【拾】 度量



  一  度量  ─ どりょう ─

  二  身の程  ─ みのほど ─

  三  厚意  ─ こうい ─

  四  人望  ─ じんぼう ─

  五  後楯  ─ うしろだて ─

  六  家名  ─ かめい ─

  七  竜種  ─ りゅうしゅ ─

  八  告白  ─ こくはく ─

  九  弔い  ─ とむらい ─





  一、度量  ─ どりょう ─



 文長は、部屋を出ると玄関には向かわず、廊下を奥に進んだ。襖を開くと、座敷には芸妓が座っていた。十代半ば、幼顔の愛らしい娘だ。

「よろしいんですか、こんなことをなさって。」

 鈴の鳴るような声で、娘は云った。

「いいんだよ。」

「幼馴染み、なのでしょ。」

「だからといって、ではないのだよ。友だなんて、思ったこともないし、これからもそうはならないね。──私はあいつが嫌いでね。」

 まあ、と誉志乃よしのは口元に手を添えた。

 一刻ほどしたら呼びに来るようにと、女中に云い含めておいたのだ。店から使いが来たなどとは、真っ赤な嘘だ。

「向こうから会ってくれと頼んできたのだ。私は別に会いたくもなかったよ。酷い目に合わせた相手に、いけしゃあしゃあと頼み事をしてくる、──図々しい奴だよ。」

 誉志乃は小首を傾げた。

「先ほど、お姿を拝見いたしましたが、優しそうな方にみえましたよ。」

 文長は眉をひそめた。

「おまえは、ほんの童女の頃からこの世界に身を置いていて、まだ人を見る目ができていないのだね。そんなことでは、すぐに悪い男に騙されてしまうよ。男は、優しい顔をして近づいてくるのだからね。」

 文長は、はす向かいの座敷に目をやった。すだれ越しに、諭利の姿が見えている。

「おまえはあの男を、美しいと思ったのだろう。」

 誉志乃は答えずにいた。文長はその男をひどく嫌っている。ええ格好かっこしいの白浜屋の若旦那が、感情をあらわにするのは珍しいことだった。

「いいさ、私もそう思ったのだよ。旅をして、諸国を流れ歩いていたと聞いたから、さぞや見窄みすぼらしくなっているだろうと思ったのに、以前にも増して美しいのだ。だから余計に憎らしいのだ。きっと旅の先々で、金持ちの比護を受けていたのだろう。そうした輩なのだ。──あの男はね、相手に合わせて姿を変える、変化へんげけた狐だ。よい機会だから、人に化けた狐がどんな姿をしているか、とくと見ておくといいよ。」

 文長は意地悪い笑みを浮かべる。

「──旦那さんは、お優しい方とお見受けしますが、気をつけたほうがよろしいのかしら。」

 誉志乃は人差し指をあごに当て、小首をかしげた。

「馬鹿だね。これまで、私がおまえに無理を強いたことなどあったかい。おまえを騙そうだなんて、これっぽっちも思っていない。むしろ騙してくれてよいくらいさ。──私ほど優しい男もまれだよ。今日だって、嫌な奴にもこうして時間を割いてやった。嫌いだからといって、いけずはしない。嫌な奴の話にも耳を傾けるし、困っていたら手助けだってする。それが君子というものなのだよ。」

「旦那さんは、お心が広くていらっしゃるのですね。」

 さも感心した風に、誉志乃は頬笑んだ。





  二、身の程  ─ みのほど ─



「ああ、肩がる。最近、色々と忙しくてね、ちょっと後ろに回って、肩を揉んでくれないか。」

 誉志乃は文長の背に回り、立て膝で肩に手を添えた。

「お前に会う隙もないくらいなのに、どうしてあんな奴に時間を割かなけりゃならないんだ。」

 あいつが国を出て行ったと知ったとき、これで嫌な奴の顔を見なくて済むと思った。それが近ごろひょっこり舞い戻って、この土地で商売を始めたい、などと云いだした。気乗りはしないが、日吉の手助けを頼む、と市蔵に頭をさげられている。それなりのことをしなくてはならない。

 あいつの名を聞いてから、耳鳴りがし始めた。滝壺に落ちたあと、しばらく酷い耳鳴りが続いたが、それが今にして、ぶり返したのだ。会う日が近づくにつれ、頭痛に吐き気までしてくる始末だ。

 しかし、先ほど、あいつと語るうち、徐々に耳鳴りは治まっていった。大人になり、少しはぶんわきまえることを学んだと見える。

 ──あいつはもう、脅威ではない。

 この土地で商売をする者は、三つの内、いずれかの商いの組合に入る。

 一つは、白浜屋も属する地元の「古参」の商人で構成された組。

 一つは、西の商人を中心とした「新参者」の組。

 一つは、豊国の商人から成る「余所者」の組。

 と、大雑把に分けるとこうだが、利害によっては地元の者でも、よその組合に入る場合もあるし、かなりまれだがその逆もあった。

 ──まあ、「桃華会」の連中が、あの何処の馬の骨ともしれぬ者を組合に入れるとは思えないが。

 入るには、組合の上の連中の承認がいる。たとえ、他の者を懐柔できにしろ、組合の長である杉田屋が、首を縦には振らないだろう。杉田屋には、イロカネも通用しない。清廉で堅物の、まことに厄介な男だ。

 杉田屋は入り婿むこで、元が士族の出だ。士族独特の観念を、商売にも持ち込んでいる。八年前の大火事のあと、材木問屋は軒並み材木の値を吊りあげて大儲けをしたが、杉田屋だけは値を据え置き、損をした。民衆は、「さすがは杉田屋」と讃えた。がめつい商売人どもとの品格の違いを示し、杉田屋はその名を高めた。

 ここぞ、という場面で稼ごうとするのが人の心情だ。杉田屋は材木を扱う他に、納屋なや業をしていて相当な蓄財がある。だから、そうした悠長な商売がやっていられるのだ、と文長は皮肉げに思う。

 それはさておき、問題の「日吉」だが。引き合わせるまでが役割で、後は知ったことではない。

 今日は日吉に貸しヽヽをした。過去を水に流してやって度量の大きさを見せ、口利きをしてやることで、商人としての現在の地位を見せつけた。

 文長は口元を綻ばせ、もういい、と、肩を揉む細い指先に手を添えた。

「ありがとう。つっかえていたものが流れたよ。嫌なことはパッと騒いで忘れよう。──さ、芸者衆を呼んでおくれよ。」





  三、厚意  ─ こうい ─



 諭利の所まで、賑やかな三味線と歌声が聴こえてきた。はす向かいの、すだれがさがっている座敷からだ。どこのお大尽だいじんだろう、昼間から豪勢なものだな、と諭利は思った。

 「はつはな」を出たあと、諭利は、急ぎ何処どこかへ向かう店者たなものとすれちがった。法被はっぴの背には、浜木綿はまゆうの文様に「浜」の字、白浜屋の紋が染め抜かれてあった。

 そして、その日の夜、諭利は市蔵を訪ねた。

「文長に会ったか。」

「昼に会って来たよ。『はつはな』でね、鳥鍋を馳走になった。──美味かったよ。扱っている鶏は、檻に入れず草原で放し飼いにしていて、そこに生育する香草を食べて育つそうだ。だから、肉にはほどよい弾力があり、鶏特有の臭みがないんだ。卵もね、箸で摘まみあげても黄身が破れないのさ。──お仕舞いに、鍋に卵を溶き入れておじやヽヽヽにしたよ。ふんわりとろとろの、絶品だった。」

「そうか、俺もご相伴にあずかりたかったぜ。」

 三人で会おう、という申し出を、市蔵は断られていた。

「悪いな、私だけ好い思いをして。」

 料亭「はつはな」は一見いちげんお断り、常連には政府のお歴々が名を連ねる、庶民には敷居の高い店だ。文長はそうした店の馴染み客なのだ。

「おまえの云うとおり、立派になっていた。あの青瓢箪あおびょうたんがこうなったかと、驚いたよ。過去むかしのことで、私をなじりもしなかった。仕置きは覚悟の上だったが、それもなくて、こちらが拍子抜けしたくらいさ。」

 俺も行く、一緒に会おう、──そう、市蔵は云った。仲裁を買って出てくれたわけだが、諭利は断った。市蔵としては、二人が険悪な空気になるものと予測し、緩衝役が必要と思ったのだ。けれど、二人の間には、市蔵が居ては話せない込み入った事情がある。文長は、市蔵の前では必ず良い格好をするはずで、そうなると根本的な事態の解決には至らない。今後に遺恨を引きずらぬよう、ここで文長と腹を割って話そうと考え、市蔵には退いてもらったのだ。

 文長は、大人らしい対応をした。過去を口にするのはやめよう、とは、あんに「水に流してやる」という旨だと、解釈した。文長がそれで良しとするなら、こちらは有り難く好意を受け入れていればいい。

 だが、文長は決して全てを許したのではない。謝罪をする気があるなら、約束を果たせ、と云ったときの文長の目を、諭利は覚えている。これは、文長と付き合ってゆくうえで、胸に留めておくべき事柄だ。

 この身にも、覚えがある。傷を受けた側の人間は、自分を傷つけた相手の言動を忘れないし、簡単に許せるものでもない。当時、文長が姑息で卑怯で、いくら目障りだったからといって、「なんだかあいつは気にくわねえ」という理由だけで、危害を加えて良いはずはないのだ。





  四、人望  ─ じんぼう ─



 文長は市蔵に憧れていた。人に一目おかれる存在になりたかった。けれど、自分には人望がないとわかっていた。だから、金というわかりやすい手段を用いた。偽りでもいいから、人の輪の中心にいたかったのだ。

 川底から文長を引き上げ、戸板に乗せて家に送り届けたあと、日吉は市蔵にこっぴどく叱られた。文長に崖を飛ぶようそそのかしたのが日吉だと、市蔵は気づいていたのだ。

 『生きていたのだから、いいじゃないか』

 そう、開き直る日吉に、市蔵は怒りをあらわにした。

 市蔵は、文長が金品で仲間を手懐けているのを知っていた。知りながら、あえて咎めることをしていなかった。日吉は、調子づいている文長が気に食わず、「あんな奴に、さっさと追い出してしまえ」と、市蔵に抗議した。すると市蔵は、「ここを追われたら、あいつは行く場所がなくなるだろ」と答えた。

 文長は以前、同じ学問所に通う士族の不良少年たちに金をおどし取られていた。だから、身を守る盾となってくれる仲間が必要だったのだ。

 だが、──と、日吉は反論する。

 文長には、帰る家がある。慈しんでくれる両親があり、裕福な暮らしがある。「仏の白浜屋」が、息子の一大事に血相を変え、恥も外聞もなく少年たちを怒鳴り散らす姿を目の当たりに、日吉は一層冷めた気持ちになった。

 ──自業自得さ。

 日吉は文長への謝罪を拒否した。そして市蔵は、一人で謝りに行った。けれど何度訪ねても、文長には会わせてもらえなかった。

 今にして思えば、己の立場は文長と似たようなものだった。仲間うちで「日吉」を嫌う者は少なくなかった。「出て行け」と云われたら、己も行き場がなかったのだ。

「文長も忙しいようでね、店から使いが来て、早々に帰ってしまったんだ。どうせなら、おまえを誘っていたらよかった。」

「今度は三人で会えるよう、文長に云ってみるか。」

 そうだね、と諭利は頬笑んだ。

「──おまえは茶の商いをすると云っていたよな。もうかりそうか。」

「さあね、やってみないことにはわからないな。」

「呑気なものだな。」

「独り身だし、生きていられたら十分だよ。ま、いざとなったらなんでもやるさ、こう、三味線片手に唄でも歌ってね。」

 諭利は、口三味線に弦を爪弾く素振りをして見せた。

「旅をしていてね、ふところが寂しくなると、笛を吹いたり、唄を歌ったりしたよ。大した稼ぎにはならないけれど、後で誰だかが『腹は減っていないか』とか、『宿は決まっているのか』とかって、声をかけてくれるのさ。何処にも、親切な人がいるものだよ。」

 意味深な顔で諭利は微笑した。市蔵は片目を細め、こちらも意味あり気に諭利を見返した。

「そんな事をしなくても、すでにご立派な『後ろ楯』があるじゃないか。──あの小僧は、えらくご執心だったよな。」

 小僧とは、承のことだ。諭利は苦笑した。





  五、後楯  ─ うしろだて ─



 『諭利さんの演技は、それは素晴らしいものでしたよ』

 そう云って、目を輝かせていた承の姿を、市蔵はよく覚えている。

「ありゃあ、芝居小屋でも建ててくれそうな勢いだったぜ。あの小僧の親父は天下の『南竜公』──おまえの行末は安泰だな。」

 承の父は、「南に櫻周おうしゅうあり」と諸国に名を轟かす辣腕の政治家なのだ。だから市蔵は、小僧に取り入っておけば損はない、などと、当てこすりをいうのだ。

「──後ろ楯、といえば、長兄のかいは芸技の後見をしているらしいね。」

「ああ、国一番の芸妓、踊りの名手と呼ばれる『羽衣はごろも』だ。」

 さすが、早耳ヽヽだな、と云って、市蔵は話を続けた。

「櫻周は芸事が好きで、前々から芸人の育成に力を入れていた。羽衣は、元は櫻周のオンナで、見習い芸技のころから世話を受けていた。それが最近、櫻周は別の見習いの世話を始めたんで、息子に羽衣を下げ渡したってわけさ。」

「私はね、一度、羽衣を座敷に呼んでみようと思ってるんだ。清張さんがね、今回、船の依頼をしたことでもあるし、近々邑重に会いにくるというので、その時に合わせて羽衣を座敷に呼べないものかと伺ってみたのさ。すると、さすがの羽衣だ、半年先まで座敷が決まっていると云われたよ。清張さんに披露する前に、評判の踊りをこの目で確かめておきたかったのだけどね。」

「──それなら、半年待たなくったってじきに観れるさ。豊漁祭で、芸妓が踊りを踊ることになっている。芸妓のなかでも選り優りの、羽衣、白波しらなみ涼風すずかぜ、の三人が舞台の真ん中で踊るのさ。」

 俺は白波が好みだ、と市蔵は付け加えた。見ずとも姿が浮かぶ、──細身の体に幼顔、ちょっと気の強そうな女なのだろう。市蔵の好みはいつも同じだ。

「踊りは、白波の方が上だという者もいる。俺には、芸事の細かいところは さっぱりだがな。」

 豊漁祭が、今日こんにちほど盛大になったのは五年前からだ。国外からの観光客目当てに催し物を増やした。芸妓が祭りに花を添えるようになったのも、その頃からだ。

 演目は、「宗像三女神ムナカタサンジョシン」。宗像三女神は、アマテラスとスサノヲの誓約うけいによって生まれた三柱の女神で、航海の守護神として信仰されている。舞台では、女神に扮した三人の芸妓と海原を表現する三百人の踊り子が揃う。その圧倒的で壮観な踊りは、豊漁祭の見所の一つでもあるのだ。

 観光客に好評の演目だが、一方で、「櫻周が、自分の愛妾に花を持たせるための茶番だ」との批判もある。櫻家の比護を受ける羽衣を、やっかむ者も多い。

「祭りの最中は、俺たちも駆り出される。── 一昨年のことだが、島から御神体が運ばれてくるのを見るのに、波止場に人が押し寄せたんだ。予想以上の人出でな、港へ向かう橋の上が鮨詰め状態になり、事故が起きたのさ。」





  六、家名  ─ かめい ─



「波止場で警備をしていた役人も、そうとは気づかず、橋の手前では どんどん人を流していくもんだから、一人が転んだ途端に将棋倒しになっちまって、死人がでたのさ。それで、各組ごとに持ち場の割り当てをして、総出で見物客の誘導をすることになった。──祭りの最中は、屋台の監視やら、酔っ払い同士の揉め事の仲裁やらで、俺らも色々と忙しくてな。」

「ゆっくり見物をするひまがないんだね。」

「まあ、それで稼がせてもらっているしな。」

「観光で、『南竜公』は外貨を稼ぎ出しているのだよね。」

「そうだな、それで懐を温めている奴もいれば、割を食っている奴もいる。儲けに与れない奴らは、ああだこうだと皮肉も云う。だが、そうはいっても、この国を動かしているのは間違いなく櫻周だ。南の竜は、三本爪に がっちりと『珠』を握っている。多少強引なところもあるが、櫻周は実益をあげ、民衆に恩恵を与えている。民衆は身に染みてわかっている、『南竜公』は、豊国の顔色ばかり伺ってる貴族連中とは違う、大事が起きた時に頼みになるのは王ではなく、櫻周だとな。」

 王は年若く、病みがちであるという。決断のできない、形ばかりの王だった。民は、王には感心がないが、万が一に王が身罷みまかったのち、次代の王座に誰が就くかに感心が向いていた。

 王には世継ぎとなる子がいない。血筋が絶えた場合には、櫻家から「王」が立つことになる。建国以来、櫻家はそのために存在している。

 櫻家の成り立ちは、およそ千年前にさかのぼる。「櫻」という家を興したのは、初代珠国王の第二王子である。

 兎萬国の原住民であった須叉すさの民は、戦いに敗れ、その大半が南の山岳地域へ落ちて行った。しかし、一部の民は廃坑となった鉄山(曙黄山)の坑道を拠として抵抗を続けた。この須叉の討伐に当たったのが、第二王子の洸海君だった。洸海君は、追い詰めたスサの民へ降伏を勧めたが、最終的に、坑道に立て籠った老若男女一千人余りの民は、火薬を用いて自決するという結果になった。爆発の衝撃で坑道は崩落し、須叉の民は亡骸を晒すことなく地中深く葬られた。

 洸海君はこれを悼んだ。曙黄山に慰霊碑を建立して手厚く供養し、須叉の民の墓標となる百本の桜の苗木を植えた。翌年には更に百本、その翌年にも百本と植え続け、二十年かけて二千本の桜を植えたのだ。そして建国の裏に起きたスサの悲劇を忘れないよう、自らの姓に「櫻」という字を定めたのだ。

 王位は男系男子によって継承される。王が死に、子に男子がいない場合には、継承が櫻家の男子に移行される。ここで一つ、櫻周の継承権は、家の相続者がいる時点で消失しており、現在、王が身罷ったとして、王位に就くのは長子のかいとなる。

 それゆえ、王と同様、「櫻」を継ぐ者は一人と定められている。当主以外の男子の子は、妻の姓を名乗ることになるのだ。





  七、竜種  ─ りゅうしゅ ─



 櫻周には朱国に櫻敬えいけいという実弟がおり、敬には二人の息子がいる。敬の子は母方の「橘」の姓を名乗り、「櫻」の姓が継承されることはない。

 櫻家は、珠国にとって特別な意味を持つ家である。櫻家の三人の子息には王位継承権があるのだ。「将来は安泰」と、市蔵が揶揄した所以ゆえんはそこだ。

「長兄のかいは獅子、次兄のきょうおおとり、あの小僧はさしずめ仔犬、ってとこか。」

 市蔵はそう評した。世間の見方も、大体それに相違なかった。獅子というとおり、開は六尺を越える偉丈夫で文武に優れ、名門の貴公子にふさわしい威厳を備えている。恭も同様に文武に優れ、こちらは「百花の王」とうたに詠まれるほどの美貌の主でもある。

 恭と承は同腹であるが、開は異母兄になる。開の母が開を産んですぐに亡くなったので、従姉妹にあたる恭と承の母が嫁いできたのだ。

 兄二人は世間の話題となるが、承は口の端にもあがらない。承は、決して愚鈍ではないのだが、この二人の側に置かれると見劣りがしてしまうのは否めない。

「──今は仔犬だが、数々の大物に触れてきたお前の目には、小僧が獅子となる姿が、映っているのか。」

 市蔵はやはり、からかいの口調で問う。

 だが、櫻周も八年前までは無名に近かった。櫻周は男ばかりの五人兄弟の四男で、ある出来事によって兄三人が相次いで急逝したために、本来は継ぐはずでない周が、櫻家の当主となったのだ。少年期の周は、名家の子息にあるまじき乱暴者で、一族の鼻つまみ者だった。それが今、見事に変化し「竜」となった。

 承は、その櫻周の子だ。化ける可能性が無くはない。ただ、承に櫻周のようなあくヽヽはない。化けるには、荒用事が必要だろう。

「それとも、──単なる同情か。」

 諭利は、無言でうっすらと頬笑んでいた。

 櫻周は、頻繁に町に現れ、民と親しく語るさまが見受けられる。地元の漁師たちとは旧知の間柄で、じつは昔の悪仲間でもある。

 つい最近、櫻周は六十貫のまぐろを釣りあげた。港にあげ、その大物を手ずから捌き、行き交う人々に振る舞った。これが、玄人跣くろうとはだしの包丁使いで、大いに人を集めていたという。櫻周は、こうした演出の上手い男でもある。

 猪口を置き、「なあ、日吉」と市蔵は云った。

 諭利は箸を止め、視線を向けた。見つめる市蔵の瞳には、憂いが見えた。

「俺は、本当に初音に惚れていたよ。」

 自嘲するような、苦い笑み浮かぶ。たしか、再会した夜にもそんなことを云っていた。だがそれは、承の手前、話を面白くするための冗談だと思い、諭利は真に受けていなかった。

「俺の中では、初音という女が生きていた。初音を得られるなら、俺は何を捨ててもいいと思ったほどさ。──おまえが、その背に初音を隠しているのだと思うと、お前が憎らしくてたまらなかった。」





  八、告白  ─ こくはく ─



 あるとき、──初音の寝所に忍び込もうとしている奴を捕まえた。俺は、そいつをしこたま痛めつけ、憂さを晴らした。なんの考えもなしに、そんなことができる野郎が羨ましかった。誰より、己自身が初音を抱きたかったからだ。

 時おり、俺は初音のしなやかな肢体を夢に見る。目覚めると、女の体が欲しくてたまらなくなる。その度に、違う女を抱いてみるけれど、毎回『これではない』という違和感を持つ。

 ──初音はこうヽヽではない。

 苛立いらだち、胸はじりじりと焦がれ、底のない虚しさに苛まれる。想う相手は、まるで水面に映る月のように、そこに在るけれど、決して手に触れることのできない、美しい幻。

 俺は、いつまでも満たされない。この愚かさは、まったく救いようがない。

「──覚えているか。」

 云いながら、市蔵は帯の間から朱塗りの黄楊つげくしを取り出した。

「こんな物を、俺はいまだに持ち歩いているのさ。」

 それが置かれた瞬間、すっと、頬に宵の風を感じた。細めた諭利の目に、ある風景が浮かんでいた。

 笛に太鼓、賑やかなお囃子のが、風に乗り流れる。柔らかな灯りの下を、微笑みを浮かべた人々が行き交う、──そのなかに、初音と市蔵もいた。

 その日は縁日で、やしろに続く道の両側には露店が立ち並んでいた。

 前から歩いて来る者たちが、不自然に目線を反らせ、初音に道を空けていた。

 初音はスッと市蔵の横に並んで、腕に手を絡めた。いつもなら、市蔵は腕を振り払って離れているところだが、その時は初音のするに任せた。初音のその行動は、市蔵の殺気を納ためだと気づいたからだ。

 初音は命を狙われていた。女子供であろうと刺客になりうる、張り詰めた市蔵の「氣」が、周囲の者に無言の威圧を与えていたのだ。

 初音は市蔵の顔を覗き込み、「恐い、お顔」と苦笑した。

「──お嬢さん、髪飾りはいらんかね。」

 露店主の呼び声に、初音は足を止めた。並べてあるかんざしの中から、目に留まった一本を手にし、身を屈めて鏡に顔を映す。簪を髪に挿し、どうだい、と賛辞を要求するように、上目遣いで市蔵をうかがっている。

 市蔵は、つまらないことをするな、と眉根を寄せた。

「こりゃあ、果報者だね、兄さん。こんな別嬪べっぴんさんをお共に連れて。羨ましい限りだ。」

 小柄で丸顔の、気の良さそうな店主は、商売っ気たっぷりに客を持ち上げて売り込みをする。

 だが、これは世辞とばかりはいえない。初音は、道行くどの女よりも際立っている。後ろを歩く市蔵には、すれ違う男たちの目が一点に吸い寄せられていく様が見えた。老いも若きも男の目は、過ぎ去る初音の横顔を、名残惜しげに追いかける。

 市蔵は、そんな女を連れている自分を、とても誇らく思うのだ。





  九、弔い  ─ とむらい ─



 初音は、さっきとは別のかんざしを挿して、こちらはどうだい、と市蔵を見あげた。市蔵は無言で、初音の髪から簪を抜き、元に戻した。初音はねたように可愛らしく口を尖らせた。

 こんな処で油を売っている場合ではないだろうに、──市蔵が白けた目を向けた先に、そのくしが置かれていた。

「いくらだ。」

 店主にそう聞いてから、サッと銭を支払って、市蔵はぶっきらぼうに初音に櫛を押し付けた。初音の手持ちの櫛は歯が一つ欠けていた、それを市蔵は知っていたのだ。

 キョトンとして、「ありがとう」と云う初音の顔を見ずに、市蔵は背を向けた。

 歩き出した市蔵を、初音が小走りに追いかける。

「お幸せに。」

 店主が声をかけると、初音は市蔵の腕を引き寄せて笑った。

「この人は、こんな怖い顔をしているけれど、とても心の優しい男なんです。人をたすけ、それを誇ることをしない、男の中の男です。私は死ぬまでこの人に付いていくと決めているのです。」

 はあ、と感嘆し、店主はペンと額を叩いた。

「こりゃ参ったな、すっかり当てられちまった。うらやましいねぇ、兄さん。女にそこまで云われたら、男名利に尽きるってもんだ。」

 初音は嬉しげに笑っていた。市蔵は少しも笑えなかった。苦い顔で、黙って歩きだした。初音は市蔵の腕に手を絡め、体に引っついた。よせ、と市蔵は肩を揺すったが、初音は離れなかった。縁日の人波が途切れるまで、二人は身を寄せて歩いた。

 このまま何処かに連れ去ってしまおうか、──それができたらどんなによいだろう。

 お囃子の音が遠退くと、市蔵は足を止め、初音の手を振り払った。今日はやけに機嫌が悪いのだな、と初音は思った。

 市蔵が初音に渡した櫛は、この国を離れるとき、日吉が市蔵に返していた。眠った振りをしている市蔵の帯の間に、そっと差し入れておいたのだ。

「覚えているよ。」と諭利は云った。

 やった物を返されるのは、自分の想いを拒まれたということだ。ならば、さっさと捨ててしまえばいいのに、初音の髪を梳いた櫛を捨てることができずにいた。

「おまえがこの国を出たその夜、俺は女を抱いた。灯りを消し、暗闇の中、女の体に触れた。俺はその体を、初音だと思って想いのたけを込めた。──やがて白くぜて、深く深く闇に沈んだ。」

 ──今まで、想いが絶てずにいた。日吉が帰ったと知ると、俺はその背に初音の気配を感じ、高揚した。胸が騒ぎ、数日落ち着かなかった。

「俺の中で、初音という女が確かに生きていたよ。」

 日吉は「諭利」と名を変えた。目の前の男は日吉ではない。ましてや初音ではあり得ない。

「初音は死んだのだな。」と市蔵は云った。

「ああ、死んだのだ。」と諭利は云った。

「──弔いだ。」

 市蔵は、赤い櫛を台の上に置き、隣に湯呑みを据えて酒を注いだ。







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