【陸】 再会



  一  再会  ─ さいかい ─

  二  恩師  ─ おんし ─

  三  慈照院  ─ じしょういん ─

  四  茶碗  ─ ちゃわん ─

  五  掌  ─ てのひら ─

  六  薫  ─ かおり ─

  七  剥落  ─ はくらく ─

  八  達磨  ─ だるま ─

  九  遊吉  ─ ゆうきつ ─









🌸  一  再会  ─ さいかい ─



 鳥のさえずりが聴こえる。

 二羽の鳥が、美しい声で呼び合っているようだ。

 どんな姿をしているのか気になる。

 門をくぐってから、庭には立ち入らず、承は遠巻きにあたりを見渡した。


 木陰に人が佇んでいる。

 高い木の枝に止まる鳥を見上げるその姿には見覚えがある。

 一羽の鳥が美しい声で囀ると、それに呼応して清らかな声が重なる。

 美しい黒髪のその人は、右腕を高く上げ、手を枝のようにしならせた。

 小鳥はフワリと舞い降りて来て、裾に隠した手首の辺りに脚をかけると、ゆったり羽をたたんだ。


 承の気配を感じたらしく、その人は後ろを振り返って微笑んだ。

 こちらへおいでなさい、という風に、顔をかしげて合図する。


 小鳥を驚かせないよう、承はそっと近づいた。


「ここで会うとは、思いませんでした。」


 承は興奮気味に口を開いた。


「先日は、美味しいお酒をいただいき、ありがとうございました。

 それと、ご迷惑をおかけしました。

 私はあの場で眠り込んでしまったようですね。

 籠で運ばれて帰ったのだと、翌日、家の者から聞きました。

 ──お恥ずかしい。」


「いえ、お勧めしたのは私ですから、少々気がかりでした。

 さほど多くは飲まれていないご様子だったので、心配ないだろうとは思ったのですが、あとで気分が悪くなったりしませんでしたか。」


「籠に揺られていたのを、何となくですが覚えています。

 ふわふわと心地良く、気づくと朝まで眠っていました。

 意外とすっきり目覚めたのです。

 あなたが、加減をするよう教えてくださったから、悪酔いせずに済んだのでしょうね。」


 会話の間にも、鳥は諭利の肩でくつろぎ、のんびりと毛繕いをしている。


「鳥の声がするので、こちらを覗いてみたのです。

 あなたは、鳥の声色を真似ていたのですね。

 私には、二羽の鳥が語り合っていように聴こえましたよ。

 あなたは、不思議な人ですね。」


「これは、遊吉ゆうきつ様から教わったのです。

 ご存知でしょうか? 絵師の遊吉を。

 私は一時期、遊吉様のもとに身を寄せていたのです。」


「遊吉、ですか。」


「ええ、悪名高き、あの遊吉です。」


 遊吉は、その書画は「一目千金に価する」と評されるほどの絵師である。

 昨今、世に出回っている風刺画においては、王の庇護を受け、法外な値の書画を売りつけて私腹を肥やす「禿ネズミ」として描かれている。


「先生の友である方です。

 では、あなたは先生をご存知なのですね。」


「はい、私は芙啓ふけい様に、ご挨拶に伺ったのです。

 短い間ですが、私はこの施設に居たことがあるのです。

 あなたのうたの師は、私の師でもあるのですよ。」


 諭利は、含みある微笑を向けた。


「あなたがお帰りになったあと、市蔵との会話のなかで、櫻家のご子息方が、頻繁に怒って慈照院へ出入りしていることを知り、もしかすると、今日あなたとここで会えるのではないかと、期待していたのです。」







🌸  二  恩師  ─ おんし ─



 謎解きのように、点在していた事象が結ばれて、一つの文字が紙面に浮かび上がった、という気がした。


「ああ、云ってくださればいいのに。」


 承は思わず声をあげた。


「私も最初から わかっていたのではないのです。

 あなたが私を不思議な方、と仰ったように、私も不思議なご縁を感じました。

 あなたより、少しだけ先に気付いたのです。


 再び会うのを楽しみにしていました。」


「では、早速、先生に会いに行きましょう。

 ずいぶんと会われていないのですよね。」


「国を離れ、十二年です。

 照れくさいというか、少々気恥ずかしい思いです。


 先生は、いつも決まった刻限に休憩を取られていたから、もうすぐここをお通りになる頃ですよ。」


 あちらで待っていましょう、と、諭利は承をうながし、庭の真ん中にある大きな銀杏いちょうのしたへと移った。

 懐かしいな、と、諭利は銀杏の幹に手を添えた。


 冬に葉を全て落としていた木は、今、鮮やかな若葉に覆われつつある。

 その幹は、大人が二人両手をげても、回らない位の太さがあり、地中深く張られた根は、力強く地表にもせり上がっている。

 夏には、幾重にも伸ばした細い枝に、濃い緑の葉をびっしりと茂らせ、涼しい木陰を作りだす。


 この木は芙啓そのものだと、諭利は思う。


 鳥が囀った。

 諭利は鳥の鳴き真似で応えた。

 肩に移っていた鳥は、手の方におりてきた。

 諭利は、鳥を手に止まらせてみないかと、承に訊いた。

 承は頬笑み、うなずいた。


「小さくとも、爪が鋭いので、服の上からでもチクリと痛みを感じます。

 急に動いて、鳥を傷つけないように、注意してくださいね。」


 承は腕を差し出した。

 諭利が腕を寄せると、鳥は承の方へと移ってきた。

 ちょこんと乗って、かわいらしい。

 鳥は挨拶をするように承に向かって囀った。


 諭利が現れると、なんだか面白いことが起こる。

 ここ数日、楽しい思いをした。

 承がそう考えていると、後ろから声があがった。


「諭利、──か?」


 遠くに、ひょろりと背の高い、白髪の男の姿があった。

 声の主は、目を凝らせて諭利を見ていた。


「先生、お久しぶりです。」


 懐かしいその声に、芙啓は足を速め、こちらへ歩み寄った。


「渡り鳥は、この銀杏の木が恋しくなって、戻って参りました。」


 芙啓は、諭利の両肩に手を置いて、少し興奮ぎみに顔を覗き込んできた。


「ああ、よく戻った。

 おまえの元気そうな姿を見ることができて、嬉しいよ。

 すっかり大人になって、見違えた。」


「ありがとうございます。

 先生もお元気そうで、なによりです。

 これまで便りもせず、不義理な私を許してください。」


「三年ほど前だが、じゅん(遊吉)からの便りにおまえのことが書かれていた。

 旅の途中、国に帰ると告げて去った、とあったので、近々お前が帰るものだと待っていたのだ。

 しかし、おまえはなかなか現れない。

 その身になにか起きたのではないかと、案じていたのだ。」







🌸  三  慈照院  ─ じしょういん ─



「帰るつもりでいたのですが、寄っておきたい場所があり、そこでつい長居をしてしまったのです。

 遊吉様は、先生への文に私のことも書いてくださっていたのですね。」


「淳も、お前を気にかけているのだよ。」


「ありがたいことでございます。」


「お前が戻ったと、早速文を出しておくよ。」


 こうして快く迎えてくれた芙啓を前に、諭利は少々恐縮している。


「実は、ひと月ほど前に帰っていたのです。

 ご挨拶が遅れ、申し訳ありません。

 お詫びという訳ではありませんが、珍しいお茶を知人から譲り受けましたので、先生にぜひ召し上がっていただきたく、持参しております。」


 それから、諭利は承の方へ顔を向けた。


「承様、お時間はございますか。

 よろしければ、ご一緒に、お茶を楽しんでいかれませんか。」


 先ほど芙啓に「講義に出るから帰る」と伝えたばかりで、ちょっと気まずい想いがあった。

 承が表情を窺うと、好きなようにしなさい、と芙啓は頬笑んでいた。


「ぜひ、ご一緒させてください。」


 承は声を弾ませた。

 珍しい茶を飲みながら、興味深い旅の話しなど聞けるのなら、講義を受けるより有意義だ、今日は特別だ。


「ちょうど、ひと息いれるところだった、休憩所に移るとしようか。」


 芙啓が云うと、諭利は承の腕に手を近づけて、鳥を移らせた。


「また、遊んでおくれ。」


 諭利がスッと手を上げると、同時に鳥は空へと飛び立った。


 そして、諭利は、ちょっと待っていて、と云い、物置小屋の陰に走って行った。

 戻ると、両手に風呂敷包みを提げていた。

 三人は休憩所へと続く畑の畦道を歩いた。


 ここは「慈照院じしょういん」という。

 災害で身寄りをなくした子供を養護する目的で、二十年ほど前、芙啓が私財を投げ打って建てた施設なのだ。

 地震や火事などで家を失った人々は、一時的に寺院などへ避難する。

 しかしその場所には、長くは留まっていられない。

 大人ならば住む場所も仕事もどうにか見つけられるが、親を亡くした幼い子供はそうもいかない。

 行き場もなく、街に放り出されることになる。

 そうした子供は、その日の糧を得るために、物乞いをしたり、盗みを働いたりもするようになる。

 人買いに売られる場合もあるし、悪い大人に騙され、悪事に手を染める者もいる。

 一度悪事に手を染めた者は、真っ当な仕事に就くのは容易ではない。

 人を信じられずに育った子供は、今度は自身が人を騙す大人になる。

 そうなる前に食い止めたい、子供たちを守りたい、自立できるまでの手助けをしたい、そんな想いから、芙啓は施設の運営を始めたのだ。


 施設では読み書き算盤を教え、年齢に応じて主に農作業に従事させている。

 十二、三歳になると、余所に奉公に出たいと望む者や、職人となるため修行したいという者には、その意志を尊重して施設を出ることを許している。







🌸  四  茶碗  ─ ちゃわん ─



 十五歳になると、施設を去るのも自由になる。

 残りたいと希望する者には仕事を与え、賃金も支払われる。

 食料は基本的に自給自足なので、施設での仕事は色々とある。

 最近では、自家製の味噌と醤油を市場で販売する許可を得たので、人手が欲しいところでもあった。

 安価で味も良いと評判なのだ。

 畑を過ぎて、休憩所に入った。

 諭利は荷物を板間に下ろすと、早速お茶を淹れる準備を始めていた。

 囲炉裏に火をいれ、土瓶をかけた。

 ひんやりとしていた部屋の空気が、徐々に暖められてゆく。


 承は促されて板間に上がった。

 囲炉裏の側に座り、ひと息つく。

 窓から見える木々の若葉が鮮やかで、目に眩しかった。


 諭利は手持ちの風呂敷包みを解き、箱の中から、茶道具をひとつひとつ丁寧に取り出した。

 並べ置かれた茶杯のひとつを手の平に乗せて、芙啓は興味深げに眺めている。

 芙啓は人に頼まれて、骨董の鑑定などもしている。

 芙啓の表情から察するに、それはとても良い品物であるらしい。


「唐渡りの品ですが、何処で造られたかは、定かではありません。

 茶杯も元は六脚あるはずですが、私の手元には四脚のみです。

 不思議なことに、それに注いでいただくと、どのような茶も美味しく感じられるのですよ。

 ──こちらを先生に見ていただきたいのです。」


 諭利は別の箱から茶碗を取り出した。


「ふっくらと気品ある、良い姿をしているでしょう。

 知り合いの蔵の片付けを手伝っていて、見つけたのです。

 どうしても欲しくなり、手間賃がわりにちゃっかりと頂いてきました。

 失礼ながら、その姿、どなたかに似ていると思いませんか。」


 そう聞いて、承は改めて茶碗を眺めた。

 芙啓の手の平に乗せられた、小振りの青磁を見ているうち、心には とある婦人の姿が浮かんでいた。


「私はまどか様に似ていると感じたのです。

 温かく安らかな、あの方の面差しをその茶碗に見たのですよ。


 ……円様がお亡くなりになったことを、私は遊吉様からお聞きしました。

 最愛の奥様を亡くされた先生の心中を思うと、胸が痛みました。

 いつか国に帰れた日には、円様に感謝の気持ちを伝えたいと思っておりましたのに、それが悔やまれてなりません。

 その茶碗を、先生に差し上げます。

 そのつもりで譲ってもらったのです。

 ささやかな私の気持ちを、受け入れて貰えると嬉しいです。」


 芙啓も何か感じるものがあった様子だ。

 静かな、少し寂しげにも見える眼差しを、茶碗へ注いでいた。

 芙啓は得心したふうに頷き、顔を上げ、ありがとう、と諭利に礼を云った。


「それと、──鶴屋の草餅を買ってきたのです。

 円様の好物でしたでしょう。

 小柄なあの方が、やはり小さなふっくらとした手で ひょいとつまみ、お顔をにんまりとさせていたのを、思い出します。


 たくさん持ってきたので、後で皆さんでお召し上がりください。」


 諭利は二段重ねの重箱の上を開けて、芙啓と承の分を皿に取り分けた。







🌸  五  掌  ─ てのひら ─



 火にかけていた土瓶の湯が沸き、蒸気が蓋を持ち上げてゴトゴト鳴っていた。

 諭利は湯を注いで蓋椀と茶杯を温める。湯気が諭利の姿をくゆらせる。


「高温のままだと味が硬くなり、渋みが出やすいのです。

 こうして蓋椀から茶海に移し、湯を冷まします。

 蓋椀に茶葉をいれ、茶海の中の湯を移します。

 そして、やや長めに蒸らしていきます。」


 茶を蒸らす間、諭利は歌を口ずさんでいた。

 諭利の美しい歌声に乗って、爽やかな茶の香りが流れてくる。

 諭利は歌で時を計り、待つ者の気持ちも落ち着かせている。

 その声は実に心地が良い、諭利との出会いのきっかけになった。

 この歌声にまず足が止まり、連日通い詰めて演技を観た。


 山々を巡る風のような爽快な歌は、豊国で歌われる茶摘み唄だった。

 芙啓は目を細めて、漂う茶の薫りを利いていた。

 諭利は歌いながら親指と中指で蓋椀をもち、人差し指で蓋をずらして、茶を注ぎ分ける。

 濃さの偏りがないように、二度に分けて淹れる。


 琴弦を爪弾くような、軽やかなその指の動きに、承は見とれていた。

 細くて長い指、よく見ると、爪の手入れもされている。


「演技をしていたでしょ、後宮の貴人の手が、ささくれた男の手では興醒めです。

 演者はそんな細かい部分まで、見られているのです。

 特に女の方は、演者の指先まで見ているのです。

 女の方の目線は厳しく、侮り難いものなのです。


 貴族の方々は爪を整えることを、習慣づけられているのではないですか?

 一部の商人も美しく爪を整えています。

 美しい手は、裕福な暮らしをしている証です。


 それと、── 一概にそうとは云えませんが、女の方は、男の手を無意識に品定めしているようです。

 それには理由があるのですが、ご存知ですか。」


「いえ、どのような理由ですか?」


「ここにはご婦人がいらっしゃらないから申しますが、指の太さや長さが、股下のイチモツの形状と関連があるそうですよ。

 ああ、これも遊吉様から教わった話しで、あの方の話しは八割がたこのたぐいで、その内の三割は、私をからかう嘘なんです。あくまで逸話なので、お気になさらないでください。」


 気にするなと云われてもやはり気になる。

 承は自分の手をソロリと開いて見た。

 そしたら横から手が延びて、諭利から手首を掴まれた。

 承はビクリとして顔を上げた。

 諭利の指先は、承の手の平をなぞっていた。


「あなたの手は、人を守るためにある。」


 諭利は、美しいとは言い難いその手を見つめ、呟いた。

 日々、木刀を振り続けて豆ができ、潰れた痕は皮が厚くなってゴワゴワとしていた。


「あの夜、あなたは私を守ろうとしてくださいました。

『縁環』でヤクザ者に絡まれた時もそうです。」


 承は首を振った。


「いえ、私は結局何もできなかった。不甲斐ない次第です。」


「私は、あなたの『気持ち』が嬉しかった。


 あなたの手は人を守るためにある、──どうぞ、忘れないでください。」







🌸  六  薫  ─ かおり ─



 諭利は承の目を見つめて頬笑み、そっと手を放した。


「お召し上がりください。

 決まった作法などはございませんから、お気楽になさってくださいね。」


 承の前に茶杯が置かれた。

 承は礼をして茶杯を手に取った。

 その茶杯は、外側は赤みがかった土の色そのままの暖かさがあり、内側は茶の水色がよく見えるよう、白く塗られてあった。


「色と香りを、お愉しみください。」


 承は口に含み、舌で転がすようにしながら満遍なく行き渡らせ、味わった。

 少し薄めか、と感じたけれど、高価なお茶というものは、押し並べてこのようなものなのだ、と解釈した。


「心遣いありがとう、諭利。

 懐かしい故郷の香りがしたよ。」


 芙啓はしみじみと呟いた。

 豊国の芙家の領地では、茶葉の栽培が盛んに行われていた。

 毎年新茶の季節になると、都に在住する親族が集まり、時節や茶の感想を歌に詠み合いながら、送られてきた新茶をゆっくりと楽しんでいた。

 そのひと時がどれほど貴重なものだったかを、今更ながらに芙啓は想うのだっだ。


 喜んでいただけたようで嬉しい、と諭利は礼を返した。


「淳の元に行くまでに、随分と時を要したようだが、その間はどうしていたのだ?」


「旅芸人の一座に加わって、流れ歩いていたのです。

 路銀が尽きたところに運良く助け船が現れたわけです。

 そこでは雑用を色々とやっていました。

 一座が豊国を去ることになり、芸人たちとも親しくなって、名残惜しくはあったのですが、国境付近の町で別れました。

 それからは、あれこれと日雇いの仕事などを見つけ、路銀を稼ぎながら、遊吉様のいる豊国の都を目指したのです。

 そして、ある時、雑役夫の募集を知り、それが率の良い仕事だったので応募したのですが、騙されて、不本意ながら私は兵士になってしまいました。

 馬車の荷台に揺られ、着いた場所は、たい国でした。

 連れて行かれた先で、いきなり砂袋を担がされ、山道を一日中走らされたのです。

 監視が厳しく、逃げることもできずに、散々な思いをしましたよ。

 しかし、苦しい思いをして、そこで学んだことは、今では良い経験となっています。


 城攻めの際に、近くの沼地から葦を刈ってきて堀を埋めたり、反対に、掘りを巡らせて川から水を引き、水攻めをしたり。

 川に橋を架けることや、簡易な要塞を造ることもしました。

 私のいた軍の将は、兵糧責めを得意として、戦闘よりも、そうした工作のほうに、より多くの手間をかけたのです。


 承様、えい国の明晏仁みょうあんじんをご存知でしょうか?」


「ええ、知っています。

 元々は衛国の公子で、現在は出家なされて、国の北部の、妙覚寺という山寺でお暮らしになっているのでしょう。

 礼昂君らいこうくん、──出家する以前は、治めていた領地、呂康邑ろこうゆうの名から、呂康公と呼ばれていた〈戦略の奇才〉と謳われた人物ですよね。」







🌸  七  剥落  ─ はくらく ─



「明晏仁は、諸国の紛争の仲裁や、長引いた戦争に落とし所を見つけて、和議を取り結ぶことをなさっているとも聞いています。」


「承様は、軍記物を好んで読まれていらっしゃるので、そうした話にもお詳しいようですね。

 じつは、私は礼昂君と戦った経験があるのですよ。

 これは今より、八年ほど前の話でございます。

 私が所属していた泰国の軍は、現在の泰王である陽山君を総大将に据えて、推師をおこなっていたのです。

 我々は、敵の城、周囲二里の間に塀を高々と築き上げ、兵糧攻めを展開していました。仕掛けは万全、あとは敵方が『参った』と云うのを待つのみとなっておりました。

 そうして、陽山君には、陣の後方で高みの見物に興じていただいていたのです。

 既に兵糧は尽きて久しく、城内の者は飢えに耐えかね、落城も間近であろうという頃合でした。

 そこへ、一報が入ったのです。

 ひと月前に攻め落とした城が、礼昂君率いる軍によって奪い返されたというのです。

 そして、その軍は勢いに乗り、こちらへ向かっているというのです。


 我が将は、援軍が到着するまでに何とか城を落とそうと、城内の者との交渉を急ぎました。

 しかし、用心していたにも関わらず、援軍が向かっているとの情報は中へ伝わり、敵方は奮起を取り戻したのです。

 援軍の到着は思いのほか速く、今度は我々が、双方から挟み込まれる形となってしまいました。


 こうした事態に備え、陽山君には秘密裏に陣営を離れていただいていました。

 我々も早々に撤退しましたが、礼昂君の追撃は厳しく、背には陽山君を守りながらの退却となり、我々は非常に苦しい戦いを強いられたのです。

 陽山君を逃がす為に我々は二度陣を布いて戦い、その度に半数以上の兵を失いました。

 こうした苦闘の末に、陽山君は無事に国境を越え、我々も国境付近で泰の援軍と合流することができたのです。

 泰国は和議を申しいれ、元々は衛国の領土だった二つの邑を譲り、公子の一人を人質として預けることで、戦いは終結したのです。」


「〈伯洛陵はくらくりょうの戦い〉、ですね。」


 興奮ぎみに、承は云った。


「勝利した衛国の軍も、勝ったとはいえないほどの打撃で、相当な激戦であったと資料にありました。」


「衛の王族の霊廟がある、伯洛陵周辺でおこなわれた戦いでしたので、そう呼ばれていますが、泰国では自戒の意味で、剥落、剥がれ落ちるように戦力を削がれるの意で〈剥落の戦い〉と伝わっています。


 過酷な訓練を共に耐えた者たちは、血を分けた親兄弟にも近い絆がありました。

 一人、また一人、そうした者が倒れていく様を見るのは辛く、負傷した者を背負って逃げる余力などはなく、生きている者は自身が生き残るだけで精一杯なのです。


 承様、私の隊の隊長は名を維吹いぶきというのです。

 その方も戦いの中で命を落としています。

 怜悧な頭脳に篤い心を持った漢でした、よろしければその名をお留め置きください。」







🌸  八  達磨  ─ だるま ─



「わかりました。

 維吹様というのですね。

 心に留めておきましょう。」


 諭利の演じる郭将軍の姿は、静かな台詞回しの中にも鬼気迫るものがあった。

 それは諭利自身が死線を越えたからこそ発することのできた「偽りなき言葉」だったのだろう。

 歌を口ずさみながら茶を淹れる、この涼しげな姿からは想像もつかない、過酷な体験をしているのだ。

 人は表面だけで、推し量ることができない。


「諭利さん、私は、礼昂君の戦術の見事さだけを見ていました。

 こうして物語として書かれたものを見ると、どうしても礼昂君の側に自分は立っているのです。

 窮地に追い込まれていた衛国の軍が、礼昂君の立てる戦略により形成を逆転させていく過程には、胸がすく思いでした。


 しかし、この戦いにあなたが泰国の一兵士として、身を投じていたのだと聞くと、複雑な思いがいたします。

 物語としての話が、途端に現実味を帯びて、単に死者の数が二千、三千というのにも、その一人一人に人生があり、帰りを待ち望んでいた者がいることを、改めて想うのです。」


 過去の出来事を、こうして真摯に考えてくれている承に、諭利は好感を持った。


「物語は、どちらの側に立つかで読む者の気持ちも変わります。

 その話を書き記した者は、やはり礼昂君の戦術の見事さに引き込まれ、世に広めたいと感じたのだと思います。


 幸いにして、私は生きて泰国の地を踏むことができたので、兵士を辞めました。

 私は、豊国の都へ行く旅の途中であり、元々は騙され、強制されていたことでしたから。


 承様、〈伯洛陵の戦い〉をご存知なら、我が将の名も、知っていますよね。

 鷹道ようどう、『達磨だるま』という異名を持つお方です。

 背丈は五尺三寸と小柄ですが、身体は獅子のように強靭でございました。

 赤銅色に焼けた肌が黒光りし、ギョロリとした大きな目玉には、尋常でない強い光が宿っておりました。

 うねりの強い髪をなびかせ、馬を駆るその姿は、さながら『稲光をまとった雷神』の様相でございました。


 鷹道様は、兵糧攻めを得意とされていましたが、戦闘に於いても名うての戦上手で、敵方には鬼神と恐れられていたのです。

 戦いを省みて、これほどの窮地に追い込まれたことはかつてない、と仰っるほど、礼昂君は手強い相手だったのです。


 死線を越えた数少ない生き残りである私を、鷹道様はとても気にかけてくださり、除隊した私に、あの方が懇意にしていた茶人を紹介してくださいました。

 承様にはお話ししましたね、その方が清張さんです。

 清張さんは趣味が興じて茶の商いをなさっていて、私はそのお手伝いをさせていただいていたのです。

 そのうちに商いが楽しくなってしまいまして、遊吉様のもとに行くのが遅れたのは、こうした理由からなのです。


 気がつけば、珠国を旅立ってから、すでに六年が過ぎておりました。」







🌸  九  遊吉  ─ ゆうきつ ─



「遊吉様のもとでは、三年ほどお世話になりました。

 この国で、あの方は大層な悪人のように伝わっていますが、側にいる者で、あの方を悪く云う者は一人もおりません。

 王の庇護を受け、大臣ほどのろくんでいるというのも嘘で、屋敷など、特に豪奢に過ぎるというものでもないのです。

 あの方は、屋敷とは別に住まいをお持ちで、そこは遊郭の中の『青蓮楼せいれんろう』という妓楼なのです。

 十六の歳から、そこの物置に住み込んで絵を描いていらしたのです。


 訪ねて行くと、部屋の中は描き汚した紙で足の踏み場もなく、山積みにされたいかがわしい書籍が床板を軋ませておりました。

 あの方は、着たきりの身なりで、酒の臭いを漂わせ、挨拶がわりに通りすがりの女の尻を撫でておいででした。


 名門の子息の面影はございません。

 先生のご友人であるとお聞きしていましたので、初対面の私は少々唖然といたしました。

 遊吉様は、普段はそこに身をおいて、絵の注文が入ると、旅支度を整え、出ていかれるのです。

 今はどうだか知らないけれど、当時、あの方は五十両以下の仕事を受けておられませんでした。

 貴族や豪商などが主な取引相手だったのです。

 地方の有力者からの依頼を受け、絵を描きにゆく、──私はその旅の供を務めていたのです。

 放っておくとあの方は、目新しいものに飛び付いて、子供のように何処かへ消えてしまうのです。

 旅の路銀も、あの方に持たせていると、遊廓へ行って一晩で使ってしまうので、私は寝ている間も巾着を体に結わえて離さず、期日どおりに絵が仕上がるよう、監視役をしておりました。


 と、ここまでの話しでは、遊吉は噂に違わぬ道楽者と受け取られてしまいますが、あの方は絵を売った金で、戦争で土地を失い、豊国へ流れてきた民の支援を、密かにしていらしたのです。

 高額で書画を取り引きしていたのは、そのためでもあるのです。

 そして、それを承知した上で、遊吉に絵を頼む方々がいらしたのです。


 私が暮らし始めて二年目の冬でした。

 街が大火に見舞われ、多くの者が寒空の下、家を焼き出されました。

 遊吉様は、地主にかけ合っていち早く土地を確保すると、自らの人脈を使って木材を運び入れ、仮住まいの長家を建てたのです。

 それによって、寒さに凍え死ぬ者も格段に少なかった。

 放埒に見えながら、人に寄り添って暮らしている、絵師の遊吉が人々に愛される由縁です。

 諸国を流れ歩き、根無し草のような私は、その様子を見て、何処かひとつ所に根を下ろし、暮らしたいと思うようになりました。

 そうすると、懐かしい人たちの顔が思い出され、故郷へ、あの温かい場所へ帰りたいとの想いが募っていったのです。


 ちょうど、さる貴族から絵の依頼があり、豊国の南方へと遊吉様の供をして行くこととなりました。

 ここからならば、珠国も近い、私は想うまま、遊吉様に『国に帰ります』と告げ、別れたのです。」









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