【弍】 縁環
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一 縁環
二 疾走
三 風
四 賽銭
五 団子
六 申し出
七 硝子玉
八 歌声
九 理解者
🌸 一 縁環
良かったよ、また観に来るよ、と、しきりに声をかけながら、見物人たちは男の周りを囲んでいた。
承も、男にひと言伝えたくて、人が
夢見心地に見物人が去てゆくと、男は身を屈め、椀の銭を巾着へ移し始めた。
椀から
すると、不意に男の目前に武骨な手が差し出された。
その
遠くに転がって行ったのを拾ってくれたのだと思い、ご親切に、と男は礼を云って受け取ろうとした。
ところが、──
男は顔をあげた。
賢しげに目を光らせて見返すのは、頬に刃物傷のある、みるからにやくざ者といった風体の男だった。
「この国へは、十日まえに渡って来たばかりなのでございます。
こちらの事情には
男は銭を入れた巾着を、そのまま頬傷の男に手渡した。
頬傷の男は巾着を受け取ると、耳の横でぶらさげ、揺すった。
音を確かめ、首をかしげた。
「てめえは、いつからここで
こんなはした金で誤魔化す気か、今まで稼いだ分もよこせ、と云っている。
この男はよそ者だとみて、カモにしようと算段したようだ。
男は分別があり、従順そうに見えた。
「安易に金銭を手渡してはいけません。」
黙ってはおれず、承は間に割り込んだ。
「ここは国が管理をしている場所です。
ここで場所代を請求する権利など、誰にもありません。」
小高い丘の上部を平らに削って整地してあり、給水用の人工池と穀物を常備する蔵を設置している。
地盤は硬く、過去の事例から、大津波が起きようともこの高さまで
こうした「縁環」が都の各所にあり、他にも、地域ごとで火事や台風などの天災に備えた対策がなされている。
この国は、古来より有数の温泉地として知られている。
国外からも湯治を目的とした訪問者が絶えない。
このことから、近年、国はこうした旅人の獲得に力をいれた。
その一環として、大規模な街道の整備がおこなわれた。
それにより地方の名所旧跡へも旅人は足を運ぶようになった。
その他、催し物の助勢や、芸人の育成などにも援助がされている。
低い身分である「芸人」も、それなりの優遇を受けられるので、都には国の内外から芸人が集まってくる。
「縁環」は、他国から流れて来た芸人や地方出身の若い芸人が、目の肥えた都の人々を相手に腕試しをする場ともなっているのだ。
「いいのですよ。」
承を
どうぞ穏便に、──あきらめの微笑を、承に向けていた。
されど承は、承服しかねた。
🌸 二 疾走
この男の演技に、あの美しい歌声に支払われた対価が、こんな
承は、巾着を握っている頬傷の男の左手首をつかんだ。
「渡すことなどないのです。」
「おいコラ、なんで てめえが邪魔をするんだ。
こいつが、どうぞ受け取ってください、と云ってるものを、横からくちばしを突っ込んでくるんじゃねえ。
──ガキは引っ込んでな。」
頬傷の男は荒々しく腕を引いた。
承も負けじと引き返した。
双方、睨み合った。
頬傷の男は右の拳を握りしめ、肩を
承の顔の間近に、睨みを利かせた
「すぐに暴力に訴えるなど、卑劣です。
誰もがそれに屈すると思ったら、大間違いです。」
ハン、と頬傷の男は鼻を鳴らした。
小馬鹿にしたふうに承を一瞥する。
「ッたく、うるせえ小僧だ。」
呟いて、頬傷の男は腕の力を抜いた。
承が巾着を受け取ると、頬傷の男はそっぽを向いた。
案外、あきらめがいいのだな、そう、承が思ったのも束の間、頬傷の男はこちらへ向きなおり、いきなり拳を振りあげてきた。
「引っ込んでいろと、──云っただろうがッ!」
承は目を見開いた。
なんの構えもなしだった。
しかし、頬傷の男の拳は、承の服を
その拳は空を切り、体は前につんのめる。
小僧に不意打ちを喰らわせたつもりが、見事にかわされていた。
承は後ろを見た。
男は悪戯っぽく、片目をしばたかせた。
頬傷の男が振り向くと同時に、男は、承の帯を掴んで後ろへ引いた。
そしてさらに、体勢を崩した頬傷の男の肩を、指先でちょんと突き、駄目押しをした。
「走って!」
云うなり、ぽかんと突っ立っている承の手首を握り、男は駆けだした。
頬傷の男は、派手にすっ転んで頭に血を昇らせていた。
顔を地面にぶつけ、鼻の頭を擦り剥いていた。
「コケにしやがって、……」
顔に張り付いた砂を払い落とし、憎々しげに唾を吐き捨てると、頬傷の男は二人を追った。
承は、男に手を引かれるまま、街をひた走った。
男の足は、この先の大通りに向かっているらしい。
大通りは、西の街から物資を運んでくる大小の荷車と、旅姿に荷を背負った行商人とで混雑している。
道の先には運河があり、川沿いに荷を収める漆喰の蔵が並んでいる。
「退け! 退け!」
ダミ声を張りあげ、道を塞ぐ者を容赦なく跳ね飛ばしながら、頬傷の男が追ってくる。
男は承を誘導しながら、人と荷車の間を巧みにすり抜け、追っ手をどんどん引き離した。
「こん畜生め、──待ちやがれ!」
男は後ろを窺いながら、速度を上げて荷車の前に走り込んだ。
そして、次はこちらに向かってくる荷車の後ろに移り、横につけ、通り過ぎる頬傷の男の姿を確認すると、
🌸 三 風
ふたりが消えているのに気づいた頬傷の男は、立ち止まり、鶏のように くりくりと頭を動かした。
──必ずとっ捕まえて、痛い目に合わせてやる!
男は息巻いている。
奴らはどこかで道を変えたはず、──そう考え、来た道を戻りながら路地に目を凝らした。
すると、走り去るふたつの影が目に留まった。
ふたりが逃げて行く先には、ちょうど良い具合に組の者がいた。
「おい、そいつらを捕まえてくれ!」
呼ばれた男は、歯に詰まったモノを
二人組は前から駆けて来て、男の側を走り過ぎた。
そのふたりは、美しい女のようにも見える若い男と、貴族の子弟らしき十代半ばの少年だ。
その後方を、鼻息を荒くした仲間が追ってくる。
男は反射的に楊枝を吹き捨て、二人組を追いかけた。
逃げているうち、騒ぎを聞きつけた やくざ者が一人二人と加わった。
気づけば、ふたりは十人ほどの やくざ者に追い回されていた。
「これをお売りください、代金はここへ置きます。──」
男は、駄菓子屋の店先にあった箱を抱え、代わりに巾着を置いた。箱の中身は硝子玉だ。
男はそれを ざあっと後ろに撒いた。
走って来た やくざ者は、無数の玉に足を取られ、転げた。
柔らかな春の陽射しを受け、光を放ちながらガラス玉が道の四方に転がっていく。
その玉と、同じように目を輝かせた
道にしゃがみ込んだ童を避けて、人の流れが
人垣に行く手を塞がれ、やくざ者たちは地団駄を踏んだ。
民衆の前で派手に転がされ、怒り心頭に、道行く者にも罵声を投げかけていた。
「いま少し、走りますよ。」
再び男に手を引かれ、承は走りだした。
──それにしても、速い。
足が地を蹴るたびに、前へ前へと吸い込まれていくようだ。
身体は風穴のなかにあり、風そのものになって吹き抜けているように感じられた。
……やがて、承の息はあがり、もう走れないと
「急に止まってはいけません。
このままゆっくりと、あちらの神社の木陰まで歩きましょう。」
男は承を気遣うように手を背に添えた。
承は息を切らし、返事もできないほどなのに、隣を歩く男の呼吸は、少しも乱れていなかった。
「ごめんなさい。
手が痛くはないですか、とっさに引いてしまったから。」
「いえ、こちらこそ、すみませんでした。
私がいらぬ口を挟んだばかりに、こんな騒動になってしまって。
結局、銭も失わせてしまいました。」
余計なことをしてくれたと、お思いでしょうね、──承はすまなそうに男を見あげた。
「いいのです。
私は芸人ではないので、人様から金銭をいただくのは心苦しいほどなのですよ。
だから、いつもこの神社の賽銭箱に、いただいたお金を入れてゆくのです。」
🌸 四 賽銭
この社は、芸能の神〈アメノウズメ〉を
──確か、十日ほど前にこの国に渡って来たと話していたはず、……
「よく、ご存知なのですね」
承が云うと、男は静かに笑みを返してきた。なんだか、すはぐらかされた気がした。
「以前、私は旅芸人の一座について、各地を回っていたことがあるのです。
路銀が尽き、さて どうしたものかと思案していたところ、その一座の
そこで私は、寝食を与えてもらうかわりに興行の手伝いをいたしました。
生来、私は芸事が好きでしたので、芸人に接し、舞台を間近に感じられた日々は幸福でした。」
「では、やはり舞台に立たれていたのですね。」
「いえ。
私のような素人が、おいそれと舞台に立つことなど出来ません。
役者の演技を間近に見ていたので、台詞まわしなど、今でも覚えているのです。
『縁環』で、若い芸人たちが腕を磨いているのを見たら、当時のことが懐かしく思い出されて、『ひとつ、腕試しをしようじゃないか』と思い立ったのです。
お金をいただくつもりではなかったけれど、形ばかりに椀も置いてみました。
始めたとき、足を止めてくれたのは数人でしたが、帰り際に『面白かった』と云われ、椀に銭を投げてくださる方がいると、い嬉しくて。
明日もやろう、という気持ちになるのです。
そうして、素人が調子づいてしまったのです。」
男は言葉を切り、微笑みを浮かべて承の顔を見ている。
あんまり「じいっ」と見つめりるものだから、砂でも付いているのかと、承はそろりと顔を撫でてみた。
その様子に、男は口元を
「銭を失っても、私には得るものがありましたよ。
あなたのように、心根の真っ直ぐな方に逢えたのですから。
他人が
赤の他人のために、動いてくれる方は稀です。
私は今、とても清々しい気持ちでいるのです。
私の名は、
「
あなたの歌声に誘われ、足を運んでおりました。
先ほどの行動を、そんな風に評価していただいて嬉しいのですが、あのように逃げてしまったのでは、同じ場所で演技をするのは難しいですよね。
あなたの演技を楽しみにしていた人たちにも、済まないことをしました。
なにより、私自身が残念でなりません。」
「有り難いことです。
あなたが熱心に見てくださっていたのを知っています。
演技の内容はその日の顔ぶれを見て、少しずつ変えていたのです。
何度か足を運んでくれた方の顔は、やはり嬉しくて、覚えているのですよ。」
承は、自分が人目を惹く容姿ではないと、知っている。
まさか自分を覚えていてくれたとは思いもよらない。
率直に、──嬉しい。
はにかむように、承は笑った。
🌸 五 団子
承は、同年代の少年に比べて若干背が低く、少々小太りな体型をしている。
キリリと太い眉、二重で大きな双眼、鼻筋の通った立派な鼻とふっくらとした唇が、丸い輪郭のなかに収まり、その表情には、心の清さと意志の強さが現れていた。
諭利は、短髪の黒々とした太い毛が密集する頭に、つむじが二つあるのを見つけた。
色白の少年の頬が、林檎のように色づいているさまを、諭利は笑みを浮かべて眺めた。
追跡を
この、好ましい丸顔の少年の額には、汗が光っている。
「どうぞ、お使いください。」
諭利は、
持っていますから、と断ろうとしたら、その布からフワリと良い香りが漂った。
何の香りだろうか、と、渡されるまま受け取り、汗を拭いながら香りの記憶を辿った。
熟した桃の香に似ていた。
「団子はお好きですか?」
諭利に問われ、「ええ、好きです。」と、承は答えた。
「残しておきました。」
帯の間から銭を出して見せながら、諭利は子供のように得意気に笑った。
待っていて、と云うと、正面の団子屋に向かった。
「団子をふたつ。」
諭利は銭を支払い、二串の団子を受け取ると、にこにこしながらこちらへ戻って来た。
一串を承に渡すと、諭利はさっそく上の一つを頬張った。
親指の先ほどの団子が四つ並び、黒蜜の甘だれがかかっている。
美味しいですよ、と促すような表情の諭利を見て、承も上一つを口にした。
「懐かしい、味がします。
団子屋の婆さんは、もう亡くなったのだと訊いたけれど、味は受け継がれていますね。」
承は諭利を見上げた。
承は、この社に繋がる抜け道を知らなかった。
思えば、土地の者しか知らないような道を、幾つか通ってきた。
ただ闇雲に逃げていたわけではないのだ。
「私は、十年ほど前、この町に住んでいたのです。
当時は、若さばかりを持て余し、苦い記憶も多々ありますが、私の大切な人たちが住んでいる特別な場所です。」
団子を味わいながら、諭利は目を細めた。
遠い少年の日々に想いを馳せているようだった。
「貧しくて、団子などめったに食べれませんでしたよ。
一串を、数人で分けていたのです。」
──あなたのような御身分の方には、お解りにならないでしょうけれど。……
「──そういえば、芝居が終わったあとは、いつも急いでお帰りのご様子でしたね。
もしや、今日も何かご用がお有りでだったのではないのですか?」
「ええ、まあそうですが、今からでは間に合いませんし、……」
数日、朱国から来ている学者の講演を聴きに行っていた。
演題は、「兵武論」という。
人の間で争いが起こる理由を述べ、争いが起きることを前提として、対策を考えていくものだった。
🌸 六 申し出
長兄の「
その活動の一環として、高名な学者を招いているのだ。
今日の主題は、「国と国との関係を均衡に保つ為には、どの程度の軍備を必要とするか」である。
勿論、承は聴講するつもりだった。
けれど、それも今し方、諭利に訊ねられるまで、頭からすっかり抜け落ちていた。
「実は、」と、承は思い切って打ち明けた。
「あなたと言葉を交わしてみたいと思っていたのです。
四日まえのことです。
いつものように広場を通り過ぎようとしたところ、美しい歌声が流れてきたのです。
私は立ち止まり、声に誘われるままに広場へ入って行きました。
そこには、聴衆に囲まれて歌う、あなたの姿がありました。
すでに語りは終わり、歌を聴いたのも途中からだったのですが、その日は眠るまで、清らかな歌声が耳から離れませんでした。
歌声が忘れられず、私は次の日も、その次の日もと、今日まで通い詰めていたのです。
時の経つのも忘れ、引き込まれていました。かつて、これほどに心を動かされたことはない、──この想いを、どうしてもに伝えたかったのです。」
目を輝かせ、承が熱心に訴えるものだから、少々気恥ずかしい、といった様子で諭利は云った。
「ありがとうございます。」
その歌声もさることながら、──と、承は考える。
語っている立ち姿は、凛として涼やかだった。
締まった痩身の体に藍色の衣装が映え、遠目にも、その静かな美しさは際立っていた。
しかし、こうして間近に在っても、その姿は精緻な人形として映る。
白く、きめ細やかな肌の質感は陶器を思わせる。
腰まで流れる艶やかな黒髪は、きっと絹の手触りだろう。
──見とれてしまう、美しいひと。
気安く声などかけて、軽くあしらわれてしまうのではないかと案じたが、この人は気取りがなく、親しみを感じる。
「──私は長らく、各地を渡り歩いていたのですが、そろそろ一ヶ所に腰を据えたいと思い、この国に戻って来たのです。
今は、宿屋に
まあ、ほとんど観光気分で、名所巡りや食べ歩きを楽しみながら、ゆっくりと町の様子を見て回っています。
住んでいた当時は、観光なんてしようと思わないし、そんな贅沢はできもしなかった。
数日歩いてみて、改めて『こうした所だったか』と気づくこともありました。
今日は、一度宿に帰り、日が暮れてから屋形船で川を下ってみようと考えているのです。
美味しい猪肉を食べさせてくれる店があるそうです。
よろしければ、ご一緒にどうですか?
ご馳走しますよ。
夜は、何かご予定がお有りでしょうか。」
「ごめんなさい。」
承は顔を曇らせた。
「残念ですが、行けません。
実は、明日から十日ほど試験が続くのです。帰ってから、試験に備えなくてはなりません。」
🌸 七 硝子玉
「どちらに在学されているのですか?」
「
「優秀で、いらっしゃるのですね。」
いえ、と、承は
「修英院といっても、私はさほど優秀ではないのです。
落第しないようにと、必死です。
何事にも、私は懸命に取り組んでいるのですが、結果はいまいち振るわない。
一事が万事そんな調子で、周囲からは『泥臭い』と
必死な姿は、
だけど、私はそこに在るために、必死にならざるを得ないのです。」
「いえ、滑稽だなんて、思いません。
善いことですよ。
あなたはご自身を冷静に見て、謙虚でいらっしゃる。
物事に必死に取り組むことができるあなたは、ご立派です。
始めから諦めて、
ですから、あなたはご自身で考えているより、ずっと優秀な方です。」
初めて言葉を交わした相手に、愚痴めいたことを云って、なんだか誉められてしまっている。
「大切な試験のお邪魔をしてはいけませんね。
今回はご遠慮いたします。
また、お誘いしてもいいですか。
私は、そこの坂をくだった先の『ひたき』という宿屋にいます。
いつでもご連絡ください。」
「ええ、是非とも。」
「またお会いましょう、承様。」
頬笑んで会釈をすると、諭利は背を向けてゆったりと歩き出した。
そよ風に、衣の裾が少し持ち上がり、紅梅の花びらが足下を軽やかに転がってゆく。
去っていく姿にも風情がある、──承は感心して見送った。
承は、諭利と別れてから一度屋敷に戻り、支度を整えて修練所に向かった。
身体を鍛えることを、日課としている。
試験の前だが、汗を流したほうが気分がすっきりとし、頭の回転も良くなる気がするのだ。
今日は、少し汗ばむ程度の運動で切り上げて、駆け足で屋敷に戻ってきた。
承は、自室に入ると上向きに転がって、手足を伸ばした。
じんわり、ほどよい疲れが身体に行き渡っている。
目を閉じ、承は昼間の出来事を思い返した。
──まるで、夢のようだった。
『またお会いしましょう。』
そう云い、あの人は去った。
あの人、──名を知るまで、承は心のなかで諭利をこう呼んでいた。
美しい歌声のあの人と、言葉を交わしたいと願っていた。
それが、思わぬ拍子に叶い、名を知ることができた。
──ゆり。
白い大輪の花を連想させる、「あの人」に相応しい、麗しい名だ。
目を開き、承は半身を起こして、机の引き出しを開けた。
そこにはガラス玉が入っている。
修練所に行く前、道着に着替えた。
その時、懐に入れていた手巾からガラス玉が一つ出てきた。
青く澄んだガラス玉は、よく見ると、イヌノフグリに似た小さな造花を閉じ込めていた。
承の脳裏を、無数のガラス玉が放射状に転がっていった。
🌸 八 歌声
キラキラと、輝きを放ちながら街道に広がってゆくガラス玉。
その一つを承の懐中に忍ばせ、諭利は知らん顔をしていた。
記憶を手繰ってみるけれど、思い当たる節がない。
──面白い。
承は口元を綻ばせた。
あの人は、意外といたずら好きなのだ。
やくざ者たちに追われながら、逃げているその横顔はどこか愉しげだった。
──川下りに猪肉、か。……
行く、と返事をしたならば、今頃は、諭利と牡丹鍋に舌鼓を打っている頃だ。
食欲をそそる湯気の向こうには、ホクホクと肉を頬張り、笑みを浮かべる諭利がいた。
それから承は、諭利が眺めたであろう情景に想いを馳せる。
水面を渡っていく風を、川を下る船の揺れを、記憶から拾いあげてゆく。
──船の上は、涼しいというより、肌寒いと感じるほどだろう。
川縁の桜は五分咲きくらい。
夜は灯籠に火が入り、桜木を幽然と浮かびあがらせる。
白い花びらがはらはらと舞うなか、紫紺の水面に映り込んだ数千本の桜のうえを、屋形船はゆったりと進む。
夢見心地に目を細めた承の耳に、船頭の歌う舟唄が流れる。
それはいつしか、涼やかな諭利の歌声に変わっていた。
──川下りに、出かけたかった。
共に桜を、──と、今更ながらに惜やまれる。
試験さえなければ、一も二もなく誘いに応じていた。
だが、──承は、目の前の物事に最善を尽くしたいと考える。
諭利と出掛けたことを、成績の良し悪しの言い訳にはしたくない。
『いつでもご連絡ください。』
諭利は云い、滞在する宿を教えてくれた。
また、会える。
すでに知り合っているのだから、焦る必要はない。
『物事に、必死で取り組むことができるあなたを、無様だとは思わない。』
それは、今の承が一番聞きたい言葉だった。
この人は、愚直な者を
この人になら、自分の心の内を語れそうな気がする。
自分を理解してくれる者を、承は欲していたのだ。
🌸 九 理解者
一昨年、承は受験に失敗した。
試験の前日に、承は高熱をだした。
そして熱がさがらないままに、翌日の試験に臨んでいた。
試験は十日続くのだが、初日、二日と
三日目には熱はひいていたが、気持ちの切り替えができず、本来の力を出し切れないうちに、試験を終えた。
受験に失敗したことで、承は学友たちと距離を置いた。
微妙な気遣いをされるのが、つらかったのだ。
しかし昨年、承が修英院に合格した際に、疎遠になっていた学友たちが祝いの宴席を設けてくれた。
それを機に、旧交をあたためることになった。
だが、疎外感は拭えなかった。
過ぎたことを悔いても仕方がない。
けれど、一年の間に生じた差は埋めがたく、学友たちに遅れを取っていることに、しばしば承は焦りを感じてしまうのだ。
先刻の諭利の言葉に、承は励まされた。
大丈夫、と背を支えられた気がした。
歩みを止めず、一歩でも前に進もうと、承は気持ちを新たにするのだった。
❀
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