【伍】 禁忌
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一 禁忌
二 邂逅
三 対局
四 懇願
五 決着
六 離別
七 半身
八 代償
九 後始末
🌸 一 禁忌
月兎は、この国の裏社会に根を張り、牛耳っている者だ。
男か女か、若いのか老いているか、一人なのか複数か不明である。
正体を探ろうとする者には、死が待ち受けるとされている。
その名さえ、口にするのは憚られ、子供たちの間では、つい発してしまった名を打ち消すための、まじないの言葉が伝わっている。
『ノエルウヌルソエル』
月兎に刃向かう者は、この国では生きていられない。
月兎の発言は、何を推しても必ずとおり、ひとたび発した言葉は、云い直しも取り消しもされない。
その存在を誰もが知りながら、誰もが知らないふりをしている、この国の禁忌である。
ただし、ごく限られた者だけ、月兎に目通りを許されている。
月兎に認められ、
この国の土地を東西南北に分割し、それぞれの方角を守護する四神(青竜、白虎、鳳凰、玄武)にちなんだ名を冠し、土地を治める。
この四人の親は、ヤクザ者ながら一代限りに士族の身分を得て、私兵を持つことを許されている。
「親」の選出は世襲ではなく、組の者たちの投票で決まる。
親が死んだ時や、親としての能力に欠けると判断された場合に、入れ札がおこなわれる。投票の札は、他の組の三人の親に一票ずつと、その組のうちの有力な六つの組の頭に一票ずつ、計九票となる。
ちなみに、市蔵が席をおく青竜系の迅水組の
二十三の若さで組を継ぎ、一票を持っている。
この一票を持つことで、頭の実力のほども知れるし、迅水組の若い衆も、街なかで大きな顔をしていられる。
今より十二年前。──
初音が率いていた商団と、迅水組の一団が、
商売の組合から、「市場を荒らしているガキ共を排除してくれ」との要請があり、当時〈青龍〉のうちで勢いを増してきた、迅水組の兆爾が名乗りをあげた。
迅水組が乗り出してきたことで、愚連隊のガキ共は「死をも辞さず」と覚悟を決めた。
どうせなら組織相手に一矢報いてやる、桜のように華々しく散ってやるのだ、と息巻いていた。
そこへ、川上から一艘の屋形船が流れてきた。
船頭の歌う舟歌が徐々に近づいた。
緊迫した双方の陣地に風が吹き込み、サワサワと葦を揺らした。
船は、この辺を巡っている、観光客むけのものだった。
通り過ぎると思われた船は、初音の率いる愚連隊の側の岸へ着いた。
船の内から、男物の黒い衣装に身を包んだ、麗しい女が船の舳先に立った。
「皆さま方、この場は
女の声は、真冬の朝のようにキンと澄んで響き渡った。
思わぬ名に、両岸からざわめきが涌き起こる。
女は、初音に向かい、船に乗るようにと促した。
🌸 二 邂逅
それは誘いではなく命令だということを、初音は理解していた。
預かる、という言葉が示すように、月兎の私兵らしき軍団が、対峙した双方の周りを包囲していた。
兵の数はざっと見ても五百をくだらない。
今までどこに身を潜めていたのか、幻術のように一瞬にして現れたとしか思えなかった。
初音は、船に向かい歩き出していた。
「行くな、」と声をあげた市蔵の後ろで、兵はいっせいに矢を引き絞り、ガキ共に狙いを定めていた。
それまでの威勢の良さは消え去り、少年たちは標的になることを恐れて一歩も動けずにいた。
初音は振り返り、「大丈夫、お前たちに手出しはさせない。」と、頬笑んでみせた。
初音を乗せた船が静かに岸を離れていく。
遠ざかる船を目で追いながら、なんの役にも立てない己が情けなく、市蔵はギュッと拳を握りしめた。
船に乗り込んだ初音の前には、黒い円卓があった。
円卓の上には碁盤が置かれている。
その後ろには、銀製の兎の仮面を着けた黒衣の者が座っていた。
頭に頭巾、体を外套ですっぽりと覆い、円卓の上に乗せた手には皮手袋がはめられていた。
黒い影、とも見えるその者が「
「どうぞ、お座りください。」
女は、月兎の正面にある椅子の背を引いて、初音を座らせた。
月兎は胸の前で指を動かした。
黒皮の指がギチギチと音を立て、ながらせわしなく動く。
指の動きを読みとり、女は初音に意思を伝える。
「月兎は、あなたを
何故、と問うたところで詮ないことだ。
月兎が望めばとおらぬことはない。
「今より、私の発する言葉を『月兎』の声とお聞きください。」
女はそう宣告し、話しをつづけた。
「勝負をしていただきます。
あなたが勝負に勝てば、あなたは私の妾となる。
負けた場合、あなたは如何なることにも、私に従わなくてはならない。
勝負を断ることも、船を下りることも許さない。
拒めば、ここにいる私の従者が、即座にあなたの首を断つでしょう。」
従者というのは、声を発している女のことだ。
女は、刀の鯉口を切る素振りを見せ、「首のない胴体を、己の
「私が合図をだせば、岸で待つあなたの仲間の頭上に矢の雨が降ります。
月兎の、『紅月の兵団』の囲みから、鼠一匹、逃れることはできません。」
「選択の余地はないのですね。
わかりました、勝負をお受けいたします。」
初音は静かに答えた。
仲間の命が危険に晒されている。
冷静にならなければ判断を誤る。
仲間たちと己は一蓮托生なのだ。
碁を打ちながら、初音は月兎を見ずに、従者の女を観察した。
端正であるけれど目立った特徴はなく、印象に残らない顔だ。
人によっては、二十歳そこそこに見える女の年齢、初音は、三十五、六と推測した。
それにしても、──と、初音は首を
🌸 三 対局
妾にしたいと望むなら、有無を云わせず従わせることが可能だろう。
こんな回りくどいやり方をする必要はないはずだ。
「船は川を巡り、一刻ほどで元の岸へ戻ります。
この間に勝負が着かない場合には、先程の取り決めは無効となります。」
月兎は白の石を初音に譲った。
十九路盤に、まず初音が一手を打ち、月兎との対局が始まった。
交互に石を置き合い、相手の出方を窺いながら網をはる。
囲碁は石を囲む遊びだと、お爺さまに教わった。
初音の思うところ、月兎の打つ手は悪くはない。
だが、例えば、飯屋の日溜まりで碁を楽しんでいる者たちと変わらない。
平凡な手筋であるとしか云いようもない。
相手に合わせた無難な手を繰り出しながら、初音は月兎の思惑を探っていた。
たかが愚連隊の始末に月兎が出てくるなどあり得ない。
始末なら、迅水組が動いていた。
今夜ガキ共に仕置きをして、事が収まるはずだった。
しかし、何の気紛れか、月兎は自ら出向いて、ただ今、初音と差し向かいで碁を打っている。
そうして、半刻ほどが過ぎようとしていた。
こうした平凡な手筋をみるに、大仰な仮面の下は、やはり生身の人間なのだろう。
石を打ちながら、こう考える余裕が生まれていた。
碁盤を眺めているうち、初音はハッと気がついた。
初音の目には、碁盤の上に確かな布石が見えていた。
碁石を挟んだ初音の右手は宙で動きを止めていた。
その一点だけが、不思議な光りを放って見えているのだ。
そこに置いたなら、──と考えた。
初音の頭の中で、自分の打つ手と月兎の返す手がハチンハチンと繰り返され、勝てる、という確信に至った。
──勝てる!
勝負が決まる、そう感じた瞬間、碁を挟んだ二指が震えた。
初音は急に恐ろしくなった。
月兎は強くない、そう油断させ、こちらの出方を見ているのではないか。
果たして勝てたとして、何の得があるのだろう。
こんな得体の知れないモノの妾になど、考えるのもおぞましい。
女は云ったではないか、船が岸に戻るまで勝負が着かなければ取り決めは無効だと。
月兎に二言はない。
岸に着くまで時を稼ぎ、無効に持ち込めたら占めたもの。
すでに半刻以上過ぎている。
この状態を保つことができるのではないだろうか。
初音は、光る一点を避け、石を置いた。
月兎に変化はない、──が、側にいる女の表情が動いた。
その目に憂いが奔った。
それは、月を雲が覆い隠す間際のような、一瞬の揺らめきだ。
初音は不吉な気配を感じた。
血の匂いを嗅いだ獣が、ヌッと頭を持ち上げ、こちらを見る、──そんな気配だ。
月兎の手筋に変化が生じた。
初音は激しく動揺した。
まったく先が読めなくなった。
白を囲む黒が、網目のように見えた。
──この勝負、勝ち目はない。
私は鉢の中で泳がされてる小魚。
何処にも出口がない。
冷たい汗が伝う。
勝負を終わらせないようにと、焦りが募る。
🌸 四 懇願
すべての意識を碁盤に集中させた。
波の音も、舟歌もかき消えた。
初音の耳には、ハチンハチンと石を打つ音だけが鳴っていた。
体が冷えた。
汗が大量に流れ落ちてきた。
船はまだ岸に着かないのだろうか。
後どれほどだろうか。
歌など歌っていれば、知らぬ間に過ぎている時間だが、今は、瞬きほどの間でさえ、ひどく長いときに感じる。
──万策、尽きた。
打つ手を失った。
置いても
碁盤の上に石を挟んだ指をかざしたまま、初音の手はふたたび止まった。
──ここで留めておけば良い。
岸へ着くまでこのままに、──そう考え、初音はふっと笑った。
そんな小細工が、通用する相手ではない。
「参りました。」
呼吸を整え、初音は言葉を継いだ。
「私はこの身を尽くし、あなたに仕えさせていただきます。
ですから、一つだけ、私の願いを聞いていただけないでしょうか。
──生涯で、ただ一つの願いでございます。」
息も絶え絶えになりながら、初音は声を振り絞った。
「私の仲間をお助けください。
手前勝手な願いとは重々承知しております。
私たちは、罰を受けるべきでしょう。
皆、命を捨てる覚悟をしております。
ですが、その多くは
生きて罪を償う機会を与えてはいただけないでしょうか。
この身一つでは不足でしょうが、どうか、お頼み申します。」
初音は床に這い、額を擦りつけて懇願した。
初音が「参った」と云ってまもなく、船は川岸に到着した。
月兎の指先が胸の前で動いた。
「若い時分は恐れを知らず、事が上手く運んでいるうちには、つい驕り高ぶり、越えてはならない一線を簡単に越えてしまうものです。
あなた方は、今回のことで過ちに気付いたはずです。
勇敢なお嬢さん。
あなたの願いを聞き入れ、この場は私が納めましょう。
はじめに申し渡したとおり、あなたは私に従うのです。
商売は、今日を限りに辞めなさい。
そして三日以内に、あなたは国を去るのです。
これを守るなら、あなたの仲間に手出はしない。
誰にも、手出しはさせないと、月兎の名にかけて約束いたします。」
女が語り終えると、初音はその場に崩れた。緊張の糸が切れて目がくらみ、ぷつりと意識は絶えた。
女は、初音の体を胸の前に抱き寄せて立ちあがった。
「参った、──と云わなければ、首をはねているところでした。」
女は慈愛に満ちた表情で自分の袖口を手繰り寄せ、初音の顔の汗を
女は、初音を抱えたまま船を降りると、市蔵に歩み寄り、初音の体を預けた市蔵が腕を差し入れると、初音の脇下はぐっしょりと濡れていた。
髪の先からは汗が滴り、顔の化粧は流れていた。
不安げに、首の脈を確かめている市蔵に、女は云った。
「気を失われているだけですから、ご安心を。」
🌸 五 決着
女は船にもどり、舳先から、対峙する一同に呼びかけた。
「皆さま方、闇雲に血を流すことなど、どなたも望んでおりますまい。
この場は月兎が納めます。
酒に酔いしれるなり、美女と語りあうなり、好きになさいませ。
一夜の宴を愉しみ、鶏鳴が夜の終わりを告げたなら、今宵のことは夢まぼろし、──どうぞ、他言無用に願います。」
女が語り終えると、船は下流へ流れていった。
船影が闇に消えたのちも、カラリとした船頭の歌声は、しばし夜の
月兎の言葉を聞き入れ、双方、共に矛を納めた。
これにてお手打ち。
拍子抜けではあるが、血を見ずに済んだのだ。
あたりを見わたすと、月兎の兵団も人知れず消えていた。
他言無用、と言われたとおり、その夜の出来事を人に語る者はいなかった。
市蔵は、その場で商団の解散を告げた。
一同にどよめきが起きたが、解散する他はないと誰もが納得した。
内心では、ほっと胸を撫でおろし、命拾いしたのを喜んでいる者が大半だった。
迅水組の頭数は百、こちらは五十に満たない数だった。
それでもよく集まったほうだ。
命を惜しむのは当然だ。
行く、と云って現れなかった者や、直前で逃げ出した者を、市蔵は、責める気はなかった。
集まった者のなかでも、覚悟の決まった者は
市蔵は、「今まで稼いだ金の配分があるから、十日後にもう一度集まるように」と、場所と時間を指定し、一同を帰した。
市蔵も、早く体を休めたかった。
初音を背負い、市蔵は近くの連れ込み宿に向かった。
気を失った初音の体は、ずっしりと重く肩にのしかかっていた。
部屋に入ると市蔵は布団の上に初音をおろした。
体が冷えないようにと布団を掛け、顔周りの汗だけを拭ってやった。
そして自らは、側の柱に背を預けて座り、
心身ともに疲れきっていたが、意識は眠りのきわに留めておいた。
夜半、初音は目を覚ました。
見知らぬ部屋だが、──と首を右に傾けると、独り煙草を吹かしている市蔵の姿があった。
「市蔵、」と、初音はかすれた声で呼びかけた。
「私は、どれくらい眠っていたのだろうか?」
「二刻ほどだ。
まだ眠っていろ、と云ってやりたいところだが、そんなわけにもいかないのさ。
俺たちが商団のまとめ役だからな。」
市蔵は、初音を安心させるよう、お道化た調子で云った。
「大掃除が待っているぜ。
とっ散らかったものを片付けなきゃな。
禿鷹どもが俺たちの金を狙っている。
かき集めて仲間に分けてやったら、死ぬほど眠っていられるさ。
温泉にでもシケ込もうぜ。
しばらくのんびりして、また新しい金儲けの方法を見つけよう。
俺たち二人なら、なにをやっても上手くいくさ。」
初音は半身を起こした。
虚ろな表情で、髪を後ろに払い流した。
🌸 六 離別
「その服を着替えたほうがいい、風邪をひくぜ。
大汗をかいて濡れちまってるし、化粧だって剥げ落ちて、化け損なった狐のようだ。
夜が明ける前に直しておけよ。」
市蔵はからかいながら背を向けた。
着替えさせておくべきかと思案したが、どうにも手を触れるのはためらわれた。
化粧の落ちた顔は、湯上がりみたいにつるりと艶めいて、直視してはいられなかった。
初音は、市蔵の背に語りかけた。
「市蔵、すまない。
私は三日のうちにこの国を去らなければならない。
これは月兎との決め事なのだ。
商売を辞め、初音が消えることが、仲間を助ける条件だ。」
「だったら、お前は、──」
と、市蔵は振り返って、初音の肩口を両手で握りしめた。
「日吉はここに居られるだろ。」
初音は首を横に振る。
「それは詭弁だ。
『初音』は日吉とこの国を去る。
そして『初音』という人間は、永遠に消える。」
市蔵の顔は、悲しく歪んだ。
酸っぱいものが口の中に溢れた。
「市蔵。
残された三日のうちに、私はできる限りの手を尽くすつもりだ。
そのあとのことを、おまえに任せていいだろうか。
頼めるのは、おまえしかいない。
おまえは私に肩を貸してくれた。
私が安心して背を預けられたのは、おまえだけだった。
おまえを
甘えるのはこれが最後だ。
最後に、こんなことを頼むのは、とても心苦しいよ。」
市蔵は、初音の手をとってかたく握り、間近に顔を寄せた。
「任せておけ。
きれいサッパリ片付けてやるさ。
いつの日にか、おまえがこの国に戻ってこれるようにな。」
明け方まで、二人は今後の手筈を話し合ったのち、手分けしてあちこちを駆けまわった。
二日かけ、商売に関わる諸事をあらかた処理した。
「──畜生め!
曼玉に預けた金が戻って来ねえ。
『
市蔵はギリギリと歯噛みした。
「仕方がない。
奴らの目的ははじめからそれだったんだ。
迅水組に掃除を任せておいて、自分たちは美味しいところをかっ
「ああ、まったく、汚ねぇ奴らだ。」
「市蔵、俺の金を分けてやってくれ。
俺は、国をでて、豊国に住む
先生が、手紙を書いておくと仰ってくれた。」
話しをやめ、日吉は市蔵を見つめた。
「三日目だ。
──少し話さないか。」
市蔵の隠れ家に移って、二人は昔話をしながら酒を注ぎ合った。
思いつくまま、取り留めもない話しを長いことした。
船の刻限が迫っていた。
市蔵は珍しく酔って、卓の上に顔を伏せた。そうして、すうすう寝息をたてはじめた。
──下手くそな芝居。
と、日吉は思った。
別れの挨拶をするのは、湿っぽくなって嫌なのだ。
日吉はそっと、市蔵の肩に
🌸 七 半身
顔を寄せると市蔵の匂いがした。
愛しい生き物の、匂いがした。
この背に護られてきた、──そう思うと、これまでの様々な出来事が同時に現れ、胸が熱くなった。
「ありがとう。」
日吉は、その背に手を置いて呟いた。
そして静かに、立ち上がった。
ミシリミシリ、階段を降りていく音が聴こえた。
勝手口の戸が開き、そして閉まる音が聴こえた。
市蔵は両手で頭を抱え込んだ。
背は小刻みに震えた。
──消えちまった。
俺の大切なものが、なくなった。
商売も仲間もいっぺんに失った。
こんなことが起こるなんて、数日前には考えもしなかった。
やくざ者が
けれど、たとえ何を失ってもあいつだけは隣にいる。
二人でなら、切り抜けられる。
どれほど厳しい状況であろうとも、傍らには、励まし合い、つまらない冗談に笑い合える「友」がいる。
そう、思っていた。
日吉に会うまで、独りで生きてきた。
俺は一人になった。
すると、親類を名乗る男が現れ、見も知らぬそいつに俺は引き取られた。
じつは、男は親類でもなんでもない赤の他人で、しかも、孤児を集めて銃の密造をさせているクソ野郎だった。
身寄りない子供の処遇に、長屋の大家は困っていた。
男の素姓を知りながら、俺を引き渡していたのだ。
あとになって、男から訊かされた。
家賃の滞納があるから、幾らか金をもらえないだろうか、と、大家は金を要求したそうだ。
庇護してくれる大人はいない。
誰も信用できない。
──頼れるのは己だけ。
そう、自分に言い訊かせてきた。
独りでだって上手くやれた。
また独り。
元にもどるだけじゃないか。
けれど、そう思ったとたん、えづくほどの寂しさに襲われた。
失ったら、体を半分もがれてしまったように、心許ない。
それほどに、日吉の存在が大きくなっていたのだ。
腕に口を押しつけ、声を殺し、市蔵は泣いた。
体は、己が感じていた以上に疲労していた。市蔵は、涙を流しながら眠りの深みに落ちていた。
勝手口が開き、女が階段を上がって来た。
仕事を終えて帰った女は、暗がりの中に、市蔵の姿を見つけた。
どうやら酔い潰れ、寝入ってしまったようだ。
すると、手の上に市蔵の手が添えられた。
振り返り、市蔵は眩しげに目をほそめ、女を見上げた。
「どうしたの? 怖い夢でも見たのかしら。」
「そうだ、恐ろしい夢だった。」
寂しげに、市蔵は笑った。
その目は赤く、頬には涙の跡が光っていた。
「月の化け物が現れて、そいつは真っ黒い大口を開け、全てを飲み込んだ。
俺はただ、……見ていることしかできなかったよ。」
「そう、可哀相に。……」
女は市蔵の首に、そっと細い腕を巻きつけた。
🌸 八 代償
市蔵は女の胸元を広げて顔を谷間に突っ込んだ。
塗り込んだ
女は
市蔵の手が、尻の辺りで着物の裾を手繰り寄せている。
「待って、着替えを済ませるから。」
そう云ったが、市蔵は手を止めなかった。
乳を欲しがる子供のように鼻づらを胸に擦りつけながら、着物の内側に手を入れてくる。
──仕方のない子。
女はポンポンと背を叩き、市蔵を引き離して、自ら着物を脱いだ。
着物に皺が寄らないよう、粗く畳んで置いた。
今夜は嫌な客に絡まれて、早く体を休めたいと思っていたところだが、女は市蔵に体を与えてやった。
いつもは大人ぶって、生意気な口を利く小僧だが、今日はえらく可愛いらしいじゃないか。
何も話さないけれど、商売がらみのことで、ここ数日、やくざ者が市蔵を探し回っていたのを知っている。
半身を起こすと、市蔵は
泣き顔を見られたくないのだと女は思った。
涙のせいか、
荒々しさはないが、市蔵の愛撫は執拗で、救いを求める者のように、一心に体にしがみついてきた。
「──昔、世話になった姉さんがね、西の町で宿屋をやっているの。
近くの川で護岸工事が始まっていて、役人に頼まれて、炊き出しの世話なんかをしているそうなのよ。
人手が欲しいと云っていたわ。
あんた器用だから、きっと重宝されると思うの、その気があるなら話してみるけど。」
市蔵を傷つけないよう、女は気遣っている。
こうして気を回されると、余計に自身が情けなくなる。
市蔵は指で女の口を探り当て、自分の口を重ねた。
市蔵の指が茂みの奥へ割り込んだ。
女は身を
しっとりとした柔肌の間に
──そうだ、何もかも投げ捨てて、共に行くことだってできたはず。
けれど俺には、それができなかった。
🌸 九 後始末
翌日から、再び後片付けを始めた。
迷惑を掛けた人々に詫びをして周り、掻き集めた金をできる限り仲間に分配した。
それから、自分の側に残った十名ほどの者を引き連れて、西の町に行き、女が紹介してくれた宿屋を頼った。
宿屋は、聞いていた以上に大きな建物で、大層繁盛していた。
しばらく宿屋に置いてもらい、人足の仕事でもするつもりでいたが、宿屋での仕事は山ほどあった。
朝から晩まで休み無しに働かされたが、市蔵たちは文句を云わず、テキパキと雑用をこなし、若くて使い勝手が良いので、頼りにされるようになっていた。
滞在している間に、地元の女と恋仲になって、所帯を持つものもあらわれた。
市蔵自身、このままここで暮らすのも悪くないと思い始めていた。
そうして、ほとぼりが冷めた頃、商団を解散した後の引き際の鮮やかさを認められ、迅水組の親分に「ウチに
市蔵は酒を口にして、改めて諭利に向き合った。
「それで、お前は何の商売を始める気なんだ?
❀
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