毒が全てを塗り潰す。
薄暗くて、冷たくて、無機質で、恐ろしい監獄。それがカルミアが抱く
彼女は今、自分で拘束台へ登らなければならなかった。銀色に輝く嫌な手枷と足枷、そして首枷の付いた気味の悪いベッド。いや、ベッドなんて優しいものじゃない。これは処刑台だ。今まで数え切れないほどの毒ノ姫達を喰らい尽くしてきた、処刑台だ。
いつか自分も、喰らい尽くされてしまうのだと思うと、カルミアの小さな肩はぶるりと震える。恐ろしい。恐ろしい国だ、ここは。そしてそんな国に飼い殺されながら生きている自分は、とってもとっても惨めだ、といつも思っている。
小さな踏み台を一つ一つ上がっていく度に寿命が縮みそうなほどに心臓が痛むのはいつものこと。これから起こる「痛いこと」の恐怖が頭と心を支配するからだ。
「姫。もう何度目ですか。早くしなさい」
斜め後ろから男の声が急かす。分かってるよ、とカルミアは反論したい気持ちに駆られるも、男の酷く冷たく、だがしかし何処か異様に輝く瞳を見ただけでそんな気持ちは萎縮した。もたもたしていたらまた嫌味たらしく声をかけられてしまう。カルミアは歯を食い縛り、台に腰掛けた。それを合図に防護服に身を包んだ白い人が数人がかりで青冷めたままの少女に枷を嵌めていく。血のような錆が染み込んだ重い枷を。今の彼女は国を救う希望の光であり、しかしその実態はただのモルモットでしかない。ここにいる者達は誰も彼女をヒトとして扱わない。触れれば死ぬが布を介してさえいれば問題はなく、そして『実験』は科学者達の夢の塊なのだから。
「では、いいですね、姫」
「だめ、って言ったってやるんでしょ、どうせ」
せめてもの抵抗に少女は震える唇から強気な言葉を紡ぎ出す。動けやしない状態にされても、決して心まで服従している訳じゃないと、今にも噛み付かんばかりの目で睨み付ける。男は愉快そうに、不愉快そうに、嗤う。
「分かっているじゃあないか」
やれ、という一言で防護服の集団のうちの一人に命令をする男。いつの間にかその手には大きくて太い針が用意されている。カルミアはギュッ、と目を瞑った。あれが自分に刺さることを知っている。針のお尻側にはチューブが付いており、それは特殊な機械に繋がっている。吸引器。それは毒ノ姫の血を吸い出す装置だ。カルミアに詳しい仕組みは分からない。分かるのはただ一つ。
あれは、痛くて、怖いもの。きらいなもの。
小指ほどもある針が麻酔もなしに首筋に刺さる。そこから容赦なく血を吸い上げていく。遠慮なんて何一つなく。じゅうじゅうと嫌な音が牢獄中に響き渡る。カルミアの体は意思を持っているかのように突っ張って拒絶を表すが、その抵抗には何の意味もない。痛みで沸騰しそうな頭の中で、悔しさと悲しみと憎しみが入り交じる。男が嘲笑っているのが分かる。声なんか聞こえなくても分かる。だからこそ痛みに叫んだりなんかしたくなかった。彼女は、強い。強いと自分で思い込んでいる。何処まででも真っ直ぐな少女。だからこそ、脆い。自分は強いと暗示をかけていることで、自分の弱さに直面した時、容易に崩れてしまう。今が、この研究所にいる間が、その時だ。少女は苦しみながら自己嫌悪と他者への憎悪に塗れていく。
許さない許さない許さない。痛い痛い痛い。早く終わって。早く離して。もう嫌だ。どうしてこんな目に遭わなきゃいけないの。『姫』なんか辞めたいのに。毒なんか持っていたくなかったのに。何が悪かったの。助けて。誰か。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
ふと少女が目を覚ます。……どうやら気絶していたらしい。男達の声が漏れ聞こえてくる。涙と涎、鼻水。ありとあらゆる水分が顔中に塗れているのを拭くことも出来ず、カルミアは耳を澄ませるしかなかった。
またか。今回もですね。毒の数値自体はとても高いというのに、何故だ? 計測ミスの可能性は。ありません。やはり何かしらの特性が──。詳しいことはまだ分かりませんが──で────のようですね。まだ利用価値はある、か……。確認の為にも動物実験をした方が。そうだな、そうしよう、娘を起こせ、今回は大きめの獲物を連れて来い。
ああ、まだ地獄は終わらない。『実験』と称し、カルミアは命を殺さねばならない。生きたままの何の罪もない、か弱い動物を。
「目が覚めましたか、姫」
「……ええ」
嫌味が体現したらこの男の形を取るのではないだろうか。そう、カルミアは考えている。あまりにもこの男は得体が知れなさすぎる。影のような男。そして、大嫌いな研究所の、大嫌いな所長。白衣を翻しながら近付いてくるものの、ある一定の距離は必ず保つ男。カルミアの腕や足の長さを把握し、それが届く所には立たない。ああ、嫌い、大嫌い。作業を自ら行ったりしない癖に。危険なことは全部白い人達にさせる癖に。私の痛みを知らない癖に。私の気持ちを踏み付ける癖に。
「姫の枷を外してやれ」
自由を再び手にするものの、待っているのは未だ不自由だけ。
「さ、姫。分かっているだろう?」
にやり、と嗤う男。許されるのなら蹴りを一発お見舞いしてやりたいと何度思ったことか分からない。
「……うるさい。私は嫌だって言ってるでしょ」
やれやれ、と呆れた顔で男はまた嗤う。
「そんなだからあなたはいつまで経っても『出来損ない』なんだよ、姫」
男の口から漏れる『姫』はただの蔑称でしかない。姫、と呼ばれる度にカルミアの全身は泡立つ。ざわりと嫌な感触が撫でていく。それさえも男は楽しんでいるようだった。
「……だったら出来損ないでいいもの。私は殺したくない。殺したくなんかないの。例え小さな動物だとしてもね!」
「いや、君は殺さなくてはいけない。我々を生かす毒の存在を知る為にね。どうしても嫌だと言うのなら、なぁ、姫よ」
男は、今日一番の笑みで、言う。
「お前を殺さなければならないのだから」
***
「……カルミア」
少女は樹の根元に蹲り、泣いていた。
「……チノネぇ……」
普段気丈に振る舞い、決して弱音を見せず、いつだってヘラヘラと笑う少女の涙に、チノネは頭の芯がぐらりと傾ぐ気がした。
「……頑張ったね」
「うん、うん……頑張ったの、私。嫌だったのに。殺したくなんか、ないのに。私、姫なんか、辞めたいよぉ」
カルミアの肩にそっと触れようとし、躊躇い、頭を軽く小突く。
「なーに言ってんの。カルミアらしくないですよ」
甘い香りの充満する籠を差し出し、そして精一杯笑ってみせる。
「ほら。注文通りのチョコレートケーキ。あまっあまだよ、あまっあま」
「ほんと? ほんとに甘い?」
「甘い。すっごく甘い」
涙を拭い、少女は笑顔を作る。
「どれ、私が味見してあげよう!」
「味見じゃないでしょ、全部食べる癖に」
「はは、バレたか」
籠の中には行儀良く並んだチョコレートケーキが六つ。大食らいのカルミアが四つ、チノネが一つ、樹に備えるのが一つ。
「時ノ女神様。私達の毒にその御力の欠片をお貸しください」
二人の少女は祈りとたっぷりのホイップクリームで飾られたチョコレートケーキを捧げる。
「それから私の毒も、もう少しどうにかしてください」
「ちょっとカルミアぁ」
怒られたことを気にも留めず、少女は早速そのケーキにかぶりつく。
「……にがい」
少女は小さく顔を顰める。
「ごめん、そんなに苦かった?」
「違うの、違うのよ、チノネ」
零れ始めた涙は止まることを知らないようだった。
「ごめん、毒、緩めにしたんだけど」
背中を擦るチノネの掌の温かさに、カルミアは更に瞳を潤ませた。
違うんだよ、チノネ。毒は本当に薄いって分かってるよ。でもね、苦いの。私はこんなに甘いお菓子なんて食べちゃいけないって思ってしまうの。ねぇ、チノネ。私、どうして生きてるんだろう。体中毒に塗れているのに。チノネ以外の誰にも触れることなんか出来ないのに。簡単に命を消してしまうのに。こんなの、罪以外の何物でもない。そうでしょう、ねぇ、チノネ。
毒が何もかもを上から塗り潰していくようだと少女は胸を痛めながら、それでも甘い甘い優しさに溺れていくのだった。
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