ。杉田屋は材木を扱う他に、
それはさておき、問題の「日吉」だが。引き合わせるまでが役割で、後は知ったことではない。
今日は日吉に
文長は口元を綻ばせ、もういい、と、肩を揉む細い指先に手を添えた。
「ありがとう。つっかえていたものが流れたよ。嫌なことはパッと騒いで忘れよう。──さ、芸者衆を呼んでおくれよ。」
三、厚意
諭利の所まで、賑やかな三味線と歌声が聴こえてきた。
「はつはな」を出たあと、諭利は、急ぎ
そして、その日の夜、諭利は市蔵を訪ねた。
「文長に会ったか。」
「昼に会って来たよ。『はつはな』でね、鳥鍋を馳走になった。──美味かったよ。扱っている鶏は、檻に入れず草原で放し飼いにしていて、そこに生育する香草を食べて育つそうだ。だから、肉にはほどよい弾力があり、鶏特有の臭みがないんだ。卵もね、箸で摘まみあげても黄身が破れないのさ。──お仕舞いに、鍋に卵を溶き入れて
「そうか、俺もご相伴に
三人で会おう、という申し出を、市蔵は断られていた。
「悪いな、私だけ好い思いをして。」
料亭「はつはな」は
「おまえの云うとおり、立派になっていた。あの
俺も行く、一緒に会おう、──そう、市蔵は云った。仲裁を買って出てくれたわけだが、諭利は断った。市蔵としては、二人が険悪な空気になるものと予測し、緩衝役が必要と思ったのだ。けれど、二人の間には、市蔵が居ては話せない込み入った事情がある。文長は、市蔵の前では必ず良い格好をするはずで、そうなると根本的な事態の解決には至らない。今後に遺恨を引きずらぬよう、ここで文長と腹を割って話そうと考え、市蔵には退いてもらったのだ。
文長は、大人らしい対応をした。過去を口にするのはやめよう、とは、
だが、文長は決して全てを許したのではない。謝罪をする気があるなら、約束を果たせ、と云ったときの文長の目を、諭利は覚えている。これは、文長と付き合ってゆくうえで、胸に留めておくべき事柄だ。
この身にも、覚えがある。傷を受けた側の人間は、自分を傷つけた相手の言動を忘れないし、簡単に許せるものでもない。当時、文長が姑息で卑怯で、いくら目障りだったからといって、「なんだかあいつは気にくわねえ」という理由だけで、危害を加えて良いはずはないのだ。
四、人望
文長は市蔵に憧れていた。人に一目おかれる存在になりたかった。けれど、自分には人望がないとわかっていた。だから、金というわかりやすい手段を用いた。偽りでもいいから、人の輪の中心にいたかったのだ。
川底から文長を引き上げ、戸板に乗せて家に送り届けたあと、日吉は市蔵にこっぴどく叱られた。文長に崖を飛ぶよう
『生きていたのだから、いいじゃないか』
そう、開き直る日吉に、市蔵は怒りを
市蔵は、文長が金品で仲間を手懐けているのを知っていた。知りながら、あえて咎めることをしていなかった。日吉は、調子づいている文長が気に食わず、「あんな奴に、さっさと追い出してしまえ」と、市蔵に抗議した。すると市蔵は、「ここを追われたら、あいつは行く場所がなくなるだろ」と答えた。
文長は以前、同じ学問所に通う士族の不良少年たちに金を
だが、──と、日吉は反論する。
文長には、帰る家がある。慈しんでくれる両親があり、裕福な暮らしがある。「仏の白浜屋」が、息子の一大事に血相を変え、恥も外聞もなく少年たちを怒鳴り散らす姿を目の当たりに、日吉は一層冷めた気持ちになった。
──自業自得さ。
日吉は文長への謝罪を拒否した。そして市蔵は、一人で謝りに行った。けれど何度訪ねても、文長には会わせてもらえなかった。
今にして思えば、己の立場は文長と似たようなものだった。仲間うちで「日吉」を嫌う者は少なくなかった。「出て行け」と云われたら、己も行き場がなかったのだ。
「文長も忙しいようでね、店から使いが来て、早々に帰ってしまったんだ。どうせなら、おまえを誘っていたらよかった。」
「今度は三人で会えるよう、文長に云ってみるか。」
そうだね、と諭利は頬笑んだ。
「──おまえは茶の商いをすると云っていたよな。
「さあね、やってみないことにはわからないな。」
「呑気なものだな。」
「独り身だし、生きていられたら十分だよ。ま、いざとなったらなんでもやるさ、こう、三味線片手に唄でも歌ってね。」
諭利は、口三味線に弦を爪弾く素振りをして見せた。
「旅をしていてね、
意味深な顔で諭利は微笑した。市蔵は片目を細め、こちらも意味あり気に諭利を見返した。
「そんな事をしなくても、すでにご立派な『後ろ楯』があるじゃないか。──あの小僧は、えらくご執心だったよな。」
小僧とは、承のことだ。諭利は苦笑した。
五、後楯
『諭利さんの演技は、それは素晴らしいものでしたよ』
そう云って、目を輝かせていた承の姿を、市蔵はよく覚えている。
「ありゃあ、芝居小屋でも建ててくれそうな勢いだったぜ。あの小僧の親父は天下の『南竜公』──おまえの行末は安泰だな。」
承の父は、「南に
「──後ろ楯、といえば、長兄の
「ああ、国一番の芸妓、踊りの名手と呼ばれる『
さすが、
「櫻周は芸事が好きで、前々から芸人の育成に力を入れていた。羽衣は、元は櫻周の
「私はね、一度、羽衣を座敷に呼んでみようと思ってるんだ。清張さんがね、今回、船の依頼をしたことでもあるし、近々邑重に会いにくるというので、その時に合わせて羽衣を座敷に呼べないものかと伺ってみたのさ。すると、さすがの羽衣だ、半年先まで座敷が決まっていると云われたよ。清張さんに披露する前に、評判の踊りをこの目で確かめておきたかったのだけどね。」
「──それなら、半年待たなくったってじきに観れるさ。豊漁祭で、芸妓が踊りを踊ることになっている。芸妓のなかでも選り優りの、羽衣、
俺は白波が好みだ、と市蔵は付け加えた。見ずとも姿が浮かぶ、──細身の体に幼顔、ちょっと気の強そうな女なのだろう。市蔵の好みはいつも同じだ。
「踊りは、白波の方が上だという者もいる。俺には、芸事の細かいところは さっぱりだがな。」
豊漁祭が、
演目は、「
観光客に好評の演目だが、一方で、「櫻周が、自分の愛妾に花を持たせるための茶番だ」との批判もある。櫻家の比護を受ける羽衣を、やっかむ者も多い。
「祭りの最中は、俺たちも駆り出される。── 一昨年のことだが、島から御神体が運ばれてくるのを見るのに、波止場に人が押し寄せたんだ。予想以上の人出でな、港へ向かう橋の上が鮨詰め状態になり、事故が起きたのさ。」
六、家名
「波止場で警備をしていた役人も、そうとは気づかず、橋の手前では どんどん人を流していくもんだから、一人が転んだ途端に将棋倒しになっちまって、死人がでたのさ。それで、各組ごとに持ち場の割り当てをして、総出で見物客の誘導をすることになった。──祭りの最中は、屋台の監視やら、酔っ払い同士の揉め事の仲裁やらで、俺らも色々と忙しくてな。」
「ゆっくり見物をする
「まあ、それで稼がせてもらっているしな。」
「観光で、『南竜公』は外貨を稼ぎ出しているのだよね。」
「そうだな、それで懐を温めている奴もいれば、割を食っている奴もいる。儲けに与れない奴らは、ああだこうだと皮肉も云う。だが、そうはいっても、この国を動かしているのは間違いなく櫻周だ。南の竜は、三本爪に がっちりと『珠』を握っている。多少強引なところもあるが、櫻周は実益をあげ、民衆に恩恵を与えている。民衆は身に染みてわかっている、『南竜公』は、豊国の顔色ばかり伺ってる貴族連中とは違う、大事が起きた時に頼みになるのは王ではなく、櫻周だとな。」
王は年若く、病みがちであるという。決断のできない、形ばかりの王だった。民は、王には感心がないが、万が一に王が
王には世継ぎとなる子がいない。血筋が絶えた場合には、櫻家から「王」が立つことになる。建国以来、櫻家はそのために存在している。
櫻家の成り立ちは、およそ千年前に
兎萬国の原住民であった
洸海君はこれを悼んだ。曙黄山に慰霊碑を建立して手厚く供養し、須叉の民の墓標となる百本の桜の苗木を植えた。翌年には更に百本、その翌年にも百本と植え続け、二十年かけて二千本の桜を植えたのだ。そして建国の裏に起きたスサの悲劇を忘れないよう、自らの姓に「櫻」という字を定めたのだ。
王位は男系男子によって継承される。王が死に、子に男子がいない場合には、継承が櫻家の男子に移行される。ここで一つ、櫻周の継承権は、家の相続者がいる時点で消失しており、現在、王が身罷ったとして、王位に就くのは長子の
それゆえ、王と同様、「櫻」を継ぐ者は一人と定められている。当主以外の男子の子は、妻の姓を名乗ることになるのだ。
七、竜種
櫻周には朱国に
櫻家は、珠国にとって特別な意味を持つ家である。櫻家の三人の子息には王位継承権があるのだ。「将来は安泰」と、市蔵が揶揄した
「長兄の
市蔵はそう評した。世間の見方も、大体それに相違なかった。獅子というとおり、開は六尺を越える偉丈夫で文武に優れ、名門の貴公子にふさわしい威厳を備えている。恭も同様に文武に優れ、こちらは「百花の王」と
恭と承は同腹であるが、開は異母兄になる。開の母が開を産んですぐに亡くなったので、従姉妹にあたる恭と承の母が嫁いできたのだ。
兄二人は世間の話題となるが、承は口の端にもあがらない。承は、決して愚鈍ではないのだが、この二人の側に置かれると見劣りがしてしまうのは否めない。
「──今は仔犬だが、数々の大物に触れてきたお前の目には、小僧が獅子となる姿が、映っているのか。」
市蔵はやはり、からかいの口調で問う。
だが、櫻周も八年前までは無名に近かった。櫻周は男ばかりの五人兄弟の四男で、ある出来事によって兄三人が相次いで急逝したために、本来は継ぐはずでない周が、櫻家の当主となったのだ。少年期の周は、名家の子息にあるまじき乱暴者で、一族の鼻つまみ者だった。それが今、見事に変化し「竜」となった。
承は、その櫻周の子だ。化ける可能性が無くはない。ただ、承に櫻周のような
「それとも、──単なる同情か。」
諭利は、無言でうっすらと頬笑んでいた。
櫻周は、頻繁に町に現れ、民と親しく語るさまが見受けられる。地元の漁師たちとは旧知の間柄で、じつは昔の悪仲間でもある。
つい最近、櫻周は六十貫の
猪口を置き、「なあ、日吉」と市蔵は云った。
諭利は箸を止め、視線を向けた。見つめる市蔵の瞳には、憂いが見えた。
「俺は、本当に初音に惚れていたよ。」
自嘲するような、苦い笑み浮かぶ。たしか、再会した夜にもそんなことを云っていた。だがそれは、承の手前、話を面白くするための冗談だと思い、諭利は真に受けていなかった。
「俺の中では、初音という女が生きていた。初音を得られるなら、俺は何を捨ててもいいと思ったほどさ。──おまえが、その背に初音を隠しているのだと思うと、お前が憎らしくて
八、告白
あるとき、──初音の寝所に忍び込もうとしている奴を捕まえた。俺は、そいつをしこたま痛めつけ、憂さを晴らした。なんの考えもなしに、そんなことができる野郎が羨ましかった。誰より、己自身が初音を抱きたかったからだ。
時おり、俺は初音のしなやかな肢体を夢に見る。目覚めると、女の体が欲しくて
──初音は
俺は、いつまでも満たされない。この愚かさは、まったく救いようがない。
「──覚えているか。」
云いながら、市蔵は帯の間から朱塗りの
「こんな物を、俺はいまだに持ち歩いているのさ。」
それが置かれた瞬間、すっと、頬に宵の風を感じた。細めた諭利の目に、ある風景が浮かんでいた。
笛に太鼓、賑やかなお囃子の
その日は縁日で、
前から歩いて来る者たちが、不自然に目線を反らせ、初音に道を空けていた。
初音はスッと市蔵の横に並んで、腕に手を絡めた。いつもなら、市蔵は腕を振り払って離れているところだが、その時は初音のするに任せた。初音のその行動は、市蔵の殺気を納ためだと気づいたからだ。
初音は命を狙われていた。女子供であろうと刺客になりうる、張り詰めた市蔵の「氣」が、周囲の者に無言の威圧を与えていたのだ。
初音は市蔵の顔を覗き込み、「恐い、お顔」と苦笑した。
「──お嬢さん、髪飾りはいらんかね。」
露店主の呼び声に、初音は足を止めた。並べてある
市蔵は、つまらないことをするな、と眉根を寄せた。
「こりゃあ、果報者だね、兄さん。こんな
小柄で丸顔の、気の良さそうな店主は、商売っ気たっぷりに客を持ち上げて売り込みをする。
だが、これは世辞とばかりはいえない。初音は、道行くどの女よりも際立っている。後ろを歩く市蔵には、すれ違う男たちの目が一点に吸い寄せられていく様が見えた。老いも若きも男の目は、過ぎ去る初音の横顔を、名残惜しげに追いかける。
市蔵は、そんな女を連れている自分を、とても誇らく思うのだ。
九、弔い
初音は、さっきとは別の
こんな処で油を売っている場合ではないだろうに、──市蔵が白けた目を向けた先に、その
「いくらだ。」
店主にそう聞いてから、サッと銭を支払って、市蔵はぶっきらぼうに初音に櫛を押し付けた。初音の手持ちの櫛は歯が一つ欠けていた、それを市蔵は知っていたのだ。
キョトンとして、「ありがとう」と云う初音の顔を見ずに、市蔵は背を向けた。
歩き出した市蔵を、初音が小走りに追いかける。
「お幸せに。」
店主が声をかけると、初音は市蔵の腕を引き寄せて笑った。
「この人は、こんな怖い顔をしているけれど、とても心の優しい男なんです。人を
はあ、と感嘆し、店主はペンと額を叩いた。
「こりゃ参ったな、すっかり当てられちまった。うらやましいねぇ、兄さん。女にそこまで云われたら、男名利に尽きるってもんだ。」
初音は嬉しげに笑っていた。市蔵は少しも笑えなかった。苦い顔で、黙って歩きだした。初音は市蔵の腕に手を絡め、体に引っついた。よせ、と市蔵は肩を揺すったが、初音は離れなかった。縁日の人波が途切れるまで、二人は身を寄せて歩いた。
このまま何処かに連れ去ってしまおうか、──それができたらどんなによいだろう。
お囃子の音が遠退くと、市蔵は足を止め、初音の手を振り払った。今日はやけに機嫌が悪いのだな、と初音は思った。
市蔵が初音に渡した櫛は、この国を離れるとき、日吉が市蔵に返していた。眠った振りをしている市蔵の帯の間に、そっと差し入れておいたのだ。
「覚えているよ。」と諭利は云った。
やった物を返されるのは、自分の想いを拒まれたということだ。ならば、さっさと捨ててしまえばいいのに、初音の髪を梳いた櫛を捨てることができずにいた。
「おまえがこの国を出たその夜、俺は女を抱いた。灯りを消し、暗闇の中、女の体に触れた。俺はその体を、初音だと思って想いのたけを込めた。──やがて白く
──今まで、想いが絶てずにいた。日吉が帰ったと知ると、俺はその背に初音の気配を感じ、高揚した。胸が騒ぎ、数日落ち着かなかった。
「俺の中で、初音という女が確かに生きていたよ。」
日吉は「諭利」と名を変えた。目の前の男は日吉ではない。ましてや初音ではあり得ない。
「初音は死んだのだな。」と市蔵は云った。
「ああ、死んだのだ。」と諭利は云った。
「──弔いだ。」
市蔵は、赤い櫛を台の上に置き、隣に湯呑みを据えて酒を注いだ。
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