【陸】 再会
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一 再会
二 恩師
三 慈照院
四 茶碗
五 掌
六 薫
七 剥落
八 達磨
九 遊吉
🌸 一 再会
鳥の
二羽の鳥が、美しい声で呼び合っているようだ。
どんな姿をしているのか気になる。
門をくぐってから、庭には立ち入らず、承は遠巻きにあたりを見渡した。
木陰に人が佇んでいる。
高い木の枝に止まる鳥を見上げるその姿には見覚えがある。
一羽の鳥が美しい声で囀ると、それに呼応して清らかな声が重なる。
美しい黒髪のその人は、右腕を高く上げ、手を枝のようにしならせた。
小鳥はフワリと舞い降りて来て、裾に隠した手首の辺りに脚をかけると、ゆったり羽をたたんだ。
承の気配を感じたらしく、その人は後ろを振り返って微笑んだ。
こちらへおいでなさい、という風に、顔を
小鳥を驚かせないよう、承はそっと近づいた。
「ここで会うとは、思いませんでした。」
承は興奮気味に口を開いた。
「先日は、美味しいお酒をいただいき、ありがとうございました。
それと、ご迷惑をおかけしました。
私はあの場で眠り込んでしまったようですね。
籠で運ばれて帰ったのだと、翌日、家の者から聞きました。
──お恥ずかしい。」
「いえ、お勧めしたのは私ですから、少々気がかりでした。
さほど多くは飲まれていないご様子だったので、心配ないだろうとは思ったのですが、あとで気分が悪くなったりしませんでしたか。」
「籠に揺られていたのを、何となくですが覚えています。
ふわふわと心地良く、気づくと朝まで眠っていました。
意外とすっきり目覚めたのです。
あなたが、加減をするよう教えてくださったから、悪酔いせずに済んだのでしょうね。」
会話の間にも、鳥は諭利の肩で
「鳥の声がするので、こちらを覗いてみたのです。
あなたは、鳥の声色を真似ていたのですね。
私には、二羽の鳥が語り合っていように聴こえましたよ。
あなたは、不思議な人ですね。」
「これは、
ご存知でしょうか? 絵師の遊吉を。
私は一時期、遊吉様の
「遊吉、ですか。」
「ええ、悪名高き、あの遊吉です。」
遊吉は、その書画は「一目千金に価する」と評されるほどの絵師である。
昨今、世に出回っている風刺画においては、王の庇護を受け、法外な値の書画を売りつけて私腹を肥やす「禿ネズミ」として描かれている。
「先生の友である方です。
では、あなたは先生をご存知なのですね。」
「はい、私は
短い間ですが、私はこの施設に居たことがあるのです。
あなたの
諭利は、含みある微笑を向けた。
「あなたがお帰りになったあと、市蔵との会話のなかで、櫻家のご子息方が、頻繁に怒って慈照院へ出入りしていることを知り、もしかすると、今日あなたとここで会えるのではないかと、期待していたのです。」
🌸 二 恩師
謎解きのように、点在していた事象が結ばれて、一つの文字が紙面に浮かび上がった、という気がした。
「ああ、云ってくださればいいのに。」
承は思わず声をあげた。
「私も最初から わかっていたのではないのです。
あなたが私を不思議な方、と仰ったように、私も不思議なご縁を感じました。
あなたより、少しだけ先に気付いたのです。
再び会うのを楽しみにしていました。」
「では、早速、先生に会いに行きましょう。
ずいぶんと会われていないのですよね。」
「国を離れ、十二年です。
照れくさいというか、少々気恥ずかしい思いです。
先生は、いつも決まった刻限に休憩を取られていたから、もうすぐここをお通りになる頃ですよ。」
あちらで待っていましょう、と、諭利は承をうながし、庭の真ん中にある大きな
懐かしいな、と、諭利は銀杏の幹に手を添えた。
冬に葉を全て落としていた木は、今、鮮やかな若葉に覆われつつある。
その幹は、大人が二人両手をげても、回らない位の太さがあり、地中深く張られた根は、力強く地表にもせり上がっている。
夏には、幾重にも伸ばした細い枝に、濃い緑の葉をびっしりと茂らせ、涼しい木陰を作りだす。
この木は芙啓そのものだと、諭利は思う。
鳥が囀った。
諭利は鳥の鳴き真似で応えた。
肩に移っていた鳥は、手の方におりてきた。
諭利は、鳥を手に止まらせてみないかと、承に訊いた。
承は頬笑み、
「小さくとも、爪が鋭いので、服の上からでもチクリと痛みを感じます。
急に動いて、鳥を傷つけないように、注意してくださいね。」
承は腕を差し出した。
諭利が腕を寄せると、鳥は承の方へと移ってきた。
ちょこんと乗って、かわいらしい。
鳥は挨拶をするように承に向かって囀った。
諭利が現れると、なんだか面白いことが起こる。
ここ数日、楽しい思いをした。
承がそう考えていると、後ろから声があがった。
「諭利、──か?」
遠くに、ひょろりと背の高い、白髪の男の姿があった。
声の主は、目を凝らせて諭利を見ていた。
「先生、お久しぶりです。」
懐かしいその声に、芙啓は足を速め、こちらへ歩み寄った。
「渡り鳥は、この銀杏の木が恋しくなって、戻って参りました。」
芙啓は、諭利の両肩に手を置いて、少し興奮ぎみに顔を覗き込んできた。
「ああ、よく戻った。
おまえの元気そうな姿を見ることができて、嬉しいよ。
すっかり大人になって、見違えた。」
「ありがとうございます。
先生もお元気そうで、なによりです。
これまで便りもせず、不義理な私を許してください。」
「三年ほど前だが、
旅の途中、国に帰ると告げて去った、とあったので、近々お前が帰るものだと待っていたのだ。
しかし、おまえはなかなか現れない。
その身になにか起きたのではないかと、案じていたのだ。」
🌸 三 慈照院
「帰るつもりでいたのですが、寄っておきたい場所があり、そこでつい長居をしてしまったのです。
遊吉様は、先生への文に私のことも書いてくださっていたのですね。」
「淳も、お前を気にかけているのだよ。」
「ありがたいことでございます。」
「お前が戻ったと、早速文を出しておくよ。」
こうして快く迎えてくれた芙啓を前に、諭利は少々恐縮している。
「実は、ひと月ほど前に帰っていたのです。
ご挨拶が遅れ、申し訳ありません。
お詫びという訳ではありませんが、珍しいお茶を知人から譲り受けましたので、先生にぜひ召し上がっていただきたく、持参しております。」
それから、諭利は承の方へ顔を向けた。
「承様、お時間はございますか。
よろしければ、ご一緒に、お茶を楽しんでいかれませんか。」
先ほど芙啓に「講義に出るから帰る」と伝えたばかりで、ちょっと気まずい想いがあった。
承が表情を窺うと、好きなようにしなさい、と芙啓は頬笑んでいた。
「ぜひ、ご一緒させてください。」
承は声を弾ませた。
珍しい茶を飲みながら、興味深い旅の話しなど聞けるのなら、講義を受けるより有意義だ、今日は特別だ。
「ちょうど、ひと息いれるところだった、休憩所に移るとしようか。」
芙啓が云うと、諭利は承の腕に手を近づけて、鳥を移らせた。
「また、遊んでおくれ。」
諭利がスッと手を上げると、同時に鳥は空へと飛び立った。
そして、諭利は、ちょっと待っていて、と云い、物置小屋の陰に走って行った。
戻ると、両手に風呂敷包みを提げていた。
三人は休憩所へと続く畑の畦道を歩いた。
ここは「
災害で身寄りをなくした子供を養護する目的で、二十年ほど前、芙啓が私財を投げ打って建てた施設なのだ。
地震や火事などで家を失った人々は、一時的に寺院などへ避難する。
しかしその場所には、長くは留まっていられない。
大人ならば住む場所も仕事もどうにか見つけられるが、親を亡くした幼い子供はそうもいかない。
行き場もなく、街に放り出されることになる。
そうした子供は、その日の糧を得るために、物乞いをしたり、盗みを働いたりもするようになる。
人買いに売られる場合もあるし、悪い大人に騙され、悪事に手を染める者もいる。
一度悪事に手を染めた者は、真っ当な仕事に就くのは容易ではない。
人を信じられずに育った子供は、今度は自身が人を騙す大人になる。
そうなる前に食い止めたい、子供たちを守りたい、自立できるまでの手助けをしたい、そんな想いから、芙啓は施設の運営を始めたのだ。
施設では読み書き算盤を教え、年齢に応じて主に農作業に従事させている。
十二、三歳になると、余所に奉公に出たいと望む者や、職人となるため修行したいという者には、その意志を尊重して施設を出ることを許している。
🌸 四 茶碗
十五歳になると、施設を去るのも自由になる。
残りたいと希望する者には仕事を与え、賃金も支払われる。
食料は基本的に自給自足なので、施設での仕事は色々とある。
最近では、自家製の味噌と醤油を市場で販売する許可を得たので、人手が欲しいところでもあった。
安価で味も良いと評判なのだ。
畑を過ぎて、休憩所に入った。
諭利は荷物を板間に下ろすと、早速お茶を淹れる準備を始めていた。
囲炉裏に火をいれ、土瓶をかけた。
ひんやりとしていた部屋の空気が、徐々に暖められてゆく。
承は促されて板間に上がった。
囲炉裏の側に座り、ひと息つく。
窓から見える木々の若葉が鮮やかで、目に眩しかった。
諭利は手持ちの風呂敷包みを解き、箱の中から、茶道具をひとつひとつ丁寧に取り出した。
並べ置かれた茶杯のひとつを手の平に乗せて、芙啓は興味深げに眺めている。
芙啓は人に頼まれて、骨董の鑑定などもしている。
芙啓の表情から察するに、それはとても良い品物であるらしい。
「唐渡りの品ですが、何処で造られたかは、定かではありません。
茶杯も元は六脚あるはずですが、私の手元には四脚のみです。
不思議なことに、それに注いでいただくと、どのような茶も美味しく感じられるのですよ。
──こちらを先生に見ていただきたいのです。」
諭利は別の箱から茶碗を取り出した。
「ふっくらと気品ある、良い姿をしているでしょう。
知り合いの蔵の片付けを手伝っていて、見つけたのです。
どうしても欲しくなり、手間賃がわりにちゃっかりと頂いてきました。
失礼ながら、その姿、どなたかに似ていると思いませんか。」
そう聞いて、承は改めて茶碗を眺めた。
芙啓の手の平に乗せられた、小振りの青磁を見ているうち、心には とある婦人の姿が浮かんでいた。
「私は
温かく安らかな、あの方の面差しをその茶碗に見たのですよ。
……円様がお亡くなりになったことを、私は遊吉様からお聞きしました。
最愛の奥様を亡くされた先生の心中を思うと、胸が痛みました。
いつか国に帰れた日には、円様に感謝の気持ちを伝えたいと思っておりましたのに、それが悔やまれてなりません。
その茶碗を、先生に差し上げます。
そのつもりで譲ってもらったのです。
ささやかな私の気持ちを、受け入れて貰えると嬉しいです。」
芙啓も何か感じるものがあった様子だ。
静かな、少し寂しげにも見える眼差しを、茶碗へ注いでいた。
芙啓は得心したふうに頷き、顔を上げ、ありがとう、と諭利に礼を云った。
「それと、──鶴屋の草餅を買ってきたのです。
円様の好物でしたでしょう。
小柄なあの方が、やはり小さなふっくらとした手で ひょいと
たくさん持ってきたので、後で皆さんでお召し上がりください。」
諭利は二段重ねの重箱の上を開けて、芙啓と承の分を皿に取り分けた。
🌸 五 掌
火にかけていた土瓶の湯が沸き、蒸気が蓋を持ち上げてゴトゴト鳴っていた。
諭利は湯を注いで蓋椀と茶杯を温める。湯気が諭利の姿をくゆらせる。
「高温のままだと味が硬くなり、渋みが出やすいのです。
こうして蓋椀から茶海に移し、湯を冷まします。
蓋椀に茶葉をいれ、茶海の中の湯を移します。
そして、やや長めに蒸らしていきます。」
茶を蒸らす間、諭利は歌を口ずさんでいた。
諭利の美しい歌声に乗って、爽やかな茶の香りが流れてくる。
諭利は歌で時を計り、待つ者の気持ちも落ち着かせている。
その声は実に心地が良い、諭利との出会いのきっかけになった。
この歌声にまず足が止まり、連日通い詰めて演技を観た。
山々を巡る風のような爽快な歌は、豊国で歌われる茶摘み唄だった。
芙啓は目を細めて、漂う茶の薫りを利いていた。
諭利は歌いながら親指と中指で蓋椀をもち、人差し指で蓋をずらして、茶を注ぎ分ける。
濃さの偏りがないように、二度に分けて淹れる。
琴弦を爪弾くような、軽やかなその指の動きに、承は見とれていた。
細くて長い指、よく見ると、爪の手入れもされている。
「演技をしていたでしょ、後宮の貴人の手が、ささくれた男の手では興醒めです。
演者はそんな細かい部分まで、見られているのです。
特に女の方は、演者の指先まで見ているのです。
女の方の目線は厳しく、侮り難いものなのです。
貴族の方々は爪を整えることを、習慣づけられているのではないですか?
一部の商人も美しく爪を整えています。
美しい手は、裕福な暮らしをしている証です。
それと、── 一概にそうとは云えませんが、女の方は、男の手を無意識に品定めしているようです。
それには理由があるのですが、ご存知ですか。」
「いえ、どのような理由ですか?」
「ここにはご婦人がいらっしゃらないから申しますが、指の太さや長さが、股下のイチモツの形状と関連があるそうですよ。
ああ、これも遊吉様から教わった話しで、あの方の話しは八割がたこの
気にするなと云われてもやはり気になる。
承は自分の手をソロリと開いて見た。
そしたら横から手が延びて、諭利から手首を掴まれた。
承はビクリとして顔を上げた。
諭利の指先は、承の手の平をなぞっていた。
「あなたの手は、人を守るためにある。」
諭利は、美しいとは言い難いその手を見つめ、呟いた。
日々、木刀を振り続けて豆ができ、潰れた痕は皮が厚くなってゴワゴワとしていた。
「あの夜、あなたは私を守ろうとしてくださいました。
『縁環』でヤクザ者に絡まれた時もそうです。」
承は首を振った。
「いえ、私は結局何もできなかった。不甲斐ない次第です。」
「私は、あなたの『気持ち』が嬉しかった。
あなたの手は人を守るためにある、──どうぞ、忘れないでください。」
🌸 六 薫
諭利は承の目を見つめて頬笑み、そっと手を放した。
「お召し上がりください。
決まった作法などはございませんから、お気楽になさってくださいね。」
承の前に茶杯が置かれた。
承は礼をして茶杯を手に取った。
その茶杯は、外側は赤みがかった土の色そのままの暖かさがあり、内側は茶の水色がよく見えるよう、白く塗られてあった。
「色と香りを、お愉しみください。」
承は口に含み、舌で転がすようにしながら満遍なく行き渡らせ、味わった。
少し薄めか、と感じたけれど、高価なお茶というものは、押し並べてこのようなものなのだ、と解釈した。
「心遣いありがとう、諭利。
懐かしい故郷の香りがしたよ。」
芙啓はしみじみと呟いた。
豊国の芙家の領地では、茶葉の栽培が盛んに行われていた。
毎年新茶の季節になると、都に在住する親族が集まり、時節や茶の感想を歌に詠み合いながら、送られてきた新茶をゆっくりと楽しんでいた。
そのひと時がどれほど貴重なものだったかを、今更ながらに芙啓は想うのだっだ。
喜んでいただけたようで嬉しい、と諭利は礼を返した。
「淳の元に行くまでに、随分と時を要したようだが、その間はどうしていたのだ?」
「旅芸人の一座に加わって、流れ歩いていたのです。
路銀が尽きたところに運良く助け船が現れたわけです。
そこでは雑用を色々とやっていました。
一座が豊国を去ることになり、芸人たちとも親しくなって、名残惜しくはあったのですが、国境付近の町で別れました。
それからは、あれこれと日雇いの仕事などを見つけ、路銀を稼ぎながら、遊吉様のいる豊国の都を目指したのです。
そして、ある時、雑役夫の募集を知り、それが率の良い仕事だったので応募したのですが、騙されて、不本意ながら私は兵士になってしまいました。
馬車の荷台に揺られ、着いた場所は、
連れて行かれた先で、いきなり砂袋を担がされ、山道を一日中走らされたのです。
監視が厳しく、逃げることもできずに、散々な思いをしましたよ。
しかし、苦しい思いをして、そこで学んだことは、今では良い経験となっています。
城攻めの際に、近くの沼地から葦を刈ってきて堀を埋めたり、反対に、掘りを巡らせて川から水を引き、水攻めをしたり。
川に橋を架けることや、簡易な要塞を造ることもしました。
私のいた軍の将は、兵糧責めを得意として、戦闘よりも、そうした工作のほうに、より多くの手間をかけたのです。
承様、
「ええ、知っています。
元々は衛国の公子で、現在は出家なされて、国の北部の、妙覚寺という山寺でお暮らしになっているのでしょう。
🌸 七 剥落
「明晏仁は、諸国の紛争の仲裁や、長引いた戦争に落とし所を見つけて、和議を取り結ぶことをなさっているとも聞いています。」
「承様は、軍記物を好んで読まれていらっしゃるので、そうした話にもお詳しいようですね。
じつは、私は礼昂君と戦った経験があるのですよ。
これは今より、八年ほど前の話でございます。
私が所属していた泰国の軍は、現在の泰王である陽山君を総大将に据えて、推師をおこなっていたのです。
我々は、敵の城、周囲二里の間に塀を高々と築き上げ、兵糧攻めを展開していました。仕掛けは万全、あとは敵方が『参った』と云うのを待つのみとなっておりました。
そうして、陽山君には、陣の後方で高みの見物に興じていただいていたのです。
既に兵糧は尽きて久しく、城内の者は飢えに耐えかね、落城も間近であろうという頃合でした。
そこへ、一報が入ったのです。
ひと月前に攻め落とした城が、礼昂君率いる軍によって奪い返されたというのです。
そして、その軍は勢いに乗り、こちらへ向かっているというのです。
我が将は、援軍が到着するまでに何とか城を落とそうと、城内の者との交渉を急ぎました。
しかし、用心していたにも関わらず、援軍が向かっているとの情報は中へ伝わり、敵方は奮起を取り戻したのです。
援軍の到着は思いのほか速く、今度は我々が、双方から挟み込まれる形となってしまいました。
こうした事態に備え、陽山君には秘密裏に陣営を離れていただいていました。
我々も早々に撤退しましたが、礼昂君の追撃は厳しく、背には陽山君を守りながらの退却となり、我々は非常に苦しい戦いを強いられたのです。
陽山君を逃がす為に我々は二度陣を布いて戦い、その度に半数以上の兵を失いました。
こうした苦闘の末に、陽山君は無事に国境を越え、我々も国境付近で泰の援軍と合流することができたのです。
泰国は和議を申しいれ、元々は衛国の領土だった二つの邑を譲り、公子の一人を人質として預けることで、戦いは終結したのです。」
「〈
興奮ぎみに、承は云った。
「勝利した衛国の軍も、勝ったとはいえないほどの打撃で、相当な激戦であったと資料にありました。」
「衛の王族の霊廟がある、伯洛陵周辺でおこなわれた戦いでしたので、そう呼ばれていますが、泰国では自戒の意味で、剥落、剥がれ落ちるように戦力を削がれるの意で〈剥落の戦い〉と伝わっています。
過酷な訓練を共に耐えた者たちは、血を分けた親兄弟にも近い絆がありました。
一人、また一人、そうした者が倒れていく様を見るのは辛く、負傷した者を背負って逃げる余力などはなく、生きている者は自身が生き残るだけで精一杯なのです。
承様、私の隊の隊長は名を
その方も戦いの中で命を落としています。
怜悧な頭脳に篤い心を持った漢でした、よろしければその名をお留め置きください。」
🌸 八 達磨
「わかりました。
維吹様というのですね。
心に留めておきましょう。」
諭利の演じる郭将軍の姿は、静かな台詞回しの中にも鬼気迫るものがあった。
それは諭利自身が死線を越えたからこそ発することのできた「偽りなき言葉」だったのだろう。
歌を口ずさみながら茶を淹れる、この涼しげな姿からは想像もつかない、過酷な体験をしているのだ。
人は表面だけで、推し量ることができない。
「諭利さん、私は、礼昂君の戦術の見事さだけを見ていました。
こうして物語として書かれたものを見ると、どうしても礼昂君の側に自分は立っているのです。
窮地に追い込まれていた衛国の軍が、礼昂君の立てる戦略により形成を逆転させていく過程には、胸がすく思いでした。
しかし、この戦いにあなたが泰国の一兵士として、身を投じていたのだと聞くと、複雑な思いがいたします。
物語としての話が、途端に現実味を帯びて、単に死者の数が二千、三千というのにも、その一人一人に人生があり、帰りを待ち望んでいた者がいることを、改めて想うのです。」
過去の出来事を、こうして真摯に考えてくれている承に、諭利は好感を持った。
「物語は、どちらの側に立つかで読む者の気持ちも変わります。
その話を書き記した者は、やはり礼昂君の戦術の見事さに引き込まれ、世に広めたいと感じたのだと思います。
幸いにして、私は生きて泰国の地を踏むことができたので、兵士を辞めました。
私は、豊国の都へ行く旅の途中であり、元々は騙され、強制されていたことでしたから。
承様、〈伯洛陵の戦い〉をご存知なら、我が将の名も、知っていますよね。
背丈は五尺三寸と小柄ですが、身体は獅子のように強靭でございました。
赤銅色に焼けた肌が黒光りし、ギョロリとした大きな目玉には、尋常でない強い光が宿っておりました。
うねりの強い髪をなびかせ、馬を駆るその姿は、さながら『稲光を
鷹道様は、兵糧攻めを得意とされていましたが、戦闘に於いても名うての戦上手で、敵方には鬼神と恐れられていたのです。
戦いを省みて、これほどの窮地に追い込まれたことはかつてない、と仰っるほど、礼昂君は手強い相手だったのです。
死線を越えた数少ない生き残りである私を、鷹道様はとても気にかけてくださり、除隊した私に、あの方が懇意にしていた茶人を紹介してくださいました。
承様にはお話ししましたね、その方が清張さんです。
清張さんは趣味が興じて茶の商いをなさっていて、私はそのお手伝いをさせていただいていたのです。
そのうちに商いが楽しくなってしまいまして、遊吉様のもとに行くのが遅れたのは、こうした理由からなのです。
気がつけば、珠国を旅立ってから、すでに六年が過ぎておりました。」
🌸 九 遊吉
「遊吉様のもとでは、三年ほどお世話になりました。
この国で、あの方は大層な悪人のように伝わっていますが、側にいる者で、あの方を悪く云う者は一人もおりません。
王の庇護を受け、大臣ほどの
あの方は、屋敷とは別に住まいをお持ちで、そこは遊郭の中の『
十六の歳から、そこの物置に住み込んで絵を描いていらしたのです。
訪ねて行くと、部屋の中は描き汚した紙で足の踏み場もなく、山積みにされたいかがわしい書籍が床板を軋ませておりました。
あの方は、着たきりの身なりで、酒の臭いを漂わせ、挨拶がわりに通りすがりの女の尻を撫でておいででした。
名門の子息の面影はございません。
先生のご友人であるとお聞きしていましたので、初対面の私は少々唖然といたしました。
遊吉様は、普段はそこに身をおいて、絵の注文が入ると、旅支度を整え、出ていかれるのです。
今はどうだか知らないけれど、当時、あの方は五十両以下の仕事を受けておられませんでした。
貴族や豪商などが主な取引相手だったのです。
地方の有力者からの依頼を受け、絵を描きにゆく、──私はその旅の供を務めていたのです。
放っておくとあの方は、目新しいものに飛び付いて、子供のように何処かへ消えてしまうのです。
旅の路銀も、あの方に持たせていると、遊廓へ行って一晩で使ってしまうので、私は寝ている間も巾着を体に結わえて離さず、期日どおりに絵が仕上がるよう、監視役をしておりました。
と、ここまでの話しでは、遊吉は噂に違わぬ道楽者と受け取られてしまいますが、あの方は絵を売った金で、戦争で土地を失い、豊国へ流れてきた民の支援を、密かにしていらしたのです。
高額で書画を取り引きしていたのは、そのためでもあるのです。
そして、それを承知した上で、遊吉に絵を頼む方々がいらしたのです。
私が暮らし始めて二年目の冬でした。
街が大火に見舞われ、多くの者が寒空の下、家を焼き出されました。
遊吉様は、地主にかけ合っていち早く土地を確保すると、自らの人脈を使って木材を運び入れ、仮住まいの長家を建てたのです。
それによって、寒さに凍え死ぬ者も格段に少なかった。
放埒に見えながら、人に寄り添って暮らしている、絵師の遊吉が人々に愛される由縁です。
諸国を流れ歩き、根無し草のような私は、その様子を見て、何処かひとつ所に根を下ろし、暮らしたいと思うようになりました。
そうすると、懐かしい人たちの顔が思い出され、故郷へ、あの温かい場所へ帰りたいとの想いが募っていったのです。
ちょうど、さる貴族から絵の依頼があり、豊国の南方へと遊吉様の供をして行くこととなりました。
ここからならば、珠国も近い、私は想うまま、遊吉様に『国に帰ります』と告げ、別れたのです。」
❀
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