【玖】 文長



  一  文長  ─ ふみたけ ─

  二  滝壺  ─ たきつぼ ─

  三  邑重  ─ むらしげ ─

  四  事情  ─ じじょう ─

  五  弟分  ─ おとうとぶん ─

  六  千代  ─ ちよ ─

  七  逃げ口上  ─ にげこうじょう ─

  八  料亭  ─ りょうてい ─

  九  対峙  ─ たいじ ─









🌸  一  文長  ─ ふみたけ ─



「白浜屋の文長ふみたけを覚えているか?」


 市蔵が言った。


「──覚えていなけりゃ、鬼だな。

 おまえが殺しかけた相手さ。」


 当人が生きているからよいものの、死んでいたら、笑えない。


「覚えている。」


「文長は店を継いでいて、商いの組合の中でもイイなのさ。

 ここで商いをするとなると、嫌でも顔を合わせるよな。

 早い内に一席設けて、和解しておいたほうがよくないか。」


「会ってくれるだろうか?」


 昔のこととはいえ、痛い思いをしている方は昨日のことのように覚えているものだ。


「さっぱり水に流す、──とはならないだろうさ。

 だが、やれるだけのことはしておいた方がいい。

 会う気があるなら、繋ぎを付けてやるよ。」


「おまえは、文長と付き合いがあるのかい?」


「まあ、付き合いってほどでもないが、何度か飯を奢ってもらった。

 『滝壺の一件』があって以来、俺も文長とは会わず終いだった。

 文長は、あれからしばらくして、豊国の叔父の店に修行に出ていた。

 俺たちも、商売が忙しくなりはじめていたし、そのあとも色々あって、正直、他人のことどころじゃなかった。


 ところが、意外な場所で出くわしたのさ。

 八年前、親分の供をして邑重の襲名披露に行ったときだ。

 そこに白浜屋がいて、文長も親父に付いて来ていた。

 正装をした文長は、並み居る客に挨拶をされていた。

 俺は文長に気付いたが、声はかけなかった。俺は下っ端のやくざ者だ、ツルんでいたのも昔のことさ。

 筋者と関わりがあると知られるのは、あいつも迷惑だろうと思った。


 だがな、文長の方から俺の方へ寄って来て、懐かしそうに声をかけてきた。

 別れ際に、今度飯でも喰おう、なんて言いやがってな。

 まあ、それもとおり一遍の挨拶とくらいにしか受け取っていなかったが、ところが後日 連絡があって、本当に飯を食ったのさ。」


 文長は青白い顔をしたひ弱な少年だった。

 いつも賢しげな異国の本を持ち歩き、人と交わらずに ひっそりと読書に耽っていた。


 不良たちに金をたかられているのを助けられて以来、文長は市蔵にくっついて歩くようになった。

 なんでこいつがここにいるのだ、──と、うろんな目を向けられながら、いつの間にか仲間内に混ざり込んでいた。

 文長は、己が居ることに違和感もなくなり、追い払われる心配もないと確信すると、金や物を使い、仲間を手懐け始めた。


 市蔵は、親しみを込めて文長を「ブンチョウ」と呼んでいた。

「ふみたけ」という名は呼びにくいという理由からだが、仲間たちは侮蔑を込め、文長を「文鳥ぶんちょう」と呼んだ。

「文鳥」と呼んで蔑んでいた奴らも、徐々に文長になびいていった。

 文長は持ち上げられ、自分が「力」を持っていると錯覚し、助長していった。


「俺は、市蔵と義兄弟だ。

 ああ、──もちろん俺が兄貴分だ。

 市蔵は、俺に頭が上がらないのさ。」







🌸  二  滝壺  ─ たきつぼ ─



 実際には、市蔵の背中に隠れている卑怯者のくせして、よそではそうして吹聴ふいているのだから、お笑いだ。


 日吉は文長が嫌いだった。

 仲間だなんて認めていない。

 裕福な商家に生まれ、文長の方こそ、こちらを蔑んでいる。

 教養のない小汚い奴ら、貧しい者は金でどうとでもなると考えている。

 そんな文長に へつらう者たちも、許せなかった。

 目障りだから、一度痛い目に合わせてやろうと考えた。


 日吉は文長におもねる素振りを見せ、親しくなり、巧いこと口車に乗せて、「度胸だめしの滝」を飛ぶように仕向けたのだ。


 文長は崖の上に立った。

 これまで、誘われても、揶揄からかわれても川には入らず、はしゃぐ仲間の姿を横目に、木陰で本を読んでいた。

 川に入りたくない理由が、文長にはあったのだ。


 滝を見おろすと、恐ろしさのあまり身がすくんだ。

 だが、囃し立てる仲間を前に、逃げることはできない。

 南無三なむさん、と、目を閉じ、崖から身を投げた。


「よくやった、文長!」


「おまえを男と認めてやるぞ!」


 仲間たちは、熱狂的に文長の名を叫んだ。

 それというのも、文長が飛んだ位置は、普段少年たちが飛ぶ場所より段違いの高さで、これまで挑んだ者がいなかったのだ。


 市蔵は異変に気づいた。


「──おい、静かにしろ! 文長は何処だ!」


 市蔵の呼びかけに、無責任に騒いでいた少年たちも、はたと気づいた。

 文長は水面に浮かんでいなかった。

 辺りを見回し、姿がないと知ると、皆は慌てて捜索をはじめた。


「──いたぞ!!」


 文長は、落ちていくさなかに意識を失っていたのだ。

 川底に沈んでいた文長を引き上げ、急いで岸に運んだ。

 気絶していたのが幸いし、あまり水を飲んでいず、見た目に外傷もなかった。


 ぐったりとした文長を戸板に乗せて連れ帰ると、店の奥から文長の親父が血相を変えて走り出てきた。


「息子になにをした、このダニ共め!

 おまえたち、一匹残らず牢にぶち込んでやるぞ!」


 親父は顔を赤くし、凄んだ。


「仏の白浜屋」などと呼ばれ、いつもは恵比寿顔の親父が、閻魔のようにガッと目を見開いて睨むので、少年たちは震え上がって四方に散った。


 以来、文長の姿を見ていない。


「人ってのは、変わるものだ。

 昔の文長は青瓢箪あおびょうたんみたいだったが、今じゃ血色も肉付きもよくなって、ご立派な大店の若旦那さ。

 なにかあったら言ってくれ、昔のよしみで力になる、──なんてかすのさ。

 おまえのことを話してみる。

 商売ができるよう便宜を図ってくれと、俺からも頼んでおく。」


「すまない、世話をかけるな。

 ささやかに暮らしたいだけなのに、意外と障害が多くてね。」


 これも「身から出た錆」というものだろうね、と諭利は苦笑する。


「ここに骨を埋めるつもりなら、これを機に仕切り直しをするといい。

 ここ一番の踏ん張りどころだ。

 俺だって力になるさ、な。」


 市蔵は片目をしばたかせ、笑みをみせた。







🌸  三  邑重  ─ むらしげ ─



「おまえには面倒をかけるな。」


「気にするな。

 俺はおまえが帰って来たことが うれしいのさ。

 こうして役に立てることが、うれしいんだ。」


「文長と、会ってみるよ。」


「ああ、伝えておくぜ。」


 階段をあがって、たすき掛けの、初老の男が顔を覗かせた。

 市蔵と諭利が居るこの場は、千代ちよという女が営む小料理屋の二階だ。

 千代は以前に芸者をしていて、久芳ひさよしの名で座敷に出ていた。

 日吉も顔見知りだったその女と、市蔵は今も昵懇じっこんだった。


 市蔵は、少々陰気と見えるその男に会釈をした。

 男は上がり口に酒を乗せた盆を置くと、無言で階段を降りていった。

 千代は男を「お父さん」と呼ぶが、血の繋がりはないそうだ。


「市蔵、おまえは邑重と話しをしたことがあるかい?」


「いや、ないな。

 互いに顔を知っているという程度だ。

 邑重が、どうかしたのか。」


「邑重に、清張さんが造船の依頼をしたいと望んでいてね。」


、ってのは、おまえが世話になったといっていた商人だよな。」


 諭利はうなずいて、事の経緯を説明した。

 それから、こう付け加えた。


「おまえのとこの若いが、邑重には近づかない方がいいと忠告をしてくれたよ。

 邑重は、享楽亭の店主の紫蝶と親密な仲だそうだね。

 その紫蝶は、タチの悪い筋者と繋っているとも訊いたよ。」


「たしかに、きな臭い連中が紫蝶の周りに集まっている。

 だが、俺は邑重を悪い奴だとは思わないな。」


「どうして、そう言いきれるんだい?

 話しをしたこともないのに。」


「さっき、襲名披露に行ったと話したよな。

 俺は、屋敷の外で親分を待っていたのさ。

 他にも、俺みたいに外で主人を待っている連中がいてな、邑重は屋敷の外に出てきて、そいつらに酒を注いで回ったよ。

『お暑い中を、ご足労でございます』と、俺みたいな下っ端のやくざ者にも、同じように言葉をかけ、酒を注いだ。

 先代の邑重は人格者として知られていたが、さすがにその後継と、感心したものさ。」


 余談だが、市蔵は邑重からの酌を断っていた。

 親分の供をしてきた手前、事が起きれば身を盾にして護る立場にあった。

 市蔵は酒が強く、無論、猪口一杯ぐらいで酔いはしない。

 だが、いつでもそうした気構えでいることが重要なのだ。

 邑重も、市蔵の事情を察して無理には勧めず、あとで、「あのお若い方は、酒に手をつけなかったので」と、兆爾ちょうじに市蔵の分の酒をそっと持たせていたのだ。


「おまえが言うように、邑重が悪い男でないとして、なぜ、そんな者との関係を続けているのだろうね。」


「紫蝶と邑重は同郷だからな。

 他国にあって、同じ言葉で話せる人間には、自然と親しみを感じるものだ。

 だから、最初は紫蝶がどんな奴だか知らずに付き合っていたのだろう。

 まあ、知ったからといって悪縁てのはすぐに絶てるものでない。

 じつはな、造船所の借財を肩代わりしたのは、紫蝶なのさ。」







🌸  四  事情  ─ じじょう ─



「それで、邑重は紫蝶に頭があがらないんだね。

 なんだか複雑だね、邑重ってひとは。」


 どんな者も、それぞれに事情を抱えている。

 テツが語った邑重の身の上の一端を、諭利は思い浮かべた。


 ── 十歳で祖国をはなれ、どんな想いで今まで。


 神妙な顔つきで、思案していた諭利の口許に、ふと笑みが浮かぶ。

 見咎めた市蔵が、何だ、という目を向ける。


「──テツがね、邑重に会うのはよせと言うんだよ。

 私が邑重に言い寄られて、面倒なことになりはしないか、ってね。」


「あいつ、つまんねぇこと言いやがる。」


 呟き、市蔵は口に運びかけた猪口ちょこを離した。


「邑重が、男色家なのは周知だが、仕事に私情を持ち込む男ではない。

 手前のとこの職人に手をつけたという噂は聞かない。

 相手は もっぱら享楽亭の給仕で、特定の情人いろもいないらしい。

 惚れた腫れたの色恋が、というか、人と深い仲になるのを煩わしいと感じるしょうのようだ。」


「ふうん。

 色仕掛けは、通用しないってことかい。」


 口を半開きに、市蔵が呆れた顔で見返す。


「冗談さ。

 清張さんは清廉な人だから、そんなことをしたら叱られてしまうよ。」


「邑重はともかく、紫蝶には用心しろよ。

 あの野郎のしょうは蛇だ。

 嫉妬深く、他人の幸せを喜ばない。」


 幸せそうな者を見ると、己が棲む真っ黒い穴の中へ引きずり込んでやりたくなる、──あれはそうした輩だ。


 八年前の火事は、材木問屋の松葉屋の主人が、なたで一家を皆殺しにしたうえ、家屋に火を放ったことが原因で起きたのだ。

 人に誘われて始めた小豆相場で大損し、金の工面に困った主人は、思い悩んだ末に凄惨な犯行に及んだ。

 市蔵は、その松葉屋の件には、紫蝶とその周辺の者たちが深く関わっているとにらんでいる。


「わかった、気をつけるよ。」


「テツの奴が、おまえにくっついて回っているそうだが、迷惑をかけてはいないか。」


「いや。

 世情に詳しくて、色々と教えてもらっている。

 それに、若い奴に慕われるというのも、案外、悪くないんだよね。」


「あいつの両親、髪結いをやってるのさ。

 髪結いってのは、髪をあたってる間に客と世間話をするだろ。

 それで、テツも世情に詳しいのさ。」


 テツの両親は、腕が良く愛想も良い。

 商家や遊郭、士族の屋敷などにも出入りしている。

 物事の本質は、日常の何気ない会話に現れるもの、──じつは市蔵も、テツの持ってくる情報を頼りにしているのだ。


「テツは、おまえの力になりたいそうだよ。」


 市蔵を窺いながら、諭利は、「可愛いよね。」と囁いた。


「おまえは、テツを組に入れたくないそうだが、役に立つ奴なんじゃないのかい?」


 市蔵は片手を蟀谷こめかみに付け、指先で髪を梳くように、後方へ撫でつけた。


「この髪を、テツが切ってくれているのさ。

 少し伸びたら あいつの方から、『切りましょうか』と訊いてくる。

 お陰でここ一年、床屋には行っていないのさ。」







🌸  五  弟分  ─ おとうとぶん ─



 諭利は、どれどれ、と市蔵の後ろに回り、テツが整えたという髪の様子を眺めた。

 おもむろに指を髪に差し入れて、左右の長さを確かめてみたりとする。

 横と後ろはすっきりと刈り上げ、上は少し長めで整えて、傷痕が隠れるようにと配慮されていた。

 諭利はそこにテツの愛情を感じた。


「なかなか、上手いもんじゃないか。」


 髪をかき分けると、市蔵の頭頂部には蚯蚓腫れのような二寸ほどの古傷がある。

 棒で打たれ、皮が裂けたために縫合をした痕だった。

 諭利と出会う以前の市蔵は、ある組織のもとで銃の密造に従事させられていた。

 その傷は、銃の密輸の現場を役人に押さえられ、乱闘になった時に負ったものだ。


 『後ろから、おもい切り叩かれて、目から火花が飛び出たぜ。

 気を失いかけ、危うく捕まるところだった。』


 市蔵は、当時のことをこう語っていた。


「──テツはな、親父に付いて髪結いの修行をしていたんだが、親父とちょっとしたことで口論になって、家を出ちまったんだ。

 で、どう間違ったか、『組に入りたい』なんて云って来やがった。

 月に何人か、若い奴が組に入りたいとやって来るが、三月みつきも経てば残っているのは半分以下だ。

 晴れて入門を許されたところで、一年も経たずに辞めていく奴もいる。

 キツいだの、気にくわないことを云われただので辞める奴は、結局、この仕事をなめているんだよな。

 理想と現実は違うのさ。


 あいつも、そのうちに諦めるだろうと高を括っていたが、これが案外、続いちまってる。」


 困ったもんさ、と呟いたあとで、市蔵はここ一年ばかりの、テツの様子を語った。

 弱い者を助けたい、と云っていたテツは、最近、人助けをしていた。

 数人の男が、若い女を連れ込み宿に攫って行くのを見つけ、乗り込んで行って救出したのだ。

 その男たちは、豊国からの観光客だった。

 人気ひとけのない夜道で娘を攫い、悪さをしようと企てていた。

 番所の取り調べのなかで、男たちは、前にも似たような悪事を犯し、今回はそれを目的とした旅行であったことを白状した。


 海を渡ってしまえば占めたもの、──そんなよこしまな思惑で、この国を訪れる輩がいるのだ。


「名は訊いていないが、たしか、歳は十六だと云っていたな。

 あの野郎、助けたその娘とちょっといい仲になりかけているらしいんだよな。」


 それで市蔵は、洒落っ気をだして、服装や髪型や、顔の吹き出物なんかを気にしているテツを、ちょいちょいからかって愉しんでいるのだ。

「兄い、兄い」と慕ってくるテツを、やはり市蔵も憎からず思っているのだ。

 会話は絶えず、気づくとまた酒が底をついていた。

 からの徳利を片手に、市蔵が階段を降りかけたところ、ちょうど千代があがってきた。


 千代は、久方ぶりに帰郷した日吉に、活きのいい魚をご馳走しようと、市場まで買い出しへ行っていたのだった。







🌸  六  千代  ─ ちよ ─



 市蔵は階段を半ばまで降り、刺身が載った大皿を千代から引き受けると、二階へと運んできた。

 卓袱台に下ろした皿から、市蔵は駄賃とばかりにサッと一切れを摘み、端に添えてあった塩を付けて口に放り込んだ。

 モグモグと口を動かしながら、顔色を窺ってくる市蔵を横目に、千代は諭利を見て頬笑んだ。


「お代はこのゴロツキにツケておくから、遠慮せずに、たんとお食べよ。」


「なんだ、奢りじゃねえのか。」


「当たり前さねえ。

 ここは、お大尽だいじん相手の料亭じゃないんだ。

 そうそうタダ飯を食われてたんじゃ、こっちが干上がっちまうよ。」


 千代は、市蔵を慕って訪れる、育ち盛りの少年たちの腹を満たしてやっていた。

 身内のように親身に接してくれる千代を、少年たちは「姉さん」と呼び、時には市蔵のといった意味で「おかみさん」と言ってみたりした。

 市蔵には、千代の他にもねんごろの女が数人いるが、少年たちは千代が市蔵のおかみさんになることを望んでいた。


 千代と市蔵は、顔や雰囲気が似通っていて、以前から姉弟のように見えていた。

 諭利は、久しぶりに二人が並んでいる姿を見て、以前にも増して、しっくりと馴染んでいると感じた。

 年月を経て、市蔵に多少貫禄が付いたので、千代との七つの歳の差もあまり感じられなくなっていた。


 千代が下へ降りて行ったので、諭利は冷やかし半分に「所帯は持たないのかい?」と訊いてみた。

 すると、「千代の方にがないのだ」と市蔵は答えた。

 子でもできれば、一緒になる気構えはある、そんな市蔵の意に反し、千代は子をつくらないよう、細心しているのだった。


 千代と深い仲になり始めの頃、月の障り以外にも供寝を拒まれることがあった。

 千代は、「今は子ができ易い体になっているから、用心しなくてはいけない」と言い、「安易に女に手をだして、孕ませたりしないよう、男の方でも女の体をよく知っておく必要がある」と言って、市蔵にあれこれと講義した。

 それは、単なる色事の手管ではない。

 市蔵は、人を慈しむ心を千代に教わったのだ。


 千代がこの歳になるまで独り身を通したのは、市蔵のせいというわけではなかった。

 先ほどの男は左平さへいといい、昔、千代の母がやっていた小料理屋で板前をしていた。

 三人で、親子のように暮らしていた時期があり、千代は今でも左平を「お父さん」と呼んでいる。

 左平は無口で陰気に見られるが、人付き合いが得意でないというだけで、根は実直で優しい男だ。


 千代の母は、なんの前ぶれもなく、ある日突然姿を消した。

 千代を残し、惚れた男と行方をくらませた。

 千代は置屋に引き取られ、芸妓をしながら母が作った借金を返し続けた。

 返済を終えると、その分を貯金に回した。

 そして、金も幾らか貯まったので、贔屓にしてくれていた旦那に保証人になってもらい、余所で板前をしていた左平を呼び寄せて、一緒に店をやっているのだ。







🌸  七  逃げ口上  ─ にげこうじょう ─



「やはり海の魚は、身が締まって美味しいね。

 豊国で、魚といえば川魚だし、内陸だから生の魚なんてめったに食べれなかったよ。」


 諭利は嬉しそうに刺身を頬張っていた。

 市蔵は、肴に手をつけず、猪口に手を添えたままで何事か考えている。

 そういえば、三十路間近のせいか、「所帯を持たないのか」と問われることが多くなった。

 男の俺でこうなのだから、女のほうではこれ以上に、わずらわしい思いをしていただろう。

 若くみえるが、千代は四十近い歳だ。

 すでに婚期を逸している。

 歳を経るほど、子を産むには体に負荷がかかる。


 市蔵は、千代の下腹に肉割れの痕があるのを知っている。

 細身の千代に、肉割れある理由は一つだ。色々な女と肌を合わせるようになって知ったことだが、子を身籠って腹が競り出しくると、皮膚の下の肉が裂け、縦に蚯蚓のような赤紫の線ができる。

 それは、やがて白く薄くなるものの、痕は消えずに残るのだ。

 千代は、十七の歳に子を産んだ。

 月足らずの死産だったそうだ。これも人伝に聞いた話だ。

 近頃、千代に縁談が持ち上がっていた。

 二年前に女房を亡くした小間物屋の主人が、千代を後添いにと望んでいる。

 千代は、死んだ女房と仲良しで、遺された子供を気にかけ、面倒を見ていた。

 五つになる息子と二つになる娘は、千代にとても懐いている。

 男は千代より二つ年上で、堅実で穏やかな人柄だ。


 千代が決めることだ。

 どこの誰と所帯を持とうが、市蔵は口を出す気はなかった。

 千代に限らず、市蔵は女に執着しない。

 付き合っている女が、他所に男をつくろうと、一向に気にならないのだ。

 子でもできたら責任を取る、などと云いながら、「嫁になってくれ」の一言が云えない男に、誰が好んで添おうとするだろうか。

 誰しも、「おまえでなければ」と、切に望まれたいはずなのだ。


 ──だから、俺は拒まれるのだ。


「狡い男の逃げ口上。

 女の方にその気がない、──なんて言い方は、いただけないねえ。」


 市蔵の心を見透かしたように、諭利が呟いた。


「他に、想う相手がいるのかい?」


 いや、と、市蔵は苦笑いし、首を振る。

 恋というのは、愛しい相手のことが片時も頭から離れず、想うまいとしても消えることがない。

 叶わぬ想いと知るほどに、切なくに想いは募るのだ。

 かつて、そうした恋をした、──忘れていた淡い焔が、腹の奥底で、微かにゆらめく気配がした。


 十二年振りで帰ってきた日吉は、何処か様子が違っていた。

 以前より顔つきが穏やかになり、口にする言にも鋭い棘はなかった。

 日吉から、「所帯」なんて言葉を聞くとは思わなかった。


 市蔵は、「諭利、」と呟いて、「諭利、か、」と今度は問うように云い、首を傾げた。


「なんだい?」

「お前の名だがな、諭利と呼んだほうがいいのだろうが、どうもしっくりこねぇんだよな。」


「いいよ、日吉で。

 どちらでも、もう気にはならないんだ。」







🌸  八  料亭  ─ りょうてい ─



 市蔵の仲介で、文長と会うことになった。場所は文長の方から指定してきた。「はつはな」という料亭だ。

 刻限の少し前に、「白浜屋さまから、少し遅れるとの言伝がございました」と女中が伝えてきた。

 待つ間、庭を眺め、隣り部屋の三味線の音を聴いていた。女中が言伝を残してから、半刻ほど経とうとした頃、襖がひらき、男が姿を現した。

「待たせてしまって、すみません。仕事の用件が長引いてしまいまして。」

「いいえ、会って欲しいと頼んだのは、私です。お忙しいところ、時間をつくっていただいて、ありがとうございます。」

 文長は諭利の前に座って、顔を合わせた。穏やかに、懐かしい友を迎える表情をしている。以前の、オドオドと人の顔色を窺うような素振りはなく、堂々としたものだ。

「久しぶりですね、あれから十二年も経つのですね。市蔵から、あなたが私に会いたがっていると聞いて、驚きましたよ。──市蔵から、私がいない間のあなた方の経緯いきさつも聞いています。あなたは、国を出て旅をなさっていたそうですね。」

「あなたも、国を離れ、豊国に修行に出ていたのだと聞いています。」

「ええ、見知らぬ土地で忙しくしていたものですから、過去を省みる暇もなく、あなたとの一件も忘れていたのですがね。」

 文長は頬笑みは崩さず、意味あり気な目線を向けてきた。

「申し訳ありませんでした。若気の至りとはいえ、あなたには非道いことをいたしました。」

「そうですね。私は危うく死んでしまうところでしたよ。」

「お詫びの仕様もございません。」

「正直なことをいいますとね。あなたとは、二度と会いたくなかったのですよ。──ご自身がおっしゃったこと、覚えておいでですか。」

「覚えています」

「私に詫びる気があるのなら、私との約束を果たしていただきましょうか。」

 文長は意地悪く諭利を見ていた。会うと決めたからには、こうしたことを云われるのも、覚悟をしていた。

「今、すぐにでしょうか。」

 弄うような文長の目を、諭利は真っすぐに見返した。二人の間の空気が張り詰めた。

「冗談ですよ。」文長は、表情を和ませて云った。「今更あなたに約束を果たさせようなどと、考えてはいませんよ。どうせ、あなたは初めから私を騙すつもりだったのでしょうから。滝壺に落ちて、すっかり目が覚めました。何故、あんな目に遭わされたのかと思うと、私にも否があったのです。私は嫌なヤツでした、認めますよ。そして、あなたの口車に乗ったのは、私が未熟で弱い人間だったからです。拒むことも、私にはできたのですから。──ここであなたを吊し上げたところで、過去が消えるものではないし、こうして頼み事をしているあなたに対し、強くでるのは卑怯でもあります。仕返しをすれば、新たに遺恨が生まれるだけ。ですから、あの一件は、この場限りで互いに口にするのはやめにしましょう。」







🌸  九  対峙  ─ たいじ ─



「私は昔の私ではないし、あなたも昔のあなたではないようですしね。──名を変えられたのだと聞きましたよ。」

「ええ。諭利、といいます。」

「名を変えられた理由は、」と文長は云い、あなたも想うところがお有りになったようですね、と、訳知り顔で諭利を見た。「真っさらな紙の上に、新たな自身を記したい、──そう考えたのでしょう。私も、同じです。あの頃の私は、小心で自信がなく、それ故に卑怯な人間でした。私は己を変えたいと望みました。今、一歩、人として成長を遂げたいと思い、豊国の叔父のもとへ修行に出たのです。現状と異なった環境に身を置くことで、貴重な経験をいたしました。私は、書物から得る知識以上に、自らの体験によって培われる知識が、とても重要であると知りました。──私は変わりましたよ。昔の、愚かな私ではありません。」

「そうですね、内も外も、お変わりになったご様子です。」

 文長は満足そうに、目を細めてうなずいた。

「この地に、骨を埋めるつもりなのですよね。手伝いをいたしましょう。商いができるよう、私が口添えをいたします。」

「よろしくお願い致します。」

「──しかし、奇遇ですね、同じ時期に豊国の都にいたとは。もしかすると、何処かですれ違っていたかも知れませんね。」

「ええ、そうですね。」

 たしか、絵師の遊吉のもとにられたのだとか、──と文長が訊ねてきたので、諭利は遊吉の為人ひととなりをかい摘まんで話した。悪口を云った後に、「愛嬌ある方なのですよ」と添えるのを忘れなかった。それから二人は、当時、都で流行っていた物や人のことなどを懐かしく語り合った。帰国してから、諭利が名所巡りを楽しんでいると云うと、文長は自分が知っている穴場を幾つか教えてくれた。

 和やかに会話が弾むなか、襖が開いて女中が顔を覗かせた。

「白浜屋さん、おたなのほうから使いの方がお見えですが、いかがなさいますか。」

「今日は懐かしい友と会うから、用を云ってくるなと伝えていたのだが。」

「ですが、旦那様でないと解決できない用件であると云われますので。」

 女中も困っている。

「どうぞ、お店へ戻られてください。わたしは構いませんから。」

 しかし、と文長は諭利を見て呟いた。諭利は頬笑んで促した。

「ご免なさい。また近いうちに会いましょう。商いの件は、必ず伝えておきます。私は席をはずしますが、どうぞ、ごゆっくりなさってください。──ここの地鶏は絶品ですよ。」

 文長は片目をしばたかせ、慌ただしく立ち去った。

 文長に伝えておくべき話もあったが、と諭利は思ったが、目の前に湯気の立つ美味そうな鍋を置かれると、まあいいか、とすぐに気持ちが切り替わった。

「白浜屋さんは、さすがに良い店をご存じですね。この鶏は、本当に美味しい。」

「ありがとうございます。」

 諭利の笑顔に、仲居は誇らし気に会釈した。









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