【漆】 明晏仁



  一  明晏仁  ─ みょうあんじん ─

  二  対話  ─ たいわ ─

  三  悪い癖  ─ わるいくせ ─

  四  密事  ─ みつじ ─

  五  造船  ─ ぞうせん ─

  六  芙 啓  ─ ふ けい ─

  七  笛  ─ ふえ ─

  八  お囃子  ─ おはやし ─

  九  役目  ─ やくめ ─









🌸  一  明晏仁  ─ みょうあんじん ─



「私は港で珠国に渡る船を待っていました。

潮風にあたりながら、遠く海原を眺めるうち、心残りに気づいたのです。

帰郷したら、商いをはじめるつもりでおりましたので、こうした気ままな旅も終わりです。

ならば妙覚寺へ、私は一度、明晏仁みょうあんじんに会ってみたいと思ったのです。


船には乗らず、衛国へと向かいました。」


「では、あなたは実際に明晏仁と会われているのですね。」


「ええ、寺の調理場で働いていましたからね。

けれど、声をかけていただき、言葉を交わすまでになれたのは、つい最近のことです。

私は、何処かの国の間者だと見られ、警戒されていたようです。

それも仕方ないことで、実際に明晏仁には監視が付いていたのです。

俗世を離れ、一線を退いたとはいえ、王の側近たちは、明晏仁の動向に関心がありました。

隣国と手を結び、王座を狙うことも考えられる、──明晏仁の名声は諸国に伝わっていますからね。


先の王は臨床の際、年若い王の後見人として礼昂君を指名なさいました。

そして、王の器でない、素養なしと判断したときには、代わって王位に就くようにと言い、亡くなられているのです。


それというのも、衛国は三方を大国に挟まれた小国です。

各国と対等に渡り合ってゆくには、知略に長け、強い意志と柔軟性を兼ね備えた王が必要です。


『戦略の奇才』として知られた明晏仁の存在こそが、三国へ睨みを利かせ、侵攻の抑止となっている。

目障りなこぶであるけれど、迂闊に取り除くこともできない、──国政を意のままに動かしたい王の側近からすれば、明晏仁はじつに厄介な存在でした。」


礼昂君は、先王の遺言どおり、年若い衛王の後見として政務にあたった。

そしてある時、同盟国である徐国の要請を受けて煕国に出兵した。

敵方を、あとひと息で殲滅できるところまで追い込みながら、なぜか指揮を譲り、わずかな側近を伴って帰国したのだ。

帰るなり、礼昂君は床に伏せた。

三月みつきぶりに城に出仕すると、すでに剃髪を済ませた姿であった。


『じつは、──以前から胸を患っており、政務に耐える体ではない。

こうして動けるまでに回復したが、しばらくは安静が必要であり、医師からは、空気の良い所で静養するよう薦められている。

ひいては家督を嫡子に譲ることをお許し願いたい。

本日はこうした理由で参内した次第である。』


こうして、明晏仁は片田舎の山寺へ引き籠った。


「それにしても、よわい三十二という若さで世を捨てるなど、体がよほどに悪いのか、もしくは何か企みがあるとしか思えません。

明晏仁の決断は周囲に様々な憶測を呼んでおりました。


礼昂君、改め「明晏仁」は、年老いた下男ひとりを連れ、さびれた小さな山寺に入りました。

ですが、国としては明晏仁の身に大事があっては困ります。

王の側近たちは、護衛の兵士やら、下働きの者やらを送り込んできたのです。」







🌸  二  対話  ─ たいわ ─



「明晏仁は、心穏やかに静養したいとの考えから、あえて人の通わぬ山寺を選ばれたのです。

物々しい警護をされるのは不本意でしたが、王が遣わした者たちを送り返し、『二心あり』などと痛くもない腹を探られては適いません。

それゆえ、なされるまま受け入れでいたのです。


寺に入れるよう、私は出入りの庭師に仕事を手伝わせてほしいと頼みました。

そうして運良く、親しくなった下働きの者から、住み込みの炊事係の仕事を世話してもらえたのです。


明晏仁さまと言葉を交わす機会を得たのは、それから三月みつきほど後のことでした。

あの方は山歩きを日課にされていて、その日、散策から戻ったあの方は、喉が渇いた、と茶を所望されました。

お茶を差しあげると、一口含まれてから、『変わった風味だが、これはそなたが仕入れたものか』とお訊ねになりました。

私は、『知り合いの商人より仕入れております』と答えました。

そして、訊かれるまま、茶について知る限りのことをお教えいたしました。

それを機に、あの方は私に言葉をかけてくださるようになったのです。


時折、あの方は私を部屋へ呼び、茶を所望されました。

茶を飲みながらあの方は、私の素姓なども訊ねてきました。

旅の話しなどをするうち、私たちは少しずつ打ち解けていったのです。

私は思い切って、『伯洛陵の戦い』で、あなたの敵方にいたのです、と話してみました。

あの方は、我々の退却の経路について興味を持たれ、矢継ぎ早に質問をされました。

話しを終えると、あの方は、『敵ながら感服した』と仰り、『あの戦いで、私は勝利したとはいえない、敵軍を深追いし、いたずらに味方の死傷者を増やしたことを、今も悔やんでいる』とも語ってくださいました。

そして、『すでに過去の出来事で、自分も世を捨てた身であるから、今は敵も味方もない』と私に言ってくださいました。


あの方は私に、苦楽を共にした戦友のような親しみを、感じてくれたようでした。

こうして、あの方の人為ひととなりを知ることができたので、私は故郷へ帰ろうと心を決めました。


留まって欲しい、とあの方から請われたのですが、お断りいたしました。」


ここで、なぜだか承の顔を意味あり気に見て、諭利は声をひそめた。


「英雄色を好む、と申します。

あの方も多分に漏れずお盛んで、何より三十路みそじ半ばの男盛りでございます。

すでに二年余り、女人と触れ合わない日々を送っておられました。

無理に精を溜めおくのも、体にはこくでございます。

ですから、お別れに一度だけ、お伽をさせていただいたのです。

霊鎮めのつもりでお相手をしましたのに、鎮まるどころか精はたぎってとどまらず、夜毎よごと体を求めてこられますもので、耐えられず、じつは、逃げて来たのでございます。」


──この人は、なにを言っているのだろう。


承が内容を理解するまでに、間が空いた。







🌸  三  悪い癖  ─ わるいくせ ─



「胸を患っていらして、医師から、心の臓に負担をかける行為は避けるようにと告げられているのです。

そのうえ、これが元で腎虚じんきょにでもなられては、私は罪に問われかねません。」


──この人は、衆道の相手をしていたのか。


それに思い当たると、承は胸が締めつけられるような息苦しさを感じた。

諭利の顔を見れず、茶杯に目を落としている。


諭利は、貴妃のように美しい面立ちで、微笑はそこはかとない色香を漂わせる。

物腰も柔らかで、何気ない所作のひとつひとつが、舞踊のように美しい。

明晏仁の目に留まるのも、無理からぬこと。

明晏仁にでられるのは、栄誉なことで、決して恥ではない。

だから、この人を卑しい目で見ることはすまい。


平静であろうと努めるほど、承の心はますます乱れた。

胸は高々と脈打ち、頬の辺りがチリチリとして、試合いの相手に対峙した時ような緊張が体を走る。

返す言葉はない。


「嘘です。

ごめんなさい、承様。

あなたが明晏仁に傾倒している風なので、つい冗談を申しました。

私は好意を持った方を揶揄からかってしまう、悪い癖があるのです。」


こうした話は苦手らしい。

どう対応したらよいものかと、承は悩んでしまっている。

こじれる前に、諭利は早めに打ち消した。


一方、承は険しい顔をして、うつむいたまま何事か考えている。


──芸人というものは、望まれれば、女にも男にも身を委ねるものだと聞くが、……


納得できそうな理由を、承はまだ探していた。


──だが、諭利は芸人ではないと云っていた、……まてよ、今だと言ったのか?


この生真面目な少年は、自分が揶揄われていたのだと気づくのにも、少々間が空いた。

承が顔をあげると、諭利はすまなそうに苦笑いしていた。


「私があの方にして差しあげたのは、茶を淹れることくらいでございます。

くつろがれ、『お前の淹れる茶は美味い』と言ってくださいました。

こちらは本当です。」


揶揄われて頭にきたというより、そうではないとわかって、ホッとしている。

呼吸も、すっと糸がほどけたように楽になった。

それでも、諭利と顔が合うと、承はぎこちなく視線を外した。


「承様、草餅のおかわりはいかがですか?

お茶も淹れ直しますよ。」


「いえ、もう結構です。

そろそろ修練所に行く刻限ですから、私はこれで失礼します。」


「今度、私の住まいの方にお越しください。

住む場所が決まったのです。

町から少し遠い場所にあるので、お気軽に、とはいい難いのですがね。

東風村の外れの、岡の上に建つ庵です。

近くに蓮沼神社という小さな社があります。

その名のとおり、社の裏には白蓮の沼があり、明け方の風に乗って、蓮の花の高貴な香りが私の住まいまで漂ってまいります。

早起きをして、毎朝 社の湧き水を汲みにゆき、その水で茶を淹れて、ゆったりと朝の一時ひとときを愉しんでおります。」







🌸  四  密事  ─ みつじ ─



「ご案内いたしますので、お時間があるときに、ぜひ一度いらしてください。

今度は、あなた好みのお茶をご用意しておきますよ。」


諭利は、承がこの茶をどう味わったのか、わかっているらしい。


「お気遣い、ありがとうございます。

貴重な体験を聞かせていただいて、色々と勉強させてもらいました。

近々、あなたの住まいへも寄らせていただきます。」


承は、筆入れと数冊の本が入った包みを抱えて立ち上がった。

土間に下りると、芙啓に向きなおって礼をした。


「先生、ではまた明後日にお伺いいたします。」


諭利も土間におりて、戸の外で承を見送った。

承は表情を堅くしたまま、諭利に会釈をすると背を向けた。


承の姿が大豆畑の向こうへ見えなくなると、諭利は片手を額に当て、くすくす笑いだした。


「諭利」と、芙啓がその様子をたしなめた。


「承様は、本当に素直でかわいらしい方ですね。

なにを考えているか、顔にすべて書いてあるのですから。

仲良くなれそうな気がいたします。」


嬉しそうに、諭利は言った。

囲炉裏の前にもどると、諭利はお茶を入れ直し、芙啓へすすめた。


「先生は、櫻家の子息たちと親しいのですよね。

長男のかい様は、年少の子供たちに字を教えに訪れるのだと聞いています。

次男のきょう様も時折現れて、先生と語っていくそうですね。

承様は、先生に詩を習っていると言っていましたよ。

ここに来れば、遠からず他のおふた方ともお会いできるでしょう。

どちらも評判の若者で、会うのが楽しみです。

特に、開様はなかなか面白い事をなさっているご様子なので、お話しをお伺いしたいと思っているのです。

先生は、ご存じではありませんか? 船を造らせているという話を。

それもかなり大型の、戦艦をです。


豊国との取り決めで、この国では戦艦を持つことが禁じられているはず。

商船にしても、大型のものは所有できないし、一般の漁船についても登録が義務づけられている。

ちょうど清張さんが、商船を造りたいと仰って、優れた造船の技術を誇る珠国の、なかでも名工と名高い船大工の棟梁『邑重むらしげ』に仕事を依頼したいと望まれているのです。

私は手紙をお預りしていて、何度か造船所を訪ねたのですが、いつも邑重は不在で、会うことができずにいるのです。

対応した者からは、邑重は『磐居いわい島』に行っている、といわれるばかりで、尋ねても、いつ帰るとも、そこでなにをしているのだとも話してはくれないのです。

邑重が磐居島にいるというのは本当のようですが、それを知る者もあまりいないのです。


磐居島では、嵐によって壊されたやしろの修復がおこなわれているのですよね。

櫻家の領地の山林から、大量に木材が切り出され、島へ運び入れられている。

それが、社の修復をするには、十分過ぎる木材の量なのだそうで。

社の修復に乗じ、秘密裏に船を造らせているとは考えられませんか?」







🌸  五  造船  ─ ぞうせん ─



「開様は近年、軍の強化をおこなっているそうですね。

他国を頼みにしない自主自衛を信念とされている。

珠は島国であるので、実際に他国と戦争となった場合には海原が戦場となる。

その昔、珠の軍は、海上においては敵無しであったと聞きました。

良く風を読み、琴弦を奏でるように船を操る『風神』と呼ばれる将たちがいたとか。……」


百年前、豊国とよう国の間で戦争が起きた。

珠は朱国の直轄地であるので、諸国に対して中立を守らねばならない立場にあった。

けれど、珠王は窯に加勢をしたいという想いを持っていた。

窯と珠は代々、王族同士が婚姻で結ばれ、血縁で近しい間柄にあったからだ。

静観していた珠王だが、窯国を、戦わざるをえない状況へと追い込んでいく、豊国の卑劣な遣り口を目の当たりにすると、加勢をせずにはいられなくなった。


それは一年余りの戦いだった。

一時は勝利を修めることもあったが、国力で勝る大国の豊に、窯と珠の連合軍は次第に敗色の様相を深めた。

元は豊国と窯国の争いであるのだが、敗戦となれば、やはり珠国も無傷ではいられない。

代償として、大型の戦艦を持つことは禁じられ、最強を誇った珠の海軍は消滅した。


これ以降、商船や漁船についても細かい規定が設けられ、仕上がったものには検閲が義務づけられた。

調べは豊国の役人がおこなうので、通してもらうために心付けを添えた。

そこが賄賂の温床となって、悪しき慣例は現在も続いている。

物資についても、珠国から豊国に送られるものには、倍の関税がかけられる。


隆盛を窮めた朱国の権威は失われ、天下の覇権は今や豊国へと移っていた。

豊は朱に敬意を払いわするが、朱に豊を抑える力はない、珠国の民は豊国の理不尽な要求を受け入れねばならなかった。

これはすべて、中立であらねばならない珠国が、特定の国に肩入れをしたことに、端を発していた。


珠国は豊国による九十七年の統治を受け入れた。

九十七年という半端な数字は、ちょうど九十七を足すと珠国の建国千年になるという理由からだ。

本土決戦で、珠国が壊滅的な事態に陥ることを避けるため、珠王が苦渋の決断をしたのだった。


だが、九十七年の統治もあと五年で終わりを告げる。

その時になって豊国はどういった出方をするのか、この国の為政者にとってそれが一番の気がかりだった。

豊国の支配から解放される、様々な縛りが無くなるのだと、民衆の間では安楽な気運が高まって、ここ数年、国全体が活気づいている。

豊国という重石がとれる、税の負担が減り、兵役で遠方に行くこともなくなる、領海が戻り漁場が広がる、豊国と対等な取引ができるようになる。


しかし、これを手放しに喜んでいていいものだろうか。

豊国のような大国と渡り合うには、やはりそれなりの軍備を整えなくてはならない。

今のうちに国を富ませ、軍備を整えておくべきではないか。

そこで、戦艦を造るということに繋がるのだ。







🌸  六  芙 啓  ─ ふ けい ─



護国のために、珠の海軍を復活させることが必要となるのだ。


「私は、なにも聞いてはいないよ。」


芙啓は穏やかに答えた。

面長に細い目、少々突き出たあごに髭はない。

芙啓は今年 五十五歳になる。頭髪はフサフサとしているが、真っ白だ。

十年前から白かった。


芙啓は豊国出身の貴族である。

戦争が終結し、珠国を統治するために派遣されて来た貴族の他にも、豊国からは多くの貴族が移住していた。

しかし、芙家の場合はその者たちとは事情が異なっていた。

芙啓の父は、収賄の罪を着せられ、流刑となったのだ。


珠国の東沖には、磐居島、磐音島、そして小島が四つ並んだ石飛島がある。

この石飛島の一番大きな島に、罪人として収容されていた。

その島で、芙啓は二十三の歳から九年を、罪人の家人として過ごした。

九年後、朱国の、皇帝即位の恩赦で罪を減じられ、芙啓は家族と共に、珠国に渡って来たのだった。

のちに、父の罪は冤罪であったことが証明され、貴族の身分を回復している。


芙啓は家長だが、亡くなった夫人との間には子供がなく、弟の子を養子とし、家を継がせていた。

じつは芙啓には、豊国を去る時に別れた妻がおり、十年あとにその妻が子を産んでいたことを知った。

三十一歳になっているはずの息子には、未だ会えずにいる。


櫻家と芙家の付き合いは、承の祖父が芙啓の父に土地を貸したことから続いている。

承の父の櫻周は、芙啓の農耕の知識を高く買っていて、以前から農作物の作付けの指導を頼むことがあった。

近頃では、北部の新田開発の指南役を務め、それが功を奏したので、褒美として、国から「慈照院」に補助金がおりるようになったのだ。

味噌と醤油の販売許可を与えたのも、櫻周だった。


以前、櫻周は、芙啓が耶蘇教の信者であるのを危惧し、距離を置いて接していたが、芙啓は布教活動などしている様子はなく、政治との関わりを持たずにいるので、息子たちが交流を持つのを黙認している。


芙啓の言葉通り、開からは何も聞いていないのだろう。

芙啓から情報を引き出そうとは、はじめから考えてはいなかった。


「先生、円様のご位牌に手を合わせたいのですが、お部屋へ通していただけますか。」


「ああ、ついて来なさい。

円もきっと喜ぶだろう。」


諭利は、草餅を皿に取り分けて位牌の前に供えると、線香をあげて手を合わせた。


「過ぎたるは及ばざるがごとし、と申しますが、私はずっと円様に感謝を伝えたいと思っていたのです。

帰国が叶ったおりには、真っ先に、円様にお会いしにここを訪れる心積もりでいたのです。

まさか、このような対面になるとは、思いもしません。

伝えたい想いは、先延ばしにしてはならないのだと知りました。


あの方の笑顔や手の温もりは、この胸心の奥に生きづいています。

それは私だけでなく、あの方と触れ合ったすべての者の心に、生きているのだと思います。」







🌸  七  笛  ─ ふえ ─



「そうだな、諭利。

私の心にも円は生きているよ。

おまえと同様に私も後悔をしている。

私は側にありながら、感謝を言葉にしていなかった。

つい、日々の忙しさにかまけて、一番身近かな者への配慮を忘れていた。

感謝をしている、心の内では『ありがたい』と思っている、そして相手もそれをわかってくれている、などと奢り、過信していた。

いざ居なくなると、なぜ言葉にしていなかったのかと、悔やむばかりだ。

私はひどく落ち込んだ。

人には元気を出せ、起きたことをいつまでも悔やむな、などと諭していたが、いざ自分の身に災厄が起こると、あの時ああしていればと、起きたことを悔やむばかりだ。

私は円のことを想わない日はない。

嬉しい事、悲しい事を心の中の円に話している。

心に、円は生きている。

円と共に、私は生きているのだよ。」


「先生はお変わりになりませんね。

私は、先生のそういうところが好きです。

上から頭ごなしに、これはこうだと押しつけたりはしない。

自分の弱さも人の目に晒し、人に寄り添って生きていらっしゃる。


正直なことをいいますと、以前はそんな先生を、頼りない、情けないと思っていたのです。

世の中には悟り顔で、『お前だけが辛い思いをしているのではない、お前よりも不幸な境遇にある者は沢山いる、だからこれくらいで泣き言を云うな』と切り捨ててしまう者がいる。

傷つき、俯いている者の頭に手を置き、地べたに顔を押さえつけて、得意になっている。

人の弱さを否定してしまう者が、私は嫌いです。」


人というのは、右隣に美味そうな物を食べ、小綺麗な着物を着ている者があれば、羨み、自分の境遇に不満を持つ。

左隣に飢えていて、粗末な身なりをしている者があったとしても、「衣食が足りているだけで満足だ」とは思えない。

どんな人間も、やはり自分が中心で、自分の痛みや悲しみは、他人の何倍も耐え難いものと思っている。

他人の痛みは、実際に感じることができないから、私の感じた痛みに比べたら、そんなものなど対したことない、と簡単に言えてしまうのだ。


諭利は懐から細長い布袋を取り出して芙啓に渡した。

一目で何かを理解した。

それはかつて、芙啓が旅立つ諭利へと渡したものだった。


「旅の空、独りきりの時には笛を吹いていました。

笛の音が、辛いこと悲しいことを忘れさせてくれました。

先生にとって、この笛はとても大切なものなのですよね。

先生が、豊国を去る日、遊吉様が手渡したのだと聞きました。

元々は、先生方の師である『侑伯ゆうはく』が都を離れる際に、遊吉様へお譲りになった品だとか。

そのような大事な笛をお貸しくださり、感謝しております。」


「おまえの慰めになったというなら、笛を渡した甲斐もあった。

吹いてみてはくれないか? お前の上達ぶりを確かめてみたい。」


芙啓は笛を差しだし、諭利は頬笑んで受け取った。


「つたない技ではごさいますが、披露させていただきます。」







🌸  八  お囃子  ─ おはやし ─



諭利は笛に口を寄せた。

ピィーッと、高い音をひとつ鳴らすと、子供のように顔をにんまりとさせた。


ピィピィ、ヒャラララ。


演奏を始めた諭利は、音に合わせて体を弾ませた。

諭利がなにを吹いてみせるのかと思ったら、秋の収穫祭のお囃子だった。


笛に手拍子が加わった。

芙啓の目のなかで、諭利はイタズラな風の精霊のように飛び跳ねながら、クルリクルリと左右に体を回転させる。

見つめる芙啓のまなじりには和やかな皺が寄っている。

手拍子と一緒に、芙啓は、豊穣の大地へ捧げる詩を口に乗せる。


笛の音も一層 高らかに弾む。

畑の向こうまで、お囃子は軽快に響き渡った。


毎年、施設でおこなわれる秋の収穫祭では、藁を積み上げた焚き火の周りを、晴れやかな祭りの衣装を着込んだ子供たちが、お囃子に合わせ踊るのだ。

諭利は遠い記憶を手繰りながら、笛を吹いている。

うろ覚えであるので、芙啓を伺うと、不明瞭な箇所には、手振りで合図を送ってくれた。

慣れてくると、諭利は通常の譜面に自分なりの工夫を施し、芙啓もそれに掛け合った。


続けて三番歌った。

そろそろ仕舞いにしようかと、芙啓は歌をとめた。

諭利も笛を口から離した。


「ああ、愉快だ。

愉しかったよ、諭利。」


芙啓は笑いながら拍手を送った。


「私もです。

こんなに愉しいのに、なぜ、あの時は皆と共に歌い踊ることができなかったのでしょう。」


諭利は過去を省みて、頑なだった己に憐れみを懐いた。


収穫祭の踊りの輪に、日吉が加わることはなかったのだ。

嬉しげに踊る子供らを、日吉は遠巻きに冷めた目をして眺めていた。


芙啓は、日吉から「収穫祭の意味は何だ」と問われた。

芙啓は、「一年の労働をねぎらい、豊かな実りをもたらしてくれた神に感謝し、皆で喜びを分かち合うのだ」と答えた。

日吉は、「『神』というのは、ほんの気紛れに、『幸い』を人に与えたり取り上げたりして、人が右往左往とする姿を、天上で嘲弄している奴のことですか」と返した。

皮肉な光を目に点した少年は、すかさず話を続けた。


「そいつに、一体何を感謝するのです。

崇め奉っても、次の年の豊作を約束してはくれない。

それどころか、飢饉に苦しむ民に、何の手助けもしない。

私は『神』など信じない、そんなまやかしを、拝む気にはなれません。


人に助けの手を差し伸べられるのは『人』です。

『神』など、私には関わりない。

見えもしないし、声を聴いたこともない。


もとより、私には信仰心などないのだから、踊りの輪には加われません。」


芙啓は哀しげに少年を見つめた。

日吉の言わんとすることは理解できる。

島で辛い日々を過ごしていた日吉は、藁をもすがる気持ちで神仏に祈った経験があるのだろう。

されど願いは通じなかった。

神も仏もありはしないと、虚しさを募らせていったのだろう。







🌸  九  役目  ─ やくめ ─



日吉が皮肉を云うのは寂しさの裏返しだ。

この少年が、清らかな心を持っているのを知っている。

頑なに閉ざした心を開き、生きる希望を見いだせるよう、手助けをするのが私の役目、──そう、芙啓は思っていた。


「歳を重ねた者は、辛い思いをしているのは自分だけではないのだとわかっています。

笑っている顔の裏にも、苦しみや悲しみを隠し、生きている。

けれど時には自分の想いを打ち明けて、理解して欲しいと思う。

よく耐えてきた、そんな辛い思いをしたのか、大変だったな、と言って欲しいのです。


ときには弱音を吐くことも必要で、それに付き合ってくれる者が、必要なのです。」


芙啓は諭利の顔を眺めていた。


「旅の途中で良い人と巡り会えたのだろう、おまえはずいぶんと穏やかな顔をしているよ。」


「ええ、様々な人と巡り会いました。

この笛のお陰で、大切な方々とのご縁を、繋がせていただきました。」


二人は顔を見合わせて、和やかに頬笑み合った。

長い旅路での様々な経験を糧として、今、目の前に「諭利」が在る。


「──あれ、もうお終いなのですか?

お囃子に釣られて来てみたのですが、」


若い男が戸口から顔を覗かせた。

男は、笛を手にした諭利を見、見慣れない客だが、と一瞬思い、それからハッと気づいて、声を弾ませた。


「日吉さん! 日吉さんですよね。

帰っていらしたんですか、──いつです?」


一月ひとつき前になるよ。

久しぶりだな、友基ともき。」


記憶の中で十二歳だった少年は、すっかり大人の男になっていた。

側に来ると、少し目線をあげなくてはならなかった。

諭利より背丈が高いのだ。


「商いで、来られているのですか?

こっちには、いつまで居られるのです?」


「ずっと、だ。

この国に骨を埋める気で帰ったよ。

いい加減、落ち着いてもいい歳だからね。

縁さえあれば、所帯を持ちたいとも考えているよ。」


「そう、なんですか。」


意外だった。

友基は、日吉の口から「所帯」なんて言葉が出てくるとは思わなかったのだ。


「おまえは施設に残っていたのだな。」


「いえね、三年ほどよそへ働きに出ていたんですが、結局、もどってきましたよ。」


十五歳になり、日吉は施設を去った。

以前からるんでいた遊び仲間と行動を共にし始め、商売をしているらしと、友基は聞いた。

日吉は時々施設に現れた。

来る度に、子供たちに、菓子や玩具を与えていた。

施設を出て自立したい、という考えを持っていた友基は、商売で成功した日吉の姿に、憧れを抱いていたものだ。


「あの人は、なんだか変わりましたね。」


諭利が帰ったあと、友基はそう呟いた。

当時の日吉は、例えるなら剃刀のようだった。

美貌の少年は、無機質な冷たい光を放っていた。


芙啓の目にも、日吉の変化は顕著だった。

歳月の流れに人は姿を変え、会う人々に依って考えも変わる。

今ある姿は、諭利自身が選んだものだ。

芙啓は安堵した。

少年は、自ら在るべき姿を見いだしたのだ、と。









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