【弍】 縁環



  一  縁環  ─ えんかん ─

  二  疾走  ─ しっそう ─

  三  風  ─ かぜ ─

  四  賽銭  ─ さいせん ─

  五  団子  ─ だんご ─

  六  申し出  ─ もうしで ─

  七  硝子玉  ─ がらすだま ─

  八  歌声  ─ うたごえ ─

  九  理解者  ─ りかいしゃ ─









🌸  一  縁環  ─ えんかん ─



 良かったよ、また観に来るよ、と、しきりに声をかけながら、見物人たちは男の周りを囲んでいた。

 承も、男にひと言伝えたくて、人がけるまで待っていた。


 夢見心地に見物人が去てゆくと、男は身を屈め、椀の銭を巾着へ移し始めた。

 椀からこぼれた銭を一枚、一枚、丁寧に拾う。


 すると、不意に男の目前に武骨な手が差し出された。

 そのてのひらには銭が一枚のせられていた。

 遠くに転がって行ったを拾ってくれたのだと思い、ご親切に、と男は礼を云って受け取ろうとした。

 ところが、──つまみかけた瞬間に、掌はギュッと閉じて引っこんだ。

 男は顔をあげた。

 賢しげに目を光らせて見返すのは、頬に刃物傷のある、みるからにやくざ者といった風体の男だった。


「この国へは、十日まえに渡って来たばかりなのでございます。

 こちらの事情にはうといので、改めてご挨拶に参ります。」


 男は銭を入れた巾着を、そのまま頬傷の男に手渡した。

 頬傷の男は巾着を受け取ると、耳の横でぶらさげ、揺すった。

 音を確かめ、首をかしげた。


「てめえは、いつからここでってんだ?」


 こんなはした金で誤魔化す気か、今まで稼いだ分もよこせ、と云っている。

 この男はよそ者だとみて、カモにしようと算段したようだ。

 男は分別があり、従順そうに見えた。


「安易に金銭を手渡してはいけません。」


 黙ってはおれず、承は間に割り込んだ。


「ここは国が管理をしている場所です。

 ここで場所代を請求する権利など、誰にもありません。」


 縁環えんかん、──と呼ばれるこの地は、災害が起きた時のために、国が土地を買い上げ、避難所として整備した場所だ。

 小高い丘の上部を平らに削って整地してあり、給水用の人工池と穀物を常備する蔵を設置している。

 地盤は硬く、過去の事例から、大津波が起きようともこの高さまでしおは押し寄せない。

 こうした「縁環」が都の各所にあり、他にも、地域ごとで火事や台風などの天災に備えた対策がなされている。


 この国は、古来より有数の温泉地として知られている。

 国外からも湯治を目的とした訪問者が絶えない。

 このことから、近年、国はこうした旅人の獲得に力をいれた。

 その一環として、大規模な街道の整備がおこなわれた。

 それにより地方の名所旧跡へも旅人は足を運ぶようになった。


 その他、催し物の助勢や、芸人の育成などにも援助がされている。

 低い身分である「芸人」も、それなりの優遇を受けられるので、都には国の内外から芸人が集まってくる。

「縁環」は、他国から流れて来た芸人や地方出身の若い芸人が、目の肥えた都の人々を相手に腕試しをする場ともなっているのだ。


「いいのですよ。」


 承をなだめるように、男は云った。

 どうぞ穏便に、──あきらめの微笑を、承に向けていた。


 されど承は、承服しかねた。







🌸  二  疾走  ─ しっそう ─



 この男の演技に、あの美しい歌声に支払われた対価が、こんな破落戸ごろつきに奪われてしまうのは、納得いかない。


 承は、巾着を握っている頬傷の男の左手首をつかんだ。


「渡すことなどないのです。」


「おいコラ、なんで てめえが邪魔をするんだ。

 こいつが、どうぞ受け取ってください、と云ってるものを、横からくちばしを突っ込んでくるんじゃねえ。

 ──ガキは引っ込んでな。」


 頬傷の男は荒々しく腕を引いた。

 承も負けじと引き返した。

 双方、睨み合った。

 頬傷の男は右の拳を握りしめ、肩をいからせて承を威嚇いかくした。

 承の顔の間近に、睨みを利かせた強面こわもてがにじり寄る。


「すぐに暴力に訴えるなど、卑劣です。

 誰もがそれに屈すると思ったら、大間違いです。」


 ハン、と頬傷の男は鼻を鳴らした。

 小馬鹿にしたふうに承を一瞥する。


「ッたく、うるせえ小僧だ。」


 呟いて、頬傷の男は腕の力を抜いた。

 承が巾着を受け取ると、頬傷の男はそっぽを向いた。


 案外、あきらめがいいのだな、そう、承が思ったのも束の間、頬傷の男はこちらへ向きなおり、いきなり拳を振りあげてきた。


「引っ込んでいろと、──云っただろうがッ!」


 承は目を見開いた。

 なんの構えもなしだった。

 しかし、頬傷の男の拳は、承の服をかすめもしなかった。

 その拳は空を切り、体は前につんのめる。

 小僧に不意打ちを喰らわせたつもりが、見事にかわされていた。


 承は後ろを見た。

 男は悪戯っぽく、片目をしばたかせた。

 頬傷の男が振り向くと同時に、男は、承の帯を掴んで後ろへ引いた。

 そしてさらに、体勢を崩した頬傷の男の肩を、指先でと突き、駄目押しをした。


「走って!」


 云うなり、ぽかんと突っ立っている承の手首を握り、男は駆けだした。


 頬傷の男は、派手にすっ転んで頭に血を昇らせていた。

 顔を地面にぶつけ、鼻の頭を擦り剥いていた。


「コケにしやがって、……」


 顔に張り付いた砂を払い落とし、憎々しげに唾を吐き捨てると、頬傷の男は二人を追った。


 承は、男に手を引かれるまま、街をひた走った。

 男の足は、この先の大通りに向かっているらしい。


 大通りは、西の街から物資を運んでくる大小の荷車と、旅姿に荷を背負った行商人とで混雑している。

 道の先には運河があり、川沿いに荷を収める漆喰の蔵が並んでいる。


「退け! 退け!」


 ダミ声を張りあげ、道を塞ぐ者を容赦なく跳ね飛ばしながら、頬傷の男が追ってくる。

 男は承を誘導しながら、人と荷車の間を巧みにすり抜け、追っ手をどんどん引き離した。


「こん畜生め、──待ちやがれ!」


 男は後ろを窺いながら、速度を上げて荷車の前に走り込んだ。

 そして、次はこちらに向かってくる荷車の後ろに移り、横につけ、通り過ぎる頬傷の男の姿を確認すると、きびすを返し、走ってきた道を引き返した。







🌸  三  風  ─ かぜ ─



 ふたりが消えているのに気づいた頬傷の男は、立ち止まり、鶏のように くりくりと頭を動かした。


 ──必ずとっ捕まえて、痛い目に合わせてやる!


 男は息巻いている。

 奴らはどこかで道を変えたはず、──そう考え、来た道を戻りながら路地に目を凝らした。

 すると、走り去るふたつの影が目に留まった。

 ふたりが逃げて行く先には、ちょうど良い具合にの者がいた。


「おい、そいつらを捕まえてくれ!」


 呼ばれた男は、歯に詰まったモノを楊枝ようじで しいしい掻きながら歩いていた。

 二人組は前から駆けて来て、男の側を走り過ぎた。

 そのふたりは、美しい女のようにも見える若い男と、貴族の子弟らしき十代半ばの少年だ。

 その後方を、鼻息を荒くした仲間が追ってくる。

 男は反射的に楊枝を吹き捨て、二人組を追いかけた。


 逃げているうち、騒ぎを聞きつけた やくざ者が一人二人と加わった。

 気づけば、ふたりは十人ほどの やくざ者に追い回されていた。


「これをお売りください、代金はここへ置きます。──」


 男は、駄菓子屋の店先にあった箱を抱え、代わりに巾着を置いた。箱の中身は硝子玉だ。

 男はそれを ざあっと後ろに撒いた。

 走って来た やくざ者は、無数の玉に足を取られ、転げた。


 柔らかな春の陽射しを受け、光を放ちながらガラス玉が道の四方に転がっていく。

 その玉と、同じように目を輝かせたわらべたちが、駆け寄って拾い始めた。

 道にしゃがみ込んだ童を避けて、人の流れがとどこおる。

 人垣に行く手を塞がれ、やくざ者たちは地団駄を踏んだ。

 民衆の前で派手に転がされ、怒り心頭に、道行く者にも罵声を投げかけていた。


「いま少し、走りますよ。」


 再び男に手を引かれ、承は走りだした。


 ──それにしても、速い。


 足が地を蹴るたびに、前へ前へと吸い込まれていくようだ。

 身体は風穴のなかにあり、風そのものになって吹き抜けているように感じられた。


 ……やがて、承の息はあがり、もう走れないとをあげかけたところ、風は徐々にゆるやかになった。


「急に止まってはいけません。

 このままゆっくりと、あちらの神社の木陰まで歩きましょう。」


 男は承を気遣うように手を背に添えた。

 承は息を切らし、返事もできないほどなのに、隣を歩く男の呼吸は、少しも乱れていなかった。


「ごめんなさい。

 手が痛くはないですか、とっさに引いてしまったから。」

「いえ、こちらこそ、すみませんでした。

 私がいらぬ口を挟んだばかりに、こんな騒動になってしまって。

 結局、銭も失わせてしまいました。」


 余計なことをしてくれたと、お思いでしょうね、──承はすまなそうに男を見あげた。


「いいのです。

 私は芸人ではないので、人様から金銭をいただくのは心苦しいほどなのですよ。

 だから、いつもこの神社の賽銭箱に、いただいたお金を入れてゆくのです。」







🌸  四  賽銭  ─ さいせん ─



 この社は、芸能の神〈アメノウズメ〉をまつっていて、賽銭の一部は芸人の育成に使われるのだ、と男はつけ加えた。


 ──確か、十日ほど前にこの国に渡って来たと話していたはず、……


「よく、ご存知なのですね」


 承が云うと、男は静かに笑みを返してきた。なんだか、すはぐらかされた気がした。


「以前、私は旅芸人の一座について、各地を回っていたことがあるのです。

 路銀が尽き、さて どうしたものかと思案していたところ、その一座の太夫たゆうに声をかけられました。

 そこで私は、寝食を与えてもらうかわりに興行の手伝いをいたしました。

 生来、私は芸事が好きでしたので、芸人に接し、舞台を間近に感じられた日々は幸福でした。」


「では、やはり舞台に立たれていたのですね。」

「いえ。

 私のような素人が、おいそれと舞台に立つことなど出来ません。

 役者の演技を間近に見ていたので、台詞まわしなど、今でも覚えているのです。

『縁環』で、若い芸人たちが腕を磨いているのを見たら、当時のことが懐かしく思い出されて、『ひとつ、腕試しをしようじゃないか』と思い立ったのです。


 お金をいただくつもりではなかったけれど、形ばかりに椀も置いてみました。

 始めたとき、足を止めてくれたのは数人でしたが、帰り際に『面白かった』と云われ、椀に銭を投げてくださる方がいると、い嬉しくて。

 明日もやろう、という気持ちになるのです。

 そうして、素人が調子づいてしまったのです。」


 男は言葉を切り、微笑みを浮かべて承の顔を見ている。

 あんまり「じいっ」と見つめりるものだから、砂でも付いているのかと、承はそろりと顔を撫でてみた。

 その様子に、男は口元をほころばせた。


「銭を失っても、私には得るものがありましたよ。

 あなたのように、心根の真っ直ぐな方に逢えたのですから。


 他人が金子きんすを脅し取られているのを見ても、素知らぬ顔で通り過ぎる者がほとんどです。

 赤の他人のために、動いてくれる方は稀です。

 私は今、とても清々しい気持ちでいるのです。

 私の名は、諭利ゆりといいます。どうぞお見知りおきください。」


しょう、といいます。

 あなたの歌声に誘われ、足を運んでおりました。

 先ほどの行動を、そんな風に評価していただいて嬉しいのですが、あのように逃げてしまったのでは、同じ場所で演技をするのは難しいですよね。

 あなたの演技を楽しみにしていた人たちにも、済まないことをしました。

 なにより、私自身が残念でなりません。」


「有り難いことです。

 あなたが熱心に見てくださっていたのを知っています。

 演技の内容はその日の顔ぶれを見て、少しずつ変えていたのです。

 何度か足を運んでくれた方の顔は、やはり嬉しくて、覚えているのですよ。」


 承は、自分が人目を惹く容姿ではないと、知っている。

 まさか自分を覚えていてくれたとは思いもよらない。

 率直に、──嬉しい。

 はにかむように、承は笑った。







🌸  五  団子  ─ だんご ─



 承は、同年代の少年に比べて若干背が低く、少々小太りな体型をしている。

 キリリと太い眉、二重で大きな双眼、鼻筋の通った立派な鼻とふっくらとした唇が、丸い輪郭のなかに収まり、その表情には、心の清さと意志の強さが現れていた。


 諭利は、短髪の黒々とした太い毛が密集する頭に、つむじが二つあるのを見つけた。

 色白の少年の頬が、林檎のように色づいているさまを、諭利は笑みを浮かべて眺めた。

 追跡をかわしながら、ここまで走りづめだったので、いまだ気分も高揚しているようだ。

 この、好ましい丸顔の少年の額には、汗が光っている。


「どうぞ、お使いください。」


 諭利は、ふところから手巾を取りだして、承に向けた。


 持っていますから、と断ろうとしたら、その布からフワリと良い香りが漂った。

 何の香りだろうか、と、渡されるまま受け取り、汗を拭いながら香りの記憶を辿った。

 熟した桃の香に似ていた。


「団子はお好きですか?」


 諭利に問われ、「ええ、好きです。」と、承は答えた。


「残しておきました。」


 帯の間から銭を出して見せながら、諭利は子供のように得意気に笑った。

 待っていて、と云うと、正面の団子屋に向かった。


「団子をふたつ。」


 諭利は銭を支払い、二串の団子を受け取ると、にこにこしながらこちらへ戻って来た。

 一串を承に渡すと、諭利はさっそく上の一つを頬張った。

 親指の先ほどの団子が四つ並び、黒蜜の甘だれがかかっている。

 美味しいですよ、と促すような表情の諭利を見て、承も上一つを口にした。


「懐かしい、味がします。

 団子屋の婆さんは、もう亡くなったのだと訊いたけれど、味は受け継がれていますね。」


 承は諭利を見上げた。

 承は、この社に繋がる抜け道を知らなかった。

 思えば、土地の者しか知らないような道を、幾つか通ってきた。

 ただ闇雲に逃げていたわけではないのだ。


「私は、十年ほど前、この町に住んでいたのです。

 出生地うまれは、また別の場所ですが、十代の半ばを過ごした思い出深い地です。


 当時は、若さばかりを持て余し、苦い記憶も多々ありますが、私の大切な人たちが住んでいる特別な場所です。」


 団子を味わいながら、諭利は目を細めた。

 遠い少年の日々に想いを馳せているようだった。


「貧しくて、団子などめったに食べれませんでしたよ。

 一串を、数人で分けていたのです。」


 ──あなたのような御身分の方には、お解りにならないでしょうけれど。……


「──そういえば、芝居が終わったあとは、いつも急いでお帰りのご様子でしたね。

 もしや、今日も何かご用がお有りでだったのではないのですか?」


「ええ、まあそうですが、今からでは間に合いませんし、……」


 数日、朱国から来ている学者の講演を聴きに行っていた。

 演題は、「兵武論」という。

 人の間で争いが起こる理由を述べ、争いが起きることを前提として、対策を考えていくものだった。







🌸  六  申し出  ─ もうしで ─



 長兄の「かい」は、これからの世を担ってゆく若者たちを対象に、定期的に座談会を開いている。

 その活動の一環として、高名な学者を招いているのだ。

 今日の主題は、「国と国との関係を均衡に保つ為には、どの程度の軍備を必要とするか」である。

 勿論、承は聴講するつもりだった。

 けれど、それも今し方、諭利に訊ねられるまで、頭からすっかり抜け落ちていた。


「実は、」と、承は思い切って打ち明けた。


「あなたと言葉を交わしてみたいと思っていたのです。

 四日まえのことです。

 いつものように広場を通り過ぎようとしたところ、美しい歌声が流れてきたのです。

 私は立ち止まり、声に誘われるままに広場へ入って行きました。

 そこには、聴衆に囲まれて歌う、あなたの姿がありました。

 すでに語りは終わり、歌を聴いたのも途中からだったのですが、その日は眠るまで、清らかな歌声が耳から離れませんでした。


 歌声が忘れられず、私は次の日も、その次の日もと、今日まで通い詰めていたのです。

 時の経つのも忘れ、引き込まれていました。かつて、これほどに心を動かされたことはない、──この想いを、どうしてもに伝えたかったのです。」


 目を輝かせ、承が熱心に訴えるものだから、少々気恥ずかしい、といった様子で諭利は云った。


「ありがとうございます。」


 その歌声もさることながら、──と、承は考える。

 語っている立ち姿は、凛として涼やかだった。

 締まった痩身の体に藍色の衣装が映え、遠目にも、その静かな美しさは際立っていた。

 しかし、こうして間近に在っても、その姿は精緻な人形として映る。

 白く、きめ細やかな肌の質感は陶器を思わせる。

 腰まで流れる艶やかな黒髪は、きっと絹の手触りだろう。


 ──見とれてしまう、美しいひと。


 気安く声などかけて、軽くあしらわれてしまうのではないかと案じたが、この人は気取りがなく、親しみを感じる。


「──私は長らく、各地を渡り歩いていたのですが、そろそろ一ヶ所に腰を据えたいと思い、この国に戻って来たのです。

 今は、宿屋に逗留とうりゅうして、住む場所を探しているところです。


 まあ、ほとんど観光気分で、名所巡りや食べ歩きを楽しみながら、ゆっくりと町の様子を見て回っています。

 住んでいた当時は、観光なんてしようと思わないし、そんな贅沢はできもしなかった。

 数日歩いてみて、改めて『こうした所だったか』と気づくこともありました。


 今日は、一度宿に帰り、日が暮れてから屋形船で川を下ってみようと考えているのです。

 美味しい猪肉を食べさせてくれる店があるそうです。

 よろしければ、ご一緒にどうですか?

 ご馳走しますよ。

 夜は、何かご予定がお有りでしょうか。」


「ごめんなさい。」


 承は顔を曇らせた。


「残念ですが、行けません。

 実は、明日から十日ほど試験が続くのです。帰ってから、試験に備えなくてはなりません。」







🌸  七  硝子玉  ─ がらすだま ─



「どちらに在学されているのですか?」


修英院しゅうえいいん(大学)です。」


「優秀で、いらっしゃるのですね。」


 いえ、と、承は自嘲じちょうぎみに首を振る。


「修英院といっても、私はさほど優秀ではないのです。

 落第しないようにと、必死です。

 何事にも、私は懸命に取り組んでいるのですが、結果はいまいち振るわない。

 一事が万事そんな調子で、周囲からは『泥臭い』と嘲笑わらわれているのです。


 必死な姿は、はたから見ている者の目には滑稽こっけいに映る。

 だけど、私はに在るために、必死にならざるを得ないのです。」


「いえ、滑稽だなんて、思いません。

 善いことですよ。

 あなたはご自身を冷静に見て、謙虚でいらっしゃる。

 物事に必死に取り組むことができるあなたは、ご立派です。


 始めから諦めて、しゃに構えている者のほうが、よほどに無様です。

 ですから、あなたはご自身で考えているより、ずっと優秀な方です。」


 初めて言葉を交わした相手に、愚痴めいたことを云って、なんだか誉められてしまっている。


「大切な試験のお邪魔をしてはいけませんね。

 今回はご遠慮いたします。

 また、お誘いしてもいいですか。

 私は、そこの坂をくだった先の『ひたき』という宿屋にいます。

 いつでもご連絡ください。」


「ええ、是非とも。」


「またお会いましょう、承様。」


 頬笑んで会釈をすると、諭利は背を向けてゆったりと歩き出した。

 そよ風に、衣の裾が少し持ち上がり、紅梅の花びらが足下を軽やかに転がってゆく。

 去っていく姿にも風情がある、──承は感心して見送った。


 承は、諭利と別れてから一度屋敷に戻り、支度を整えて修練所に向かった。

 身体を鍛えることを、日課としている。

 試験の前だが、汗を流したほうが気分がすっきりとし、頭の回転も良くなる気がするのだ。

 今日は、少し汗ばむ程度の運動で切り上げて、駆け足で屋敷に戻ってきた。


 承は、自室に入ると上向きに転がって、手足を伸ばした。

 じんわり、ほどよい疲れが身体に行き渡っている。

 目を閉じ、承は昼間の出来事を思い返した。


 ──まるで、夢のようだった。


 『またお会いしましょう。』


 そう云い、あの人は去った。

 あの人、──名を知るまで、承は心のなかで諭利をこう呼んでいた。

 美しい歌声のあの人と、言葉を交わしたいと願っていた。

 それが、思わぬ拍子に叶い、名を知ることができた。


 ──ゆり。


 白い大輪の花を連想させる、「あの人」に相応しい、麗しい名だ。

 目を開き、承は半身を起こして、机の引き出しを開けた。

 そこにはガラス玉が入っている。

 修練所に行く前、道着に着替えた。

 その時、懐に入れていた手巾からガラス玉が一つ出てきた。

 青く澄んだガラス玉は、よく見ると、イヌノフグリに似た小さな造花を閉じ込めていた。


 承の脳裏を、無数のガラス玉が放射状に転がっていった。







🌸  八  歌声  ─ うたごえ ─



 キラキラと、輝きを放ちながら街道に広がってゆくガラス玉。

 そのを承の懐中に忍ばせ、諭利は知らん顔をしていた。

 何時いつ、どんな手法で入れたのだろう。

 記憶を手繰ってみるけれど、思い当たる節がない。


 ──面白い。


 承は口元を綻ばせた。

 あの人は、意外といたずら好きなのだ。

 やくざ者たちに追われながら、逃げているその横顔はどこか愉しげだった。


 ──川下りに猪肉、か。……


 行く、と返事をしたならば、今頃は、諭利と牡丹鍋に舌鼓を打っている頃だ。

 食欲をそそる湯気の向こうには、ホクホクと肉を頬張り、笑みを浮かべる諭利がいた。


 それから承は、諭利が眺めたであろう情景に想いを馳せる。

 水面を渡っていく風を、川を下る船の揺れを、記憶から拾いあげてゆく。


 ──船の上は、涼しいというより、肌寒いと感じるほどだろう。


 川縁の桜は五分咲きくらい。

 夜は灯籠に火が入り、桜木を幽然と浮かびあがらせる。

 白い花びらがはらはらと舞うなか、紫紺の水面に映り込んだ数千本の桜のうえを、屋形船はゆったりと進む。


 夢見心地に目を細めた承の耳に、船頭の歌う舟唄が流れる。

 それはいつしか、涼やかな諭利の歌声に変わっていた。


 ──川下りに、出かけたかった。


 共に桜を、──と、今更ながらに惜やまれる。

 試験さえなければ、一も二もなく誘いに応じていた。

 だが、──承は、目の前の物事に最善を尽くしたいと考える。

 諭利と出掛けたことを、成績の良し悪しの言い訳にはしたくない。


 『いつでもご連絡ください。』


 諭利は云い、滞在する宿を教えてくれた。

 また、会える。

 すでに知り合っているのだから、焦る必要はない。


 『物事に、必死で取り組むことができるあなたを、無様だとは思わない。』


 それは、今の承が一番聞きたい言葉だった。

 この人は、愚直な者を嘲笑わらったりはしない。

 この人になら、自分の心の内を語れそうな気がする。


 自分を理解してくれる者を、承は欲していたのだ。







🌸  九  理解者  ─ りかいしゃ ─



 一昨年、承は受験に失敗した。

 試験の前日に、承は高熱をだした。

 そして熱がさがらないままに、翌日の試験に臨んでいた。

 試験は十日続くのだが、初日、二日と惨憺さんたんたるものだった。

 三日目には熱はひいていたが、気持ちの切り替えができず、本来の力を出し切れないうちに、試験を終えた。


 受験に失敗したことで、承は学友たちと距離を置いた。

 微妙な気遣いをされるのが、つらかったのだ。

 しかし昨年、承が修英院に合格した際に、疎遠になっていた学友たちが祝いの宴席を設けてくれた。

 それを機に、旧交をあたためることになった。

 だが、疎外感は拭えなかった。


 過ぎたことを悔いても仕方がない。

 他人ひと他人ひと、私は私だ、──と、承は自分に言い聞かせてきた。

 けれど、一年の間に生じた差は埋めがたく、学友たちに遅れを取っていることに、しばしば承は焦りを感じてしまうのだ。


 先刻の諭利の言葉に、承は励まされた。

 大丈夫、と背を支えられた気がした。

 歩みを止めず、一歩でも前に進もうと、承は気持ちを新たにするのだった。









  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る