【参】 詫び
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一 詫び
二 同行
三 案内
四 茶人
五 詩
六 巣窟
七 匕首
八 対峙
九 旧友
🌸 一 詫び
夕陽が沈みかけている。
鍛錬を終えた身体に、冷たい風が心地よい。
暮れ時には草花の匂いを濃厚に感じる。
清々しい気持ちで、承は空を見あげた。
剣の上達ぶりを師範に褒められた。
じぶんでも手応えを感じはじめている。
今日は格上の相手から一本を取れたのだ。
勝負には敗れたが、打ちこ込んだ時の感覚はしっかりと刻まれている。
一本、取れたことが自信に繋がっている。
二年前の今頃は八歳の児童にも打ち負かされていた。
それを思えば、大した進歩だ。
朝に五百、夕に五百、木刀を振っている。
毎日これを欠かさない。
こうした日々の積み重ねが、少しずつ実を結んでいることを、承は実感している。
承は家路を急いだ。
南の空へ流れゆく、薄墨色の雲を追うように、足を速めた。
南門から街に入った頃には、商家は既に木戸を閉め、通りは暗く静まり返っていた。
それと引き換えに、橋の向こうからは賑やかなお囃子の音が聴こえる。
目と鼻の距離であるとはいえ、承が橋を渡ることはめったにない。
つり灯籠に煌々と照らされた町の様子を眺めていると、ひとつの影が目の端にかかった。
艶やかな長い黒髪、──承は思わず走り出していた。
全速力で、橋を渡る。
姿が消えて行った路地を、慌てて曲がり、そして立ち止まる。
道の先へ目を凝らして見るけれど、それらしい姿がない。
──見間違い、だったのか。
道を戻りかけたとたん、承は声をかけられた。
「息を切らして、誰かお探しですか?」
承は目を見開いて、口をポカンとあけた。
「あなた、を、……」
はた、と気付き、承は姿勢を糺す。
「路地を曲がって行く姿が見えたので、急いで追ってきたのです。
この間のことを、お詫びしたくて。」
「そのようなこと、気にはしていません。
どうかお気遣いなさらないでください。」
諭利の手には、酒が入っているらしい瓶と、その
「どちらかへ、行かれる途中なのですね。
足止めさせてしまい、失礼しました。」
「いえ、急いではいませんよ。
この地域の元締めに挨拶をしに行くのです。」
「……もしや、このあいだのことと関係があるのですか。」
このあいだ、──とは、やくざ者との一悶着だ。
あちらは、公衆の面前で恥をかかされている。
「私は、この土地で商売を始めたいと考えているので、揉め事は早めに解決しておきたいのです。
きちんと詫びを入れたうえで、商売の許可を得ようと考えています。」
「やくざ者に、頭をさげるのですか?」
「ここで暮らすうえでは仕方のないことです。
実際に、商売上の
役人は、些細な事などでは動いてくれません。
役人が立ち入らないところに、やくざ者の役割があるのです。
郷に入っては郷に従え、──といいますからね。」
🌸 二 同行
やくざ者を相手に、この人は なにか秘策があるのだろうか。
単純に、頭をさげれば済むといった話ではないだろう。
それなりの仕置きをされるはず。
その場にい居たのだし、そもそも原因は私にある。
諭利が行くというのなら、──
「私も同行します。
来るな、と言われても付いて行きますよ。
元を
私は、卑怯者にはなりたくありません。」
諭利は苦笑した。
この少年の生真面目さに呆れながら、嬉しくもある。
承は、いざとなれば身を
駿足であるけれど、諭利はその華奢な体つきから、腕が立つようには見えない。
だが、そういう承も、「腕に覚えあり」とは言い難い。
喧嘩慣れした やくざ者たちを相手に、己の力がどのくらい通用するのか、考えると心許ない。
しかし、毎日修練を積んでいるのは、こうして人を守るためではないか、──と、承は己に
「では、同行願います。
事を荒立てたくはないので、どうか穏便に願います。」
やくざ者と、一戦交える事を考えているらしい承に、諭利は釘を刺した。
「ええ、わかりました。」
承が厳しい顔で前を見据えていると、横合いから、貴族の子弟らしき三人組が千鳥足で近づいた。
真っ赤な顔をし、調子はずれな小唄を歌い、互いの体にもたれ合いながら歩き去った。
──まったく、だらしがない。
承は眉を
「そういえば、試験は終わったのですよね。結果はどうでしたか?」
「ええ、なんとか進級できそうです。
ですから、あなたと連絡を取ろうとしていたところです。
覚えていますよ、ね。」
承は心配そうに諭利を見る。
「覚えています。
連絡を、お待ちしておりました。」
「いかがでしたか、川下りは楽しめましたか?」
「ええ、愉しかったですよ。
川縁の桜が綺麗でした。
きっと、今が見頃でしょう。
咲き始めると散るのも早い、──まもなく葉桜となるでしょうから、花が咲いているうちで幸いでした。」
諭利は目をほそめ、「どうしても、あの桜の景色をこの目で見ておきたかったのです。」と、感慨深げに呟いた。
「……じつは、今年の桜を共に見ようと約束した相手がいたのです。
けれど不慮の事故で、雪解けを待たず、亡くなてしまいました。
その者は、承様と同年の少年でした。
以前にいた場所は、雪深い山里で、私はその者に、春を待ち帰郷するつもりでいる旨を伝えたのです。
その折に、船上から見る桜の情景を話しました。
すると、「行ってみたい」と目を輝かせておりました。
失礼ですが、亡き者の面影を同年のあなたに重ね、弔いの気持ちもあり、お誘いしたのです。
素性も知れぬ者からの急に誘われ、戸惑われたことでしょう。」
「いえ。
たしかに突然ではあったけれど、私は嬉しかったのですよ。
そんなご事情があったのですね。
ご一緒できなくて、本当に残念です。」
🌸 三 案内
「では、近いうちに行きましょう。
じつは、肝心の猪肉を食べていないのですよ。」
「店が、閉まっていたのですか?」
「いえ、船に乗り合わせたご婦人ふたりと、温泉へ行ったのです。
その方たちは、豊国から友達夫婦で観光にいらしていて、その日、旦那方は早々に夜釣りへ出かけたそうなのです。
残されたご夫人ふたりは、ならば、こちらも亭主の居ぬ間に羽を伸ばそうじゃないか、となったそうです。
ゆったりと温泉に浸かり、豪勢に懐石を愉しむのだと話していました。
隣に座っていた私に、温泉の場所を訊ねてきたので、夜でもあるし、女人だけでは物騒だから、『案内しましょうか』と言ったのです。
すると、あちらも快く『では、ご一緒に』と返してきたのですよ。」
この人は、わりと気楽に人を誘ったり誘われたりとするのだな、と承は思った。
女も二人連れとはいえ、偶然に居合わせた男に案内を頼むなど、軽はずみではなかろうか、とも思った。
しかし、承自身も、言葉を交わしたその場で誘いに応じようとしていた。
諭利は、こうした優しげな顔立ちのせいか、人に警戒心を抱かせないようだ。
「見たところ、おふた方とも
こうした出会いがあるから、旅は愉しいですね。
美しい景色を見たり、美味しいものを食べたり、それを共感できる相手がいてくれたら、さらによい。
そうだ、泊まりがけで、少し足をのばしてみるのもいいですね。
承様のお薦めの場所があれば仰ってください。
行きたい所は、ございませんか?」
「そうですね、」と、呟き、しばし承は思案する。
「もうすぐ、東の町で『豊漁祭』がありますよね。
祭りの期間中は講義も休みですから、ゆっくりと観光ができます。
海の鳥居の真ん中から、太陽が登るのを見れる絶好の場所を知っています。
ご案内しましょう。」
「いいですね。
宿の手配をしておきます。
祭りの間近は宿屋が埋まってしまいますから、今のうちなら、まだ良い宿が取れるでしょう。」
「お願いします。
ああ、愉しみです。」
険しい表情はすっかりと消え、承は子供のようにはしゃいでいた。
「そういえば、住む場所を探していたのですよね。
お決まりになりましたか?」
「いえ、いくつか回ったなかでは、これといっ物件はありませんでした。
長く住まうつもりなので、吟味しています。見つけ次第、お知らせしますよ。
決まったら、遊びにいらしてください。
承様とは、末永くお付き合いいただきたいと思っています。
お嫌でなければ、ですが。」
「光栄です。
こちらこそよろしくお願いします。
あの、先ほど、あなたは商売をはじめるつもりと言っていたけれど、今までに なにか
「はい。
とある商人と知り合う機会がありまして、私はその方のお手伝いをさせていただいていたのです。」
🌸 四 茶人
「その方は、茶の湯を
ご実家は運送業を営んでおり、今は家業を継いでおられるのですが、茶の商いのほうも続けておられるのです。
その方の
その方の名は、『
『吟仙』というあだ名は、清張さんが好んで
その方が、私を吟仙さんに紹介してくださったのです。
私は吟仙さんの屋敷の
そこで茶の作法など 、一通り教わり、茶会の手伝いをしておりましたので、お手前には少々自信がございます。
いつか、家へ遊びにいらしたとき、私の淹れた茶を味わってみてください。」
「いいですね。
必ず寄らせてもらいます。」
「それとね、」と、諭利はにんまりとして云った。
「住む場所は見つかっていないけれど、商いをする場所は決めてあるのです。
町内を見て歩いているとき、丁度よい物件が空いていたので、すでに手付けをしてあるのですよ。」
気の早いことでしょう、と諭利は苦笑し、話しを続けた。
「商いの許可を得るのは、なにかと
「わかります。
今春より、私もひとつ上に進むので、また気持ちを新たに学問と向き合おうとしているところです。」
「承様は、修英院(大学)に通われているそうですが、貴族の方々は皆、勧学院(大学)に入るものではないのですか。」
「ええ、そうですね。
私には二人の兄がいます。
長兄は勧学院ですが、次兄は修英院なのです。
どちらも尊敬できる兄たちですが、私は、次兄の話しを聞いて修英院に入ろうと決めたのです。
修英院は、様々な階層の者が集まっているし、講師の方々の個性も豊かなのです。
諸国の高名な学者を招いての講義や、交換留学の制度もあるのですよ。
遠方からの留学生との会話は、文化の違いもあり、とても興味深いのです。
国内でも、やはり生まれた場所も生活の仕方も異なるので、一つの物事を語るにしても、様々な角度からの意見が上がってきます。
皆、己の見識に自信があり、議論をしていると、側を通りかかった見知らぬ者までが割り込んで、ああだこうだと話が止まらなくなるのです。
自己主張が強い者が多いので、私などは圧倒されているのですが。……」
「なかなか、楽しそうですね。
私は、学問所とは、単純な話を何処まで難解に仕立て上げられるかに
「あなたは、面白いことを云われますね。」
そうくるか、と承は苦笑した。
🌸 五 詩
「その方は、茶の湯を
ご実家は運送業を営んでおり、今は家業を継いでおられるのですが、茶の商いのほうも続けておられるのです。
その方の
その方の名は、『
『吟仙』というあだ名は、清張さんが好んで
その方が、私を吟仙さんに紹介してくださったのです。
私は吟仙さんの屋敷の
そこで茶の作法など 、一通り教わり、茶会の手伝いをしておりましたので、お手前には少々自信がございます。
いつか、家へ遊びにいらしたとき、私の淹れた茶を味わってみてください。」
「いいですね。
必ず寄らせてもらいます。」
「それとね、」と、諭利はにんまりとして云った。
「住む場所は見つかっていないけれど、商いをする場所は決めてあるのです。
町内を見て歩いているとき、丁度よい物件が空いていたので、すでに手付けをしてあるのですよ。」
気の早いことでしょう、と諭利は苦笑し、話しを続けた。
「商いの許可を得るのは、なにかと
「わかります。
今春より、私もひとつ上に進むので、また気持ちを新たに学問と向き合おうとしているところです。」
「承様は、修英院(大学)に通われているそうですが、貴族の方々は皆、勧学院(大学)に入るものではないのですか。」
「ええ、そうですね。
私には二人の兄がいます。
長兄は勧学院ですが、次兄は修英院なのです。
どちらも尊敬できる兄たちですが、私は、次兄の話しを聞いて修英院に入ろうと決めたのです。
修英院は、様々な階層の者が集まっているし、講師の方々の個性も豊かなのです。
諸国の高名な学者を招いての講義や、交換留学の制度もあるのですよ。
遠方からの留学生との会話は、文化の違いもあり、とても興味深いのです。
国内でも、やはり生まれた場所も生活の仕方も異なるので、一つの物事を語るにしても、様々な角度からの意見が上がってきます。
皆、己の見識に自信があり、議論をしていると、側を通りかかった見知らぬ者までが割り込んで、ああだこうだと話が止まらなくなるのです。
自己主張が強い者が多いので、私などは圧倒されているのですが。……」
「なかなか、楽しそうですね。
私は、学問所とは、単純な話を何処まで難解に仕立て上げられるかに
「あなたは、面白いことを云われますね。」
そうくるか、と承は苦笑した。
🌸 六 巣窟
声をかけられ、男は怪訝に諭利を見た。
こいつは何処かで見覚えが、──と頭を巡らせながら、連れの少年に目を移した。
──こいつらは、「人相書」の芸人と小僧だ!
そう思い当たり、男は反射的に諭利の胸座を掴みあげた。
「私を知っているようですね。
ならば話しが早い、先日の無礼をお詫びに来たのです。
あの時は、あなたのお仲間の追ってくる姿があまりにも恐ろしく、思わず逃げてしまいました。
後になり、釈明もせずに消えたのは非礼だったと反省したのです。」
「この野郎、フザケたことを
「いえ、そのようなつもりはありません。」
諭利は、男の
承の位置からは、諭利が男に袖の下をつかませているように見えていた。
見ていて気持ちの良い行為ではないが、自分が割って入ると話しが
商売を始めるのだ、と愉しげに語っていた諭利を想い、口出しを控えた。
「
顔を寄せ、諭利は男に耳打ちした。
諭利の手は男の肘の辺りを握っている。
返答がないので、肘に
男は顔を歪ませた。
瞬時に、声も出せないほどの激痛が走り、首を縦に動かした。
諭利が手を弛めると、男はサッと腕を引き、距離を取った。
憎々しげに諭利を一睨みすると、男は路地の奥へと消えた。
「行きましょう。
あの者が、話を通してくれるそうです。」
諭利は男が消えた方向へ歩き出した。
とても友好的な雰囲気には見えなかったけれど、と思いながらも、承は後に続いた。
路地を進んでいくと広場があり、七、八人の男が
男たちの視線が二人に集まる。
話しを続けながらも、目は二人の姿を追って動く。
諭利は、視線のなかを平然と歩む。
別の男たちが、奥から歩いて来た。
先頭の男の視線は二人をすり抜け、後ろに注がれていた。
男の顔に、嫌な笑いが浮かんでいるのを承は見逃さなかった。
──まずい!
承は後ろを振り返った。
男たちは横並びになって道を塞いでいた。
「諭利さん、──」
承は壁際に諭利を押しやり、背で守るようにして、自分は前に出た。
右と左から、やくざ者たちにじりじりと詰め寄られている。
男たちは「袋の鼠」を前にほくそ笑んでいる。
承は木刀を手に取り、構えた。
承の背の後ろで、諭利は酒と肴を壁際に置き、上着を脱いだ。
右側の男が目配せをした。
張り詰めていた空気が揺れ、男が二人、左右同時に襲いかかってきた。
バンッ。
承の頭上で空気が弾け、音と共に、風を孕んだ帆のように黒い布が広がった。
とっさに、男たちは腕で頭を守って後ずさった。
そして、音の正体を見定めようとした瞬間、腹に衝撃を受け、体は後ろへ飛ばされた。
🌸 七 匕首
吹っ飛んだ男の巻き添えをくって、遠巻きに観ていた男たちが倒れた。
承は木刀を構えたままの姿勢で立ち尽くしていた。
足を踏み出そうとした瞬間に、黒い風が傍らをすり抜け、襲いかかってきた男二人を殆んど同時に吹き飛ばしていた。
風を孕んだ上着が、承の目前に降りてきた。上着が地に着く前に、諭利は端を掴んでグルリと回し、左へ投げた。
それからは、まるで芝居の
諭利の動きは燕のように華麗で迅速だった。
ひらりと身を躱しているだけなのに、向かっていく男たちは ばたばたと勝手に倒れてゆく。
二十人ちかくの者が、タカが芸人一人に打ち倒され、路上に転がった。
「舐めたマネしやがって!」
男は、落ちてきた上着を拾って丸め、足元に叩きつけた。
その男の頬には刃物傷があった。
この間の借りを返すつもりが、これでは恥の上塗りだ。
「殺してやる。」
頬傷の男は懐の
怒りに駆られた男は、力任せな大振りを浴びせてきた。
諭利は体を回しながら足を蹴り上げ、
男の手から落ちかける短刀を掴み、男の背後に回って、喉元に刃先を突きつけた。
サッと男の顔から血の気が引いた。
諭利は男の耳元に口を寄せ、何事かを囁いていた。
その場に短刀を捨て、諭利は男から離れた。
「ビビってんじゃねぇよ、馬鹿。」
後ろで様子を窺っていた男は、すっかり腰の引けた男の頭を ばしんと叩いて、前に出た。
「
男たちは両脇に捌けた。
その男は居るだけで人を威圧した。
六尺近い背丈に、がっしりとした堅太りの体、角張った強面には
男は足下に転がっている短刀を、諭利の方へ蹴った。
顎をしゃくり、拾いな、と合図を送ってきた。
諭利を、相手に不足なしと見て、肩慣らしをしようと思ったようだ。
諭利は身を屈め、短刀に手を伸ばした。
上目遣いに男の表情を窺っている。
──これを手にしたら。……
短刀の柄に指が触れた瞬間から、勝負が始まる。
諭利は男の顔から目を離さず、柄に手を添えて体を後ろへ引いた。
男の足は地を蹴って、諭利の目前に短刀を滑らせてきた。
諭利は下がりながら、踏ん張って右へ飛んだ。
小刀が諭利の鼻先を掠める。
右に左に、首を傾けながら、諭利は紙一重に切っ先を躱わす。
「どうした、逃げてばっかりかよ。」
隙を作り、男は諭利を誘ってきた。
びゅん、と男の耳元で空気を裂く音が鳴る。
諭利は前へ出て、腕を左下から振り上げた。
男の左頬に、うっすらと茅で切れたような赤い筋が入った。
躱したつもりが、思っていたよりも腕の長さがあり、男は目測を誤った。
男は口の端を吊りあげた。
諭利の瞳に危険な色がさすのを見逃さなかった。
🌸 八 対峙
諭利は攻勢に転じ、男を後ろに、元の位置まで下がらせた。
男は足元に転がっている小石を蹴った。
小石は諭利を目掛けて飛ぶ。
諭利は刃の腹で小石を打ち落とす。
男は、間髪いれず攻勢をかけ、胸の前から外側へ、水平に刃を閃かせた。
諭利は身をかがめて上へ飛び上がる。
男の頭上で、臍を見るように頭を腹の方に丸め、腰を軸にぐるりと一回転した。
着物の端がひゅんと引かれ、曲芸の独楽のように体は宙を舞った。
遠巻きに、腕組みをし傍観していた少年が、ヒュウと口笛を鳴らした。
やい、お前はどちらの味方だ、──と、加勢もせずに見ていた少年へ、男たちの冷たい視線がそそがれる。
少年は、おどけ顔で肩をすくめた。
男と諭利は睨み合ったまま対峙していた。
が、やがて柳が風に揺れるように、スウッと両者の体は動きかけた。
「──そこいらへんで、やめとけよ。」
奥から男が現れた。
観覧していた男たちはバツが悪そうに立ちあがって避けた。
「市蔵、水をさすんじゃねえよ。
ここからがいいとこだ。」
「そうはいかない。
そいつは俺の客人なのさ。
すまねえな、俺の顔に免じて、ここは引いてくれねえか。」
云ってから、市蔵は承へ目線を移した。
「こちらのお方は
粗相があってはならねえお方だ。
大事があれば、お前らの首なんぞ軽うく飛んじまうんだぜ。
命が惜しけりゃ、手を出しちゃなんねえお方の顔くらい、覚えとくもんだ。
わざわざ親分のいないときに揉め事を起こさないでくれ。」
「市蔵、そいつは先日、俺たちをコケにして逃げやがった芸人なのさ。
お前の客人だろうが、ケリはきっちりつけさせてもらうぜ。」
「そうかい。
じゃ、どういう
どちらにも言い分ってもんがあるさ。
続きはその後でいいだろ。」
「──最初に手出しをしたのはあなた方です。」
承が口火を切った。
「そちらの者が、諭利さんに不当な要求をしてきたのです。
諭利さんが演技をしていた場所は縁環(公園)の一角でした。
縁環は国が管理をしている場所で、芸人たちの活動は容認されています。
どちらの意見に正当性があるか、明白です。
先に手を上げてきたのはそちらですし、逃げるのを追ってきたのもそちらです。
これでもあなた方のやり方でケリを付けると云うのなら、こちらにも考えがあります。
人を脅して不当に金銭をせしめようとしたのだから、役人を呼んであなた方を番所に連行します。
今の話しを、私は番所で証言しますよ。」
市蔵は、承に指摘された男の顔を見据えた。
──縁環には手をださないよう云ってあるはず。
てめえは、芸人を脅して金を巻き上げていたのだな。
頬傷の男は、気まずそうに市蔵から目を逸らせた。
痘痕面の男は、その様子を見て舌打ちした。
それに、世間知らずの小僧が、役人だのなんだのと、ご
🌸 九 旧友
「承様、」と、諭利は小声で云った。
「先日の事は、過ぎたことでございますし、ここで騒ぎを起こすつもりはありません。
誤解もとけたようですから、この場ですべて納めましょう。」
これ幸い、と、市蔵が諭利の言に便乗する。
「そうしていただけると、助かります。
この者たちには、今後こうした過ちがないよう、きつく言い聞かせますから、今日のところは勘弁してください。」
市蔵は、そら謝れ、と頬傷の男に目配せをした。
男は しぶしぶ頭をさげた。
「すみません。」
「──市蔵。」
痘痕面の男が、不満げに口を挟んだ。
「調子に乗るなよ。
ここは退いてやるが、そうやっておまえが顔を利かせていられるのは、親分がお帰りになるまでの間だ。」
「俺だって、望んでやっている役目じゃない。
この組の中じゃ、俺が一番温厚だ。
親分はな、自分がいない間、無難に組を仕切っていられるのは俺しかいないと踏んだのさ。
親分がお決めになったことだ、従ってくれ。」
「ハン、狐が。
巧いこと立ち回って、あちこちにイイ顔をしているのを知っているぞ。」
くだらない寸劇に付き合わされた、これ以上この場に居る必要はない、──痘痕面の男は市蔵を一睨し、背を向けた。
よほど腹に据えかねる思いがあるらしく、去り際に、おまえは市蔵の仲間だったのか、と射るような視線を諭利へ向けた。
市蔵は諭利に、ついて来い、と顎をしゃくった。
諭利は、投げ捨てられていた上着を拾い、壁際に置かれた酒と肴を手に取った。
「行きましょう、承様。」
承も自分の荷を担いだ。
二人は、市蔵の後について進んだ。
その路地は、建物の裏口へと通じていた。
敷居を入ると、
市蔵は土間に置かれた革張りの椅子を、承に示した。
「どうぞお掛けください。
先ほどは、若い者の躾が行き届かず、失礼をいたしました。
すべて俺の不始末です、改めてお詫びいたします。」
「──市蔵さん。
詫びるのは私にではなく、諭利さんにです。被害を受けたのは、諭利さんなのですから。」
市蔵は諭利を見た。
「日吉よ、『諭利』というのはおまえのことか?」
「
諭利は、神妙な顔で頷いてみせた。
「それはそれは、失礼いたしましたな。
組の者があなた様にとんだご迷惑をおかけしたようで。
しかし、あなた様とは知らぬ仲ではないのですから、この市蔵の顔に免じ、非礼を水に流してくださいませんか。」
「そのように、ご丁寧に謝っていただいたら、
あなたの顔を立て、今回のことはスッパリと水に流して差しあげましょう。」
二人は顔を見合わせ、苦笑した。
「やれやれ、とんだ茶番だ。」
云って、市蔵は両手を広げた。
諭利は頬笑み、まっすぐに市蔵の方へ進んだ。
❀
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