【玖】 文長
❀
一 文長
二 滝壺
三 邑重
四 事情
五 弟分
六 千代
七 逃げ口上
八 料亭
九 対峙
🌸 一 文長
「白浜屋の
市蔵が言った。
「──覚えていなけりゃ、鬼だな。
おまえが殺しかけた相手さ。」
当人が生きているからよいものの、死んでいたら、笑えない。
「覚えている。」
「文長は店を継いでいて、商いの組合の中でもイイ顔なのさ。
ここで商いをするとなると、嫌でも顔を合わせるよな。
早い内に一席設けて、和解しておいたほうがよくないか。」
「会ってくれるだろうか?」
昔のこととはいえ、痛い思いをしている方は昨日のことのように覚えているものだ。
「さっぱり水に流す、──とはならないだろうさ。
だが、やれるだけのことはしておいた方がいい。
会う気があるなら、繋ぎを付けてやるよ。」
「おまえは、文長と付き合いがあるのかい?」
「まあ、付き合いってほどでもないが、何度か飯を奢ってもらった。
あの『滝壺の一件』があって以来、俺も文長とは会わず終いだった。
文長は、あれからしばらくして、豊国の叔父の店に修行に出ていた。
俺たちも、商売が忙しくなりはじめていたし、そのあとも色々あって、正直、他人のことどころじゃなかった。
ところが、意外な場所で出くわしたのさ。
八年前、親分の供をして邑重の襲名披露に行ったときだ。
そこに白浜屋がいて、文長も親父に付いて来ていた。
正装をした文長は、並み居る客に挨拶をされていた。
俺は文長に気付いたが、声はかけなかった。俺は下っ端のやくざ者だ、ツルんでいたのも昔のことさ。
筋者と関わりがあると知られるのは、あいつも迷惑だろうと思った。
だがな、文長の方から俺の方へ寄って来て、懐かしそうに声をかけてきた。
別れ際に、今度飯でも喰おう、なんて言いやがってな。
まあ、それもとおり一遍の挨拶とくらいにしか受け取っていなかったが、ところが後日 連絡があって、本当に飯を食ったのさ。」
文長は青白い顔をしたひ弱な少年だった。
いつも賢しげな異国の本を持ち歩き、人と交わらずに ひっそりと読書に耽っていた。
不良たちに金を
なんでこいつがここにいるのだ、──と、うろんな目を向けられながら、いつの間にか仲間内に混ざり込んでいた。
文長は、己が居ることに違和感もなくなり、追い払われる心配もないと確信すると、金や物を使い、仲間を手懐け始めた。
市蔵は、親しみを込めて文長を「ブンチョウ」と呼んでいた。
「ふみたけ」という名は呼び
「文鳥」と呼んで蔑んでいた奴らも、徐々に文長になびいていった。
文長は持ち上げられ、自分が「力」を持っていると錯覚し、助長していった。
「俺は、市蔵と義兄弟だ。
ああ、──もちろん俺が兄貴分だ。
市蔵は、俺に頭が上がらないのさ。」
🌸 二 滝壺
実際には、市蔵の背中に隠れている卑怯者のくせして、よそではそうして
日吉は文長が嫌いだった。
仲間だなんて認めていない。
裕福な商家に生まれ、文長の方こそ、こちらを蔑んでいる。
教養のない小汚い奴ら、貧しい者は金でどうとでもなると考えている。
そんな文長に へつらう者たちも、許せなかった。
目障りだから、一度痛い目に合わせてやろうと考えた。
日吉は文長に
文長は崖の上に立った。
これまで、誘われても、
川に入りたくない理由が、文長にはあったのだ。
滝を見おろすと、恐ろしさのあまり身がすくんだ。
だが、囃し立てる仲間を前に、逃げることはできない。
「よくやった、文長!」
「おまえを男と認めてやるぞ!」
仲間たちは、熱狂的に文長の名を叫んだ。
それというのも、文長が飛んだ位置は、普段少年たちが飛ぶ場所より段違いの高さで、これまで挑んだ者がいなかったのだ。
市蔵は異変に気づいた。
「──おい、静かにしろ! 文長は何処だ!」
市蔵の呼びかけに、無責任に騒いでいた少年たちも、はたと気づいた。
文長は水面に浮かんでいなかった。
辺りを見回し、姿がないと知ると、皆は慌てて捜索をはじめた。
「──いたぞ!!」
文長は、落ちていくさなかに意識を失っていたのだ。
川底に沈んでいた文長を引き上げ、急いで岸に運んだ。
気絶していたのが幸いし、あまり水を飲んでいず、見た目に外傷もなかった。
ぐったりとした文長を戸板に乗せて連れ帰ると、店の奥から文長の親父が血相を変えて走り出てきた。
「息子になにをした、このダニ共め!
おまえたち、一匹残らず牢にぶち込んでやるぞ!」
親父は顔を赤くし、凄んだ。
「仏の白浜屋」などと呼ばれ、いつもは恵比寿顔の親父が、閻魔のようにガッと目を見開いて睨むので、少年たちは震え上がって四方に散った。
以来、文長の姿を見ていない。
「人ってのは、変わるものだ。
昔の文長は
なにかあったら言ってくれ、昔のよしみで力になる、──なんて
おまえのことを話してみる。
商売ができるよう便宜を図ってくれと、俺からも頼んでおく。」
「すまない、世話をかけるな。
ささやかに暮らしたいだけなのに、意外と障害が多くてね。」
これも「身から出た錆」というものだろうね、と諭利は苦笑する。
「ここに骨を埋めるつもりなら、これを機に仕切り直しをするといい。
ここ一番の踏ん張りどころだ。
俺だって力になるさ、な。」
市蔵は片目を
🌸 三 邑重
「おまえには面倒をかけるな。」
「気にするな。
俺はおまえが帰って来たことが うれしいのさ。
こうして役に立てることが、うれしいんだ。」
「文長と、会ってみるよ。」
「ああ、伝えておくぜ。」
階段をあがって、たすき掛けの、初老の男が顔を覗かせた。
市蔵と諭利が居るこの場は、
千代は以前に芸者をしていて、
日吉も顔見知りだったその女と、市蔵は今も
市蔵は、少々陰気と見えるその男に会釈をした。
男は上がり口に酒を乗せた盆を置くと、無言で階段を降りていった。
千代は男を「お父さん」と呼ぶが、血の繋がりはないそうだ。
「市蔵、おまえは邑重と話しをしたことがあるかい?」
「いや、ないな。
互いに顔を知っているという程度だ。
邑重が、どうかしたのか。」
「邑重に、清張さんが造船の依頼をしたいと望んでいてね。」
「清張、ってのは、おまえが世話になったといっていた商人だよな。」
諭利は
それから、こう付け加えた。
「おまえのとこの若いのが、邑重には近づかない方がいいと忠告をしてくれたよ。
邑重は、享楽亭の店主の紫蝶と親密な仲だそうだね。
その紫蝶は、タチの悪い筋者と繋っているとも訊いたよ。」
「たしかに、
だが、俺は邑重を悪い奴だとは思わないな。」
「どうして、そう言いきれるんだい?
話しをしたこともないのに。」
「さっき、襲名披露に行ったと話したよな。
俺は、屋敷の外で親分を待っていたのさ。
他にも、俺みたいに外で主人を待っている連中がいてな、邑重は屋敷の外に出てきて、そいつらに酒を注いで回ったよ。
『お暑い中を、ご足労でございます』と、俺みたいな下っ端のやくざ者にも、同じように言葉をかけ、酒を注いだ。
先代の邑重は人格者として知られていたが、さすがにその後継と、感心したものさ。」
余談だが、市蔵は邑重からの酌を断っていた。
親分の供をしてきた手前、事が起きれば身を盾にして護る立場にあった。
市蔵は酒が強く、無論、猪口一杯ぐらいで酔いはしない。
だが、いつでもそうした気構えでいることが重要なのだ。
邑重も、市蔵の事情を察して無理には勧めず、あとで、「あのお若い方は、酒に手をつけなかったので」と、
「おまえが言うように、邑重が悪い男でないとして、なぜ、そんな者との関係を続けているのだろうね。」
「紫蝶と邑重は同郷だからな。
他国にあって、同じ言葉で話せる人間には、自然と親しみを感じるものだ。
だから、最初は紫蝶がどんな奴だか知らずに付き合っていたのだろう。
まあ、知ったからといって悪縁てのはすぐに絶てるものでない。
じつはな、造船所の借財を肩代わりしたのは、紫蝶なのさ。」
🌸 四 事情
「それで、邑重は紫蝶に頭があがらないんだね。
なんだか複雑だね、邑重ってひとは。」
どんな者も、それぞれに事情を抱えている。
テツが語った邑重の身の上の一端を、諭利は思い浮かべた。
── 十歳で祖国をはなれ、どんな想いで今まで。
神妙な顔つきで、思案していた諭利の口許に、ふと笑みが浮かぶ。
見咎めた市蔵が、何だ、という目を向ける。
「──テツがね、邑重に会うのはよせと言うんだよ。
私が邑重に言い寄られて、面倒なことになりはしないか、ってね。」
「あいつ、つまんねぇこと言いやがる。」
呟き、市蔵は口に運びかけた
「邑重が、男色家なのは周知だが、仕事に私情を持ち込む男ではない。
手前のとこの職人に手をつけたという噂は聞かない。
相手は もっぱら享楽亭の給仕で、特定の
惚れた腫れたの色恋が、というか、人と深い仲になるのを煩わしいと感じる
「ふうん。
色仕掛けは、通用しないってことかい。」
口を半開きに、市蔵が呆れた顔で見返す。
「冗談さ。
清張さんは清廉な人だから、そんなことをしたら叱られてしまうよ。」
「邑重はともかく、紫蝶には用心しろよ。
あの野郎の
嫉妬深く、他人の幸せを喜ばない。」
幸せそうな者を見ると、己が棲む真っ黒い穴の中へ引きずり込んでやりたくなる、──あれはそうした輩だ。
八年前の火事は、材木問屋の松葉屋の主人が、
人に誘われて始めた小豆相場で大損し、金の工面に困った主人は、思い悩んだ末に凄惨な犯行に及んだ。
市蔵は、その松葉屋の件には、紫蝶とその周辺の者たちが深く関わっているとにらんでいる。
「わかった、気をつけるよ。」
「テツの奴が、おまえにくっついて回っているそうだが、迷惑をかけてはいないか。」
「いや。
世情に詳しくて、色々と教えてもらっている。
それに、若い奴に慕われるというのも、案外、悪くないんだよね。」
「あいつの両親、髪結いをやってるのさ。
髪結いってのは、髪をあたってる間に客と世間話をするだろ。
それで、テツも世情に詳しいのさ。」
テツの両親は、腕が良く愛想も良い。
商家や遊郭、士族の屋敷などにも出入りしている。
物事の本質は、日常の何気ない会話に現れるもの、──じつは市蔵も、テツの持ってくる情報を頼りにしているのだ。
「テツは、おまえの力になりたいそうだよ。」
市蔵を窺いながら、諭利は、「可愛いよね。」と囁いた。
「おまえは、テツを組に入れたくないそうだが、役に立つ奴なんじゃないのかい?」
市蔵は片手を
「この髪を、テツが切ってくれているのさ。
少し伸びたら あいつの方から、『切りましょうか』と訊いてくる。
お陰でここ一年、床屋には行っていないのさ。」
🌸 五 弟分
諭利は、どれどれ、と市蔵の後ろに回り、テツが整えたという髪の様子を眺めた。
おもむろに指を髪に差し入れて、左右の長さを確かめてみたりとする。
横と後ろはすっきりと刈り上げ、上は少し長めで整えて、傷痕が隠れるようにと配慮されていた。
諭利はそこにテツの愛情を感じた。
「なかなか、上手いもんじゃないか。」
髪をかき分けると、市蔵の頭頂部には蚯蚓腫れのような二寸ほどの古傷がある。
棒で打たれ、皮が裂けたために縫合をした痕だった。
諭利と出会う以前の市蔵は、ある組織のもとで銃の密造に従事させられていた。
その傷は、銃の密輸の現場を役人に押さえられ、乱闘になった時に負ったものだ。
『後ろから、おもい切り叩かれて、目から火花が飛び出たぜ。
気を失いかけ、危うく捕まるところだった。』
市蔵は、当時のことをこう語っていた。
「──テツはな、親父に付いて髪結いの修行をしていたんだが、親父とちょっとしたことで口論になって、家を出ちまったんだ。
で、どう間違ったか、『組に入りたい』なんて云って来やがった。
月に何人か、若い奴が組に入りたいとやって来るが、
晴れて入門を許されたところで、一年も経たずに辞めていく奴もいる。
キツいだの、気にくわないことを云われただので辞める奴は、結局、この仕事をなめているんだよな。
理想と現実は違うのさ。
あいつも、そのうちに諦めるだろうと高を括っていたが、これが案外、続いちまってる。」
困ったもんさ、と呟いたあとで、市蔵はここ一年ばかりの、テツの様子を語った。
弱い者を助けたい、と云っていたテツは、最近、人助けをしていた。
数人の男が、若い女を連れ込み宿に攫って行くのを見つけ、乗り込んで行って救出したのだ。
その男たちは、豊国からの観光客だった。
番所の取り調べのなかで、男たちは、前にも似たような悪事を犯し、今回はそれを目的とした旅行であったことを白状した。
海を渡ってしまえば占めたもの、──そんな
「名は訊いていないが、たしか、歳は十六だと云っていたな。
あの野郎、助けたその娘とちょっといい仲になりかけているらしいんだよな。」
それで市蔵は、洒落っ気をだして、服装や髪型や、顔の吹き出物なんかを気にしているテツを、ちょいちょいからかって愉しんでいるのだ。
「兄い、兄い」と慕ってくるテツを、やはり市蔵も憎からず思っているのだ。
会話は絶えず、気づくとまた酒が底をついていた。
千代は、久方ぶりに帰郷した日吉に、活きのいい魚をご馳走しようと、市場まで買い出しへ行っていたのだった。
🌸 六 千代
市蔵は階段を半ばまで降り、刺身が載った大皿を千代から引き受けると、二階へと運んできた。
卓袱台に下ろした皿から、市蔵は駄賃とばかりにサッと一切れを摘み、端に添えてあった塩を付けて口に放り込んだ。
モグモグと口を動かしながら、顔色を窺ってくる市蔵を横目に、千代は諭利を見て頬笑んだ。
「お代はこのゴロツキにツケておくから、遠慮せずに、たんとお食べよ。」
「なんだ、奢りじゃねえのか。」
「当たり前さねえ。
ここは、お
そうそうタダ飯を食われてたんじゃ、こっちが干上がっちまうよ。」
千代は、市蔵を慕って訪れる、育ち盛りの少年たちの腹を満たしてやっていた。
身内のように親身に接してくれる千代を、少年たちは「姉さん」と呼び、時には市蔵のつれあいといった意味で「おかみさん」と言ってみたりした。
市蔵には、千代の他にも
千代と市蔵は、顔や雰囲気が似通っていて、以前から姉弟のように見えていた。
諭利は、久しぶりに二人が並んでいる姿を見て、以前にも増して、しっくりと馴染んでいると感じた。
年月を経て、市蔵に多少貫禄が付いたので、千代との七つの歳の差もあまり感じられなくなっていた。
千代が下へ降りて行ったので、諭利は冷やかし半分に「所帯は持たないのかい?」と訊いてみた。
すると、「千代の方にその気がないのだ」と市蔵は答えた。
子でもできれば、一緒になる気構えはある、そんな市蔵の意に反し、千代は子をつくらないよう、細心しているのだった。
千代と深い仲になり始めの頃、月の障り以外にも供寝を拒まれることがあった。
千代は、「今は子ができ易い体になっているから、用心しなくてはいけない」と言い、「安易に女に手をだして、孕ませたりしないよう、男の方でも女の体をよく知っておく必要がある」と言って、市蔵にあれこれと講義した。
それは、単なる色事の手管ではない。
市蔵は、人を慈しむ心を千代に教わったのだ。
千代がこの歳になるまで独り身を通したのは、市蔵のせいというわけではなかった。
先ほどの男は
三人で、親子のように暮らしていた時期があり、千代は今でも左平を「お父さん」と呼んでいる。
左平は無口で陰気に見られるが、人付き合いが得意でないというだけで、根は実直で優しい男だ。
千代の母は、なんの前ぶれもなく、ある日突然姿を消した。
千代を残し、惚れた男と行方をくらませた。
千代は置屋に引き取られ、芸妓をしながら母が作った借金を返し続けた。
返済を終えると、その分を貯金に回した。
そして、金も幾らか貯まったので、贔屓にしてくれていた旦那に保証人になってもらい、余所で板前をしていた左平を呼び寄せて、一緒に店をやっているのだ。
🌸 七 逃げ口上
「やはり海の魚は、身が締まって美味しいね。
豊国で、魚といえば川魚だし、内陸だから生の魚なんてめったに食べれなかったよ。」
諭利は嬉しそうに刺身を頬張っていた。
市蔵は、肴に手をつけず、猪口に手を添えたままで何事か考えている。
そういえば、三十路間近のせいか、「所帯を持たないのか」と問われることが多くなった。
男の俺でこうなのだから、女のほうではこれ以上に、
若くみえるが、千代は四十近い歳だ。
すでに婚期を逸している。
歳を経るほど、子を産むには体に負荷がかかる。
市蔵は、千代の下腹に肉割れの痕があるのを知っている。
細身の千代に、肉割れある理由は一つだ。色々な女と肌を合わせるようになって知ったことだが、子を身籠って腹が競り出しくると、皮膚の下の肉が裂け、縦に蚯蚓のような赤紫の線ができる。
それは、やがて白く薄くなるものの、痕は消えずに残るのだ。
千代は、十七の歳に子を産んだ。
月足らずの死産だったそうだ。これも人伝に聞いた話だ。
近頃、千代に縁談が持ち上がっていた。
二年前に女房を亡くした小間物屋の主人が、千代を後添いにと望んでいる。
千代は、死んだ女房と仲良しで、遺された子供を気にかけ、面倒を見ていた。
五つになる息子と二つになる娘は、千代にとても懐いている。
男は千代より二つ年上で、堅実で穏やかな人柄だ。
千代が決めることだ。
どこの誰と所帯を持とうが、市蔵は口を出す気はなかった。
千代に限らず、市蔵は女に執着しない。
付き合っている女が、他所に男をつくろうと、一向に気にならないのだ。
子でもできたら責任を取る、などと云いながら、「嫁になってくれ」の一言が云えない男に、誰が好んで添おうとするだろうか。
誰しも、「おまえでなければ」と、切に望まれたいはずなのだ。
──だから、俺は拒まれるのだ。
「狡い男の逃げ口上。
女の方にその気がない、──なんて言い方は、いただけないねえ。」
市蔵の心を見透かしたように、諭利が呟いた。
「他に、想う相手がいるのかい?」
いや、と、市蔵は苦笑いし、首を振る。
恋というのは、愛しい相手のことが片時も頭から離れず、想うまいとしても消えることがない。
叶わぬ想いと知るほどに、切なくに想いは募るのだ。
かつて、そうした恋をした、──忘れていた淡い焔が、腹の奥底で、微かにゆらめく気配がした。
十二年振りで帰ってきた日吉は、何処か様子が違っていた。
以前より顔つきが穏やかになり、口にする言にも鋭い棘はなかった。
日吉から、「所帯」なんて言葉を聞くとは思わなかった。
市蔵は、「諭利、」と呟いて、「諭利、か、」と今度は問うように云い、首を傾げた。
「なんだい?」
「お前の名だがな、諭利と呼んだほうがいいのだろうが、どうもしっくりこねぇんだよな。」
「いいよ、日吉で。
どちらでも、もう気にはならないんだ。」
🌸 八 料亭
市蔵の仲介で、文長と会うことになった。場所は文長の方から指定してきた。「はつはな」という料亭だ。
刻限の少し前に、「白浜屋さまから、少し遅れるとの言伝がございました」と女中が伝えてきた。
待つ間、庭を眺め、隣り部屋の三味線の音を聴いていた。女中が言伝を残してから、半刻ほど経とうとした頃、襖がひらき、男が姿を現した。
「待たせてしまって、すみません。仕事の用件が長引いてしまいまして。」
「いいえ、会って欲しいと頼んだのは、私です。お忙しいところ、時間をつくっていただいて、ありがとうございます。」
文長は諭利の前に座って、顔を合わせた。穏やかに、懐かしい友を迎える表情をしている。以前の、オドオドと人の顔色を窺うような素振りはなく、堂々としたものだ。
「久しぶりですね、あれから十二年も経つのですね。市蔵から、あなたが私に会いたがっていると聞いて、驚きましたよ。──市蔵から、私がいない間のあなた方の
「あなたも、国を離れ、豊国に修行に出ていたのだと聞いています。」
「ええ、見知らぬ土地で忙しくしていたものですから、過去を省みる暇もなく、あなたとの一件も忘れていたのですがね。」
文長は頬笑みは崩さず、意味あり気な目線を向けてきた。
「申し訳ありませんでした。若気の至りとはいえ、あなたには非道いことをいたしました。」
「そうですね。私は危うく死んでしまうところでしたよ。」
「お詫びの仕様もございません。」
「正直なことをいいますとね。あなたとは、二度と会いたくなかったのですよ。──ご自身がおっしゃったこと、覚えておいでですか。」
「覚えています」
「私に詫びる気があるのなら、私との約束を果たしていただきましょうか。」
文長は意地悪く諭利を見ていた。会うと決めたからには、こうしたことを云われるのも、覚悟をしていた。
「今、すぐにでしょうか。」
弄うような文長の目を、諭利は真っすぐに見返した。二人の間の空気が張り詰めた。
「冗談ですよ。」文長は、表情を和ませて云った。「今更あなたに約束を果たさせようなどと、考えてはいませんよ。どうせ、あなたは初めから私を騙すつもりだったのでしょうから。滝壺に落ちて、すっかり目が覚めました。何故、あんな目に遭わされたのかと思うと、私にも否があったのです。私は嫌なヤツでした、認めますよ。そして、あなたの口車に乗ったのは、私が未熟で弱い人間だったからです。拒むことも、私にはできたのですから。──ここであなたを吊し上げたところで、過去が消えるものではないし、こうして頼み事をしているあなたに対し、強くでるのは卑怯でもあります。仕返しをすれば、新たに遺恨が生まれるだけ。ですから、あの一件は、この場限りで互いに口にするのはやめにしましょう。」
🌸 九 対峙
「私は昔の私ではないし、あなたも昔のあなたではないようですしね。──名を変えられたのだと聞きましたよ。」
「ええ。諭利、といいます。」
「名を変えられた理由は、」と文長は云い、あなたも想うところがお有りになったようですね、と、訳知り顔で諭利を見た。「真っさらな紙の上に、新たな自身を記したい、──そう考えたのでしょう。私も、同じです。あの頃の私は、小心で自信がなく、それ故に卑怯な人間でした。私は己を変えたいと望みました。今、一歩、人として成長を遂げたいと思い、豊国の叔父のもとへ修行に出たのです。現状と異なった環境に身を置くことで、貴重な経験をいたしました。私は、書物から得る知識以上に、自らの体験によって培われる知識が、とても重要であると知りました。──私は変わりましたよ。昔の、愚かな私ではありません。」
「そうですね、内も外も、お変わりになったご様子です。」
文長は満足そうに、目を細めてうなずいた。
「この地に、骨を埋めるつもりなのですよね。手伝いをいたしましょう。商いができるよう、私が口添えをいたします。」
「よろしくお願い致します。」
「──しかし、奇遇ですね、同じ時期に豊国の都にいたとは。もしかすると、何処かですれ違っていたかも知れませんね。」
「ええ、そうですね。」
たしか、絵師の遊吉のもとに
和やかに会話が弾むなか、襖が開いて女中が顔を覗かせた。
「白浜屋さん、お
「今日は懐かしい友と会うから、用を云ってくるなと伝えていたのだが。」
「ですが、旦那様でないと解決できない用件であると云われますので。」
女中も困っている。
「どうぞ、お店へ戻られてください。わたしは構いませんから。」
しかし、と文長は諭利を見て呟いた。諭利は頬笑んで促した。
「ご免なさい。また近いうちに会いましょう。商いの件は、必ず伝えておきます。私は席をはずしますが、どうぞ、ごゆっくりなさってください。──ここの地鶏は絶品ですよ。」
文長は片目をしばたかせ、慌ただしく立ち去った。
文長に伝えておくべき話もあったが、と諭利は思ったが、目の前に湯気の立つ美味そうな鍋を置かれると、まあいいか、とすぐに気持ちが切り替わった。
「白浜屋さんは、さすがに良い店をご存じですね。この鶏は、本当に美味しい。」
「ありがとうございます。」
諭利の笑顔に、仲居は誇らし気に会釈した。
❀
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます