【伍】 禁忌



  一  禁忌  ─ きんい ─

  二  邂逅  ─ かいこう ─

  三  対局  ─ たいきょく ─

  四  懇願  ─ こんがん ─

  五  決着  ─ けっちゃく ─

  六  離別  ─ りべつ ─

  七  半身  ─ はんしん ─

  八  代償  ─ だいしょう ─

  九  後始末  ─ あとしまつ ─









🌸  一  禁忌  ─ きんい ─



 月兎は、この国の裏社会に根を張り、牛耳っている者だ。

 男か女か、若いのか老いているか、一人なのか複数か不明である。

 正体を探ろうとする者には、死が待ち受けるとされている。

 その名さえ、口にするのは憚られ、子供たちの間では、つい発してしまった名を打ち消すための、まじないの言葉が伝わっている。


 『ノエルウヌルソエル』


 すみかにもどれ、と解釈されているこの言葉は、実は「お帰りなさい」と家に迎え入れる意があり、「寧らかに眠れ」という鎮魂の意もあるのだ。


 月兎に刃向かう者は、この国では生きていられない。

 月兎の発言は、何を推しても必ずとおり、ひとたび発した言葉は、云い直しも取り消しもされない。

 その存在を誰もが知りながら、誰もが知らないふりをしている、この国の禁忌である。


 ただし、ごく限られた者だけ、月兎に目通りを許されている。

 月兎に認められ、さかづきを受けた四人の「親」だ。

 この国の土地を東西南北に分割し、それぞれの方角を守護する四神(青竜、白虎、鳳凰、玄武)にちなんだ名を冠し、土地を治める。

 この四人の親は、ヤクザ者ながら一代限りに士族の身分を得て、私兵を持つことを許されている。

「親」の選出は世襲ではなく、組の者たちの投票で決まる。

 親が死んだ時や、親としての能力に欠けると判断された場合に、入れ札がおこなわれる。投票の札は、他の組の三人の親に一票ずつと、その組のうちの有力な六つの組の頭に一票ずつ、計九票となる。


 ちなみに、市蔵が席をおく青竜系の迅水組のかしらは、兆邇ちょうじという、数えで五十二になる男だ。

 二十三の若さで組を継ぎ、一票を持っている。

 この一票を持つことで、頭の実力のほども知れるし、迅水組の若い衆も、街なかで大きな顔をしていられる。


 今より十二年前。──

 初音が率いていた商団と、迅水組の一団が、三喜みよし川を挟んで対峙していた。

 商売の組合から、「市場を荒らしているガキ共を排除してくれ」との要請があり、当時〈青龍〉のうちで勢いを増してきた、迅水組の兆爾が名乗りをあげた。


 迅水組が乗り出してきたことで、愚連隊のガキ共は「死をも辞さず」と覚悟を決めた。

 どうせなら組織相手に一矢報いてやる、桜のように華々しく散ってやるのだ、と息巻いていた。


 そこへ、川上から一艘の屋形船が流れてきた。

 船頭の歌う舟歌が徐々に近づいた。

 緊迫した双方の陣地に風が吹き込み、サワサワと葦を揺らした。

 船は、この辺を巡っている、観光客むけのものだった。


 通り過ぎると思われた船は、初音の率いる愚連隊の側の岸へ着いた。

 船の内から、男物の黒い衣装に身を包んだ、麗しい女が船の舳先に立った。


「皆さま方、この場は月兎ソエルが預かります。」


 女の声は、真冬の朝のようにキンと澄んで響き渡った。

 思わぬ名に、両岸からざわめきが涌き起こる。

 女は、初音に向かい、船に乗るようにと促した。







🌸  二  邂逅  ─ かいこう ─



 それは誘いではなく命令だということを、初音は理解していた。

 預かる、という言葉が示すように、月兎の私兵らしき軍団が、対峙した双方の周りを包囲していた。

 兵の数はざっと見ても五百をくだらない。

 今までどこに身を潜めていたのか、幻術のように一瞬にして現れたとしか思えなかった。


 初音は、船に向かい歩き出していた。

「行くな、」と声をあげた市蔵の後ろで、兵はいっせいに矢を引き絞り、ガキ共に狙いを定めていた。

 それまでの威勢の良さは消え去り、少年たちは標的になることを恐れて一歩も動けずにいた。


 初音は振り返り、「大丈夫、お前たちに手出しはさせない。」と、頬笑んでみせた。


 初音を乗せた船が静かに岸を離れていく。

 遠ざかる船を目で追いながら、なんの役にも立てない己が情けなく、市蔵はギュッと拳を握りしめた。


 船に乗り込んだ初音の前には、黒い円卓があった。

 円卓の上には碁盤が置かれている。

 その後ろには、銀製の兎の仮面を着けた黒衣の者が座っていた。


 頭に頭巾、体を外套ですっぽりと覆い、円卓の上に乗せた手には皮手袋がはめられていた。

 黒い影、とも見えるその者が「月兎ソエル」のようだ。


「どうぞ、お座りください。」


 女は、月兎の正面にある椅子の背を引いて、初音を座らせた。

 月兎は胸の前で指を動かした。

 黒皮の指がギチギチと音を立て、ながらせわしなく動く。

 指の動きを読みとり、女は初音に意思を伝える。


「月兎は、あなたをしょうの一人に加えたいと仰せにございます。」


 何故、と問うたところで詮ないことだ。

 月兎が望めばとおらぬことはない。


「今より、私の発する言葉を『月兎』の声とお聞きください。」


 女はそう宣告し、話しをつづけた。


「勝負をしていただきます。

 あなたが勝負に勝てば、あなたは私の妾となる。

 負けた場合、あなたは如何なることにも、私に従わなくてはならない。

 勝負を断ることも、船を下りることも許さない。

 拒めば、ここにいる私の従者が、即座にあなたの首を断つでしょう。」


 従者というのは、声を発している女のことだ。

 女は、刀の鯉口を切る素振りを見せ、「首のない胴体を、己のまなこに観ることになります。」と、微笑した。


「私が合図をだせば、岸で待つあなたの仲間の頭上に矢の雨が降ります。

 月兎の、『紅月の兵団』の囲みから、鼠一匹、逃れることはできません。」


「選択の余地はないのですね。

 わかりました、勝負をお受けいたします。」


 初音は静かに答えた。

 仲間の命が危険に晒されている。

 冷静にならなければ判断を誤る。

 仲間たちと己は一蓮托生なのだ。


 碁を打ちながら、初音は月兎を見ずに、従者の女を観察した。

 端正であるけれど目立った特徴はなく、印象に残らない顔だ。

 人によっては、二十歳そこそこに見える女の年齢、初音は、三十五、六と推測した。


 それにしても、──と、初音は首をかしげた。







🌸  三  対局  ─ たいきょく ─



 妾にしたいと望むなら、有無を云わせず従わせることが可能だろう。

 こんな回りくどいやり方をする必要はないはずだ。


「船は川を巡り、一刻ほどで元の岸へ戻ります。

 この間に勝負が着かない場合には、先程の取り決めは無効となります。」


 月兎は白の石を初音に譲った。

 十九路盤に、まず初音が一手を打ち、月兎との対局が始まった。

 交互に石を置き合い、相手の出方を窺いながら網をはる。

 囲碁は石を囲む遊びだと、に教わった。


 初音の思うところ、月兎の打つ手は悪くはない。

 だが、例えば、飯屋の日溜まりで碁を楽しんでいる者たちと変わらない。

 平凡な手筋であるとしか云いようもない。

 相手に合わせた無難な手を繰り出しながら、初音は月兎の思惑を探っていた。


 たかが愚連隊の始末に月兎が出てくるなどあり得ない。

 始末なら、迅水組が動いていた。

 今夜ガキ共に仕置きをして、事が収まるはずだった。

 しかし、何の気紛れか、月兎は自ら出向いて、ただ今、初音と差し向かいで碁を打っている。


 そうして、半刻ほどが過ぎようとしていた。

 こうした平凡な手筋をみるに、大仰な仮面の下は、やはり生身の人間なのだろう。

 石を打ちながら、こう考える余裕が生まれていた。

 碁盤を眺めているうち、初音はハッと気がついた。

 初音の目には、碁盤の上に確かな布石が見えていた。

 碁石を挟んだ初音の右手は宙で動きを止めていた。

 その一点だけが、不思議な光りを放って見えているのだ。

 そこに置いたなら、──と考えた。

 初音の頭の中で、自分の打つ手と月兎の返す手がハチンハチンと繰り返され、勝てる、という確信に至った。


 ──勝てる!


 勝負が決まる、そう感じた瞬間、碁を挟んだ二指が震えた。

 初音は急に恐ろしくなった。

 月兎は強くない、そう油断させ、こちらの出方を見ているのではないか。

 果たして勝てたとして、何の得があるのだろう。

 こんな得体の知れないモノの妾になど、考えるのもおぞましい。

 女は云ったではないか、船が岸に戻るまで勝負が着かなければ取り決めは無効だと。

 月兎に二言はない。

 岸に着くまで時を稼ぎ、無効に持ち込めたら占めたもの。

 すでに半刻以上過ぎている。

 この状態を保つことができるのではないだろうか。


 初音は、光る一点を避け、石を置いた。


 月兎に変化はない、──が、側にいる女の表情が動いた。

 その目に憂いが奔った。


 それは、月を雲が覆い隠す間際のような、一瞬の揺らめきだ。

 初音は不吉な気配を感じた。

 血の匂いを嗅いだ獣が、ヌッと頭を持ち上げ、こちらを見る、──そんな気配だ。


 月兎の手筋に変化が生じた。

 初音は激しく動揺した。

 まったく先が読めなくなった。

 白を囲む黒が、網目のように見えた。


 ──この勝負、勝ち目はない。


 私は鉢の中で泳がされてる小魚。

 何処にも出口がない。

 冷たい汗が伝う。

 勝負を終わらせないようにと、焦りが募る。







🌸  四  懇願  ─ こんがん ─



 すべての意識を碁盤に集中させた。

 波の音も、舟歌もかき消えた。

 初音の耳には、ハチンハチンと石を打つ音だけが鳴っていた。


 体が冷えた。

 汗が大量に流れ落ちてきた。

 船はまだ岸に着かないのだろうか。

 後どれほどだろうか。

 歌など歌っていれば、知らぬ間に過ぎている時間だが、今は、瞬きほどの間でさえ、ひどく長いときに感じる。


 ──万策、尽きた。


 打つ手を失った。

 置いても一目いちもくにもならない。

 碁盤の上に石を挟んだ指をかざしたまま、初音の手はふたたび止まった。


 ──ここで留めておけば良い。


 岸へ着くまでこのままに、──そう考え、初音はふっと笑った。

 そんな小細工が、通用する相手ではない。


「参りました。」


 呼吸を整え、初音は言葉を継いだ。


「私はこの身を尽くし、あなたに仕えさせていただきます。

 ですから、一つだけ、私の願いを聞いていただけないでしょうか。

 ──生涯で、ただ一つの願いでございます。」


 息も絶え絶えになりながら、初音は声を振り絞った。


「私の仲間をお助けください。

 手前勝手な願いとは重々承知しております。


 私たちは、罰を受けるべきでしょう。

 皆、命を捨てる覚悟をしております。

 ですが、その多くは二十歳はたちに満たない若い者たちです。

 生きて罪を償う機会を与えてはいただけないでしょうか。

 この身一つでは不足でしょうが、どうか、お頼み申します。」


 初音は床に這い、額を擦りつけて懇願した。

 初音が「参った」と云ってまもなく、船は川岸に到着した。


 月兎の指先が胸の前で動いた。


「若い時分は恐れを知らず、事が上手く運んでいるうちには、つい驕り高ぶり、越えてはならない一線を簡単に越えてしまうものです。

 あなた方は、今回のことで過ちに気付いたはずです。


 勇敢なお嬢さん。

 あなたの願いを聞き入れ、この場は私が納めましょう。

 はじめに申し渡したとおり、あなたは私に従うのです。

 商売は、今日を限りに辞めなさい。

 そして三日以内に、あなたは国を去るのです。

 これを守るなら、あなたの仲間に手出はしない。

 誰にも、手出しはさせないと、月兎の名にかけて約束いたします。」


 女が語り終えると、初音はその場に崩れた。緊張の糸が切れて目がくらみ、ぷつりと意識は絶えた。


 女は、初音の体を胸の前に抱き寄せて立ちあがった。


「参った、──と云わなければ、首をはねているところでした。」


 女は慈愛に満ちた表情で自分の袖口を手繰り寄せ、初音の顔の汗をぬぐった黒い衣装に、白粉おしろいがべったりと付いていた。

 女は、初音を抱えたまま船を降りると、市蔵に歩み寄り、初音の体を預けた市蔵が腕を差し入れると、初音の脇下はぐっしょりと濡れていた。

 髪の先からは汗が滴り、顔の化粧は流れていた。


 不安げに、首の脈を確かめている市蔵に、女は云った。


「気を失われているだけですから、ご安心を。」







🌸  五  決着  ─ けっちゃく ─



 女は船にもどり、舳先から、対峙する一同に呼びかけた。


「皆さま方、闇雲に血を流すことなど、どなたも望んでおりますまい。

 この場は月兎が納めます。

 きん、一千両にて、皆さま方の一夜を買い取ります。

 酒に酔いしれるなり、美女と語りあうなり、好きになさいませ。

 一夜の宴を愉しみ、鶏鳴が夜の終わりを告げたなら、今宵のことは夢まぼろし、──どうぞ、他言無用に願います。」


 女が語り終えると、船は下流へ流れていった。


 船影が闇に消えたのちも、カラリとした船頭の歌声は、しばし夜の静寂しじまに響いていた。


 月兎の言葉を聞き入れ、双方、共に矛を納めた。

 これにてお手打ち。

 拍子抜けではあるが、血を見ずに済んだのだ。

 あたりを見わたすと、月兎の兵団も人知れず消えていた。

 他言無用、と言われたとおり、その夜の出来事を人に語る者はいなかった。


 市蔵は、その場で商団の解散を告げた。

 一同にどよめきが起きたが、解散する他はないと誰もが納得した。

 内心では、ほっと胸を撫でおろし、命拾いしたのを喜んでいる者が大半だった。

 迅水組の頭数は百、こちらは五十に満たない数だった。

 それでもよく集まったほうだ。

 命を惜しむのは当然だ。

 行く、と云って現れなかった者や、直前で逃げ出した者を、市蔵は、責める気はなかった。

 集まった者のなかでも、覚悟の決まった者はわずかだ。


 市蔵は、「今まで稼いだ金の配分があるから、十日後にもう一度集まるように」と、場所と時間を指定し、一同を帰した。


 市蔵も、早く体を休めたかった。

 初音を背負い、市蔵は近くの連れ込み宿に向かった。

 気を失った初音の体は、ずっしりと重く肩にのしかかっていた。


 部屋に入ると市蔵は布団の上に初音をおろした。

 体が冷えないようにと布団を掛け、顔周りの汗だけを拭ってやった。

 そして自らは、側の柱に背を預けて座り、ふところの短刀を握ったまま、目を閉じた。

 心身ともに疲れきっていたが、意識は眠りのきわに留めておいた。


 夜半、初音は目を覚ました。

 見知らぬ部屋だが、──と首を右に傾けると、独り煙草を吹かしている市蔵の姿があった。


「市蔵、」と、初音はかすれた声で呼びかけた。


「私は、どれくらい眠っていたのだろうか?」


「二刻ほどだ。

 まだ眠っていろ、と云ってやりたいところだが、そんなわけにもいかないのさ。

 俺たちが商団のまとめ役だからな。」


 市蔵は、初音を安心させるよう、お道化た調子で云った。


「大掃除が待っているぜ。

 とっ散らかったものを片付けなきゃな。

 禿鷹どもが俺たちの金を狙っている。

 かき集めて仲間に分けてやったら、死ぬほど眠っていられるさ。


 温泉にでもシケ込もうぜ。

 しばらくのんびりして、また新しい金儲けの方法を見つけよう。

 俺たち二人なら、なにをやっても上手くいくさ。」


 初音は半身を起こした。

 虚ろな表情で、髪を後ろに払い流した。







🌸  六  離別  ─ りべつ ─



「その服を着替えたほうがいい、風邪をひくぜ。

 大汗をかいて濡れちまってるし、化粧だって剥げ落ちて、化け損なった狐のようだ。

 夜が明ける前に直しておけよ。」


 市蔵はからかいながら背を向けた。

 着替えさせておくべきかと思案したが、どうにも手を触れるのはためらわれた。

 化粧の落ちた顔は、湯上がりみたいにつるりと艶めいて、直視してはいられなかった。


 初音は、市蔵の背に語りかけた。


「市蔵、すまない。

 私は三日のうちにこの国を去らなければならない。

 これは月兎との決め事なのだ。

 商売を辞め、初音が消えることが、仲間を助ける条件だ。」


「だったら、お前は、──」

 と、市蔵は振り返って、初音の肩口を両手で握りしめた。


はここに居られるだろ。」


 初音は首を横に振る。


「それは詭弁だ。

『初音』は日吉とこの国を去る。

 そして『初音』という人間は、永遠に消える。」


 市蔵の顔は、悲しく歪んだ。

 酸っぱいものが口の中に溢れた。


「市蔵。

 残された三日のうちに、私はできる限りの手を尽くすつもりだ。

 そのあとのことを、おまえに任せていいだろうか。

 頼めるのは、おまえしかいない。

 おまえは私に肩を貸してくれた。

 私が安心して背を預けられたのは、おまえだけだった。

 おまえを真実まことの兄のように思っていたよ、──市蔵。

 甘えるのはこれが最後だ。

 最後に、こんなことを頼むのは、とても心苦しいよ。」


 市蔵は、初音の手をとってかたく握り、間近に顔を寄せた。


「任せておけ。

 きれいサッパリ片付けてやるさ。

 いつの日にか、おまえがこの国に戻ってこれるようにな。」


 明け方まで、二人は今後の手筈を話し合ったのち、手分けしてあちこちを駆けまわった。

 二日かけ、商売に関わる諸事をあらかた処理した。


「──畜生め!

 曼玉に預けた金が戻って来ねえ。

不知火しらぬい』の奴らに、金を押さえられちまった。」


 市蔵はギリギリと歯噛みした。


「仕方がない。

 奴らの目的ははじめからだったんだ。

 迅水組に掃除を任せておいて、自分たちは美味しいところをかっさらうつもりだったのさ。」


「ああ、まったく、汚ねぇ奴らだ。」


「市蔵、俺の金を分けてやってくれ。

 俺は、国をでて、豊国に住む遊吉ゆうきつという絵師を頼ることにした。

 先生が、手紙を書いておくと仰ってくれた。」


 話しをやめ、日吉は市蔵を見つめた。


「三日目だ。

 ──少し話さないか。」


 市蔵の隠れ家に移って、二人は昔話をしながら酒を注ぎ合った。

 思いつくまま、取り留めもない話しを長いことした。


 船の刻限が迫っていた。


 市蔵は珍しく酔って、卓の上に顔を伏せた。そうして、すうすう寝息をたてはじめた。


 ──下手くそな芝居。


 と、日吉は思った。

 別れの挨拶をするのは、湿っぽくなって嫌なのだ。


 日吉はそっと、市蔵の肩に半纏はんてんをかけた。







🌸  七  半身  ─ はんしん ─



 顔を寄せると市蔵の匂いがした。

 愛しい生き物の、匂いがした。

 この背に護られてきた、──そう思うと、これまでの様々な出来事が同時に現れ、胸が熱くなった。


「ありがとう。」


 日吉は、その背に手を置いて呟いた。

 そして静かに、立ち上がった。


 ミシリミシリ、階段を降りていく音が聴こえた。

 勝手口の戸が開き、そして閉まる音が聴こえた。

 市蔵は両手で頭を抱え込んだ。

 背は小刻みに震えた。


 ──消えちまった。


 俺の大切なものが、なくなった。

 商売も仲間もいっぺんに失った。

 こんなことが起こるなんて、数日前には考えもしなかった。

 やくざ者が出張でばってきて、商売が駄目になるのはわかっていた。

 けれど、たとえ何を失ってもだけは隣にいる。

 二人でなら、切り抜けられる。

 どれほど厳しい状況であろうとも、傍らには、励まし合い、つまらない冗談に笑い合える「友」がいる。


 そう、思っていた。

 日吉に会うまで、独りで生きてきた。

 三歳みっつのときにいくさで父を亡くし、七歳ななつで母に死なれた。

 俺は一人になった。

 すると、親類を名乗る男が現れ、見も知らぬそいつに俺は引き取られた。

 じつは、男は親類でもなんでもない赤の他人で、しかも、孤児を集めて銃の密造をさせているクソ野郎だった。


 身寄りない子供の処遇に、長屋の大家は困っていた。

 男の素姓を知りながら、俺を引き渡していたのだ。

 あとになって、男から訊かされた。

 家賃の滞納があるから、幾らか金をもらえないだろうか、と、大家は金を要求したそうだ。


 庇護してくれる大人はいない。

 誰も信用できない。


 ──頼れるのは己だけ。


 そう、自分に言い訊かせてきた。

 独りでだって上手くやれた。

 また独り。

 元にもどるだけじゃないか。


 けれど、そう思ったとたん、えづくほどの寂しさに襲われた。

 失ったら、体を半分もがれてしまったように、心許ない。

 それほどに、日吉の存在が大きくなっていたのだ。


 腕に口を押しつけ、声を殺し、市蔵は泣いた。

 体は、己が感じていた以上に疲労していた。市蔵は、涙を流しながら眠りの深みに落ちていた。


 勝手口が開き、女が階段を上がって来た。

 仕事を終えて帰った女は、暗がりの中に、市蔵の姿を見つけた。

 どうやら酔い潰れ、寝入ってしまったようだ。


 行灯あんどんに火をいれてから、女は、市蔵の体を横にしてやろうと肩に手をかけた。

 すると、手の上に市蔵の手が添えられた。

 振り返り、市蔵は眩しげに目をほそめ、女を見上げた。


「どうしたの? 怖い夢でも見たのかしら。」


「そうだ、恐ろしい夢だった。」


 寂しげに、市蔵は笑った。

 その目は赤く、頬には涙の跡が光っていた。


「月の化け物が現れて、そいつは真っ黒い大口を開け、全てを飲み込んだ。

 俺はただ、……見ていることしかできなかったよ。」


「そう、可哀相に。……」


 女は市蔵の首に、そっと細い腕を巻きつけた。







🌸  八  代償  ─ だいしょう ─



 市蔵は女の胸元を広げて顔を谷間に突っ込んだ。

 塗り込んだ白粉おしろいが汗で流れていた。

 女はなだめるように肩を抱き、頭を撫でた。

 市蔵の手が、尻の辺りで着物の裾を手繰り寄せている。


「待って、着替えを済ませるから。」


 そう云ったが、市蔵は手を止めなかった。

 乳を欲しがる子供のように鼻づらを胸に擦りつけながら、着物の内側に手を入れてくる。


 ──仕方のない子。


 女はポンポンと背を叩き、市蔵を引き離して、自ら着物を脱いだ。

 着物に皺が寄らないよう、粗く畳んで置いた。


 今夜は嫌な客に絡まれて、早く体を休めたいと思っていたところだが、女は市蔵に体を与えてやった。

 いつもは大人ぶって、生意気な口を利く小僧だが、今日はえらく可愛いらしいじゃないか。

 何も話さないけれど、商売がらみのことで、ここ数日、やくざ者が市蔵を探し回っていたのを知っている。


 半身を起こすと、市蔵は行灯あんどんを吹き消した。

 泣き顔を見られたくないのだと女は思った。

 へその辺りに、市蔵の顔がくっ付いている。

 涙のせいか、襦袢じゅばんが温かく濡れる気配があった。

 荒々しさはないが、市蔵の愛撫は執拗で、救いを求める者のように、一心に体にしがみついてきた。


「──昔、世話になった姉さんがね、西の町で宿屋をやっているの。

 近くの川で護岸工事が始まっていて、役人に頼まれて、炊き出しの世話なんかをしているそうなのよ。

 人手が欲しいと云っていたわ。

 あんた器用だから、きっと重宝されると思うの、その気があるなら話してみるけど。」


 市蔵を傷つけないよう、女は気遣っている。

 こうして気を回されると、余計に自身が情けなくなる。

 市蔵は指で女の口を探り当て、自分の口を重ねた。

 市蔵の指が茂みの奥へ割り込んだ。

 女は身をよじり、船底が軋むような声をあげた。


 しっとりとした柔肌の間に揺蕩たゆたいながら、市蔵は豊国に渡る船を想った。


 ──そうだ、何もかも投げ捨てて、共に行くことだってできたはず。


 けれど俺には、それができなかった。







🌸  九  後始末  ─ あとしまつ ─



 翌日から、再び後片付けを始めた。

 迷惑を掛けた人々に詫びをして周り、掻き集めた金をできる限り仲間に分配した。

 それから、自分の側に残った十名ほどの者を引き連れて、西の町に行き、女が紹介してくれた宿屋を頼った。


 宿屋は、聞いていた以上に大きな建物で、大層繁盛していた。

 しばらく宿屋に置いてもらい、人足の仕事でもするつもりでいたが、宿屋での仕事は山ほどあった。

 朝から晩まで休み無しに働かされたが、市蔵たちは文句を云わず、テキパキと雑用をこなし、若くて使い勝手が良いので、頼りにされるようになっていた。


 滞在している間に、地元の女と恋仲になって、所帯を持つものもあらわれた。

 市蔵自身、このままここで暮らすのも悪くないと思い始めていた。

 そうして、ほとぼりが冷めた頃、商団を解散した後の引き際の鮮やかさを認められ、迅水組の親分に「ウチに草鞋わらじを脱がないか」と誘われた。


 市蔵は酒を口にして、改めて諭利に向き合った。


「それで、お前は何の商売を始める気なんだ?










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