11/The film of early twilight《2》

 隣りに並んだはいいものの、一向に言葉は出てこなかった。

 相変わらず温い風が二人の間を埋めるように入り込んで、すぐに根を上げてすり抜けていく。風の音に紛れて、どこか遠くの空を飛んでいるであろうカラスの鳴き声が聞こえた。見上げる空は広がる夜に蝕まれ、もう半分以上が闇に染まっている。

 アルビスは次の煙草を咥えていた。みるみるうちに短くなっていく煙草が、まるで復讐に駆り立てられて生き急ぐアルビスそのものに見えて、公龍はさらに何も言えなくなった。


「キリノエがCIAに報告していた協力者の話だが、私に心当たりがある」


 やがてアルビスのほうから沈黙を破る。硬質な声が気怠い夏の夜に凛と響く。


「回復次第、そいつのところへ向かうべきだろう。おそらくキリノエの件で、協力していたそいつもかなり危うい立場に立たされている。接触できれば何か情報を得られるかもしれない」

「そうか。そうだな」


 公龍はそれだけ返事をする。満身創痍でいながらも既に次の手を考えているのが実にアルビスらしいと思った。


「だがとりあえず今晩は休むべきだろう。ジーンの言う通り、ここがCIAの連中が使うホテルならば《リンドウ》もそう手出しはできないはずだ」

「どのみち、今戦うことになったら終わりだろ」


 公龍は自分とアルビスのボロボロの身体を見やる。公龍は歩くのさえやっとで、アルビスも両腕が粉砕している。そんな状態でフェンディと戦うことなど、考えただけでゾッとする。


「随分と弱気だな」

「真っ当な分析だと言えよ」

「いや、実際お前は弱くなった。……公龍、お前は一体何をそんなに恐れている?」


 アルビスの言葉が鋭利なナイフとなって公龍に向けられる。公龍は小さく息を呑み、それからぎこちない笑みを浮かべる。


「知らねえよ。別にビビっちゃいねえし、弱くもなってねえ」


 公龍はそれを突っぱねるように吐き捨てる。弱くなっているはずがない。〝赤帽子カーディナル〟や〝解薬士狩り〟、そして〝六華〟――突き抜けた狂気を孕む強敵たちと鎬を削り、死力を尽くしてぶつかり合い、生き残ってきたのだ。昔より確実に強くなっているはずだ。

 だが公龍はフェンディにも同じようなことを言われたことを思い出していた。

 守るものができて弱くなった――フェンディはそう言った。確かに守るものができたのはその通りだ。全てを失ってどん底に落ちた公龍は、ほんの四カ月前にクロエと出会った。

 全て忘れたと思っていた。平穏や愛情などとっくに踏み躙られ、自分が身を置くべき場所は狂気と闘争の只中にしかないのだと決めてかかっていた。

 だがアルビスが離れ、解薬士ではなくなったことで公龍は思い出してしまった。狂気から身を引き上げたその先で、クロエと二人慎ましやかに暮らす日々の温かさを知ってしまった。

 自分は恐れているのだろうか――。

 もし恐れているとするならばそれはたぶん、また失ってしまうことへの恐怖だろう。

 クロエを失ってしまうことがどうしようもなく怖いのだ。

 そしてそれは同時に、クロエから自分という存在を失わせてしまう恐怖にも通じていた。だから死ぬのが怖かった。これまでの戦いで幾度となく、軽々しく掛け金にしてきたはずの命を天秤に放り投げることができなくなっていた。

 だがそれが弱さだとは思えなかった。何かを守ろうとするとき、決死の覚悟ではなく、必ず生きて帰るという覚悟を決めたとき、人は本当の意味で強くなれるのではないのだろうか。

 それはかつてフェンディが愛する人を生き返らせようとしたようにであり、まだ幼かったアルビスが母を養うためにスラムの狂気で必死にもがいたように。

 だからこそ、フェンディもアルビスも復讐に駆り立てられている。大切な人を守れなかった過去の自分を弱かったと決めつけ、痛みとともにその後悔を乗り越えようと自らの罪を血で洗おうとしているのだ。

 強さとは何なのだろうか。

 公龍には分からなかったが、きっとただ戦闘に長け、力が強いことだけが強さではないのだろうことだけは分かった気がした。

 いや、結局はこれすらもただの願望なのかもしれない。自分の進む道の正しさを信じたくて、自らが作り出した強引な論理に過ぎないのかもしれない。

 きっと誰もが愛に翻弄され、痛みを抱えながら戦いを繰り返しているだけなのだ。

 公龍は英雄ではない。解薬士は超人ではなく、ただの人だ。だからこの《東都》を覆う全ての狂気から全てを救ってやることはできない。

 だがせめて、いやただの人だからこそ、手が届く範囲にいる大切な誰かを救いたいと思う。

 そしてそれは、闇に囚われ続けているアルビスも例外ではない。


「なあ、アルビス。お前はどうして俺に協力してる?」


 公龍は問うた。あるいは願っていた。相棒だから――そんな単純な、だがあり得ない答えを期待した。だがアルビスの冷たい声音は、そんな淡い期待を突き離す。


「利害の一致と言ったはずだ。これは《リンドウ》につけ込むチャンスだ。お前は無実を証明してクロエを取り戻すために私を使い、私は復讐を遂げるためにお前が陥った状況を利用する」


 そう、それだけ。錆びついたパートナーシップは今やただの利害で結ばれる、一時的な協力関係に過ぎない。割れた花瓶をいくら精巧につなぎ合わせようと決して割れる前には戻らないように、一度徹底的に壊れてしまったこの関係が元に戻ることはもう二度とないのだろう。

 だが公龍は願わずにはいられないのだ。裕福だったわけでも正しかったわけでもない。ただそれでも、たしかに温かくて、煩わしくて、楽しかった三人の日々が再びこの手に戻ってくることを望まずにはいられない。


「いつだったか、三人で遊園地行ったよな」


 公龍の唐突な話題の転換に、アルビスは眉を寄せる。怪訝に思えたのだろう。だがやや間をあけて、アルビスは「ああ」と短く返事をした。

 その視線の先に浮かぶのはやはり怨嗟に囚われた復讐の未来だろうか。できることならば、公龍と同じ、歓声で賑わった遊園地の思い出が浮かんでいればいいと思った。


「楽しかった、よな? あんなにはしゃいだのは学生のとき以来だったよ。ほら、桜華とのデートはよ、かっこつけてねえといけなかったからな。なんつうか、童心に帰るって言うのか、まあとにかく俺は楽しかった」

「そうか。それはよかったな」


 アルビスは気のない相槌を打つ。公龍はわざとらしく笑った。


「てめえだってそこそこ楽しんでただろ。ほら、ジェットコースター乗りながら、動体視力鍛えてたじゃねえか」

「そんなこともあったな。だがああする以外、あれの有効な活用方法がないだろう」

「ああいう娯楽は愛すべき無駄なんだよ。……っててめえには必要ねえか?」


 公龍が冗談混じりにそう訊いたが、アルビスはすぐには何も言わなかった。愛すべき無駄の必要性を真面目に検討しているのか、それともくだらない会話に飽きたのかもしれない。


「あの日だけじゃねえ。上の牙央興業の連中らなんかとちょっとしたパーティーやったりよ。風呂にも行ったな。クロエは一人で女湯に入るべきかでクソほど揉めてよ……俺は、楽しかった。俺の人生でまたこんなに楽しい毎日が過ごせるなんて思ってもみなかった」

「何が言いたい?」

「こんな風に思えたのも、お前があの日、廃区の路地裏で俺を見つけたからだってことだよ。不本意で仕方ねえが、一応は感謝してやる」

「今日はよく喋るな」

「うっせえよ」


 二人の間に、再びの沈黙が広がった。アルビスはもうほとんど闇に染まった空を見上げていた。月も星も見えなかった。


「私も、楽しくなかったわけではない。お前たちと過ごした日々に思い入れが全くないわけでもない。ただ、レシアの無念を晴らし、私自身の過去を清算することのほうが優先順位が高いというだけだ」


 放たれた言葉はどうしようもなく寂しげで、研ぎすぎた刀のように鋭くて危うい。だがそれゆえに、その言葉がアルビスの本意なのだと痛いほどに理解できた。

 とっくの昔に灰に変わって燃え尽きていた煙草をアルビスが地面に捨てる。重い腰を上げ、身体を引き摺るようにベンチから離れていく。


「くだらないことを考えてないで、今は身体を休めろ。夜明け前にはここを出るぞ」


 公龍は、ペントハウスから屋内に戻っていくアルビスを振り返って見送ることすらできなかった。背後で重たい扉が閉まる音がして、公龍は屋上に一人取り残される。

 温い風が吹いていた。そこにはほんの少し、アルビスの煙草の残り香が混じっている。

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