08/Dancing in the night《3》

 溢れ出した濁流に浸かった地面に寝転びながら、銀は静かな夜空を仰いでいた。

 まるで戦いと混乱の終わりを察知したように雨は降り止んでいる。耳元では水が流れていく音がまだ聞こえていたが、それに反して曇った空は静かだった。


「逃げたか、あいつら」


 言葉とともに吐き出した溜息が落胆や疲労からくるものなのか、あるいは安堵なのか、銀自身にもよく分からない。たぶん両方が混ざっているのだろう。苦々しく呟いた言葉はほんの少しだけ、血の味がする。

 ほとんど独り言のつもりで口走った呟きだったが、銀の腹の上に座って濡れたマフラーを絞っている花から応答が返ってきた。


「……とっく。お兄、最後、追う気、なかった」

「サボったみたいに言うなよ。花ちゃんだって撃てるのに撃たなかっただろ」

「……それ、お兄が、動かなかったから」


 この議論はおそらく平行線だろう。逃亡犯をみすみす取り逃がしたことは大きな失点だったし、もちろんそれが意図的なものであったり、あるいは追えるのに追わなかったなんてものであっていいはずがない。

 それに責任の所在を明らかにすることにあまり意味もなかった。少なくとも銀と花はあの二人に対して同じように失望していて、そして彼らが無事にこの場を切り抜けていったことに同じだけ安堵しているはずだった。


「……九重たち、大丈夫、かな」

「さあ、どうだろうな」


 花がぼそりと溢した声に、銀は曖昧に濁す以外の答える術を持たなかった。

 ここは地の利もあって辛うじて切り抜けていったが、これから先がどうなるかは分からない。あの二人が一体何を敵にしようとしているのかも、あの二人――あるいクロエを含めた三人に一体何が起きているのかも、銀は何一つとして知りはしないのだ。

 もう二度と関わるなと吐き捨てていった、公龍の後ろ姿を銀は思い出す。

 おそらく今回のこの失態で、警察の捜査に銀たちが動員されることはもうないだろう。このまま何もしなければ、公龍の言葉通りにただニュースで続報を耳に入れるだけの部外者に成り下がることは簡単だった。

 だが、これは公龍たちに面と向かって言うことはないが、二人には大きな借りがある。

 かつて宅間喜市たくまきいちのファイルを巡って賢政会と《リンドウ・アークス》の抗争に巻き込まれたとき、銀と花が無事に生き残ることができたのは、公龍たちが行動を共にしてくれたという側面が大きい。本来なら風が吹けば掻き消えてしまうであろう零細解薬士であり、事実《リンドウ・アークス》によって捨て駒として切り捨てられるはずだった銀たちが今もこうしていられるのは、二人と組めたからなのだ。

 それに今回の件だって、きな臭さがないわけではない。

 第一に、本来ならば公龍の起こした事件は単なる殺人事件であり(公龍が元解薬士であるという点でグレーゾーンではあるが)、コードαでのみ捜査権が与えられる解薬士に出番はない。

 それに、いくら旧知とは言えど《リンドウ・アークス》直下の事務所であるフォルターワークス所属の二人が警察の捜査に介入してきている点も不可解だと言えば不可解だった。新羽田エボラ事件にノアツリー襲撃――立て続けに起きた未曽有のテロによって壊滅的な打撃を受けている第四部門フォースパワーを大規模に動かすだけの余裕が《リンドウ》にないとも取れるが、犬猿の仲として知られる《リンドウ》と警察が表面上は唐突に足並みを揃えだした事態には何か裏があるのではと勘繰りたくもなる。

 加えて言えばそもそもの話として、銀には公龍が人を殺したという事実自体がにわかには受け入れがたい。もちろんこれは感情論的な側面が強く、整然とした根拠があるわけではない。だが一時は肩を並べて戦った仲だからこそ、感じ取れるものもあるはずだ。

 確かに九重公龍というやつは粗暴でどうしようもない人間だ。だがクロエという守る存在を背負っておきながら、そんな軽率な行為に及ぶような阿保だとはどうしても思えなかった。

 それに、クロエが攫われたというのも引っ掛かる。公龍は今なお、あの少女を守るために動いているのだ。

 事態があまりに衝撃的だったせいで思考が止まっていたらしい。少し冷静になってみれば、色々な可能性がフラットに考えられそうな気がした。


「少し調べてみるか」


 銀は花にだけ聞こえるように小さく呟く。不愉快そうな顔で絞り終えたマフラーを巻き直していた花はこくんと頷いた。

 気が付けばついさっきまで耳の下あたりまであった水位は随分下がっていた。もう耳元で聞こえ続けていた水の流れる音は聞こえない。


「それでさ、花ちゃん?」


 銀は首を持ち上げて花に顔を向ける。


「いつまで乗ってんのかな。そろそろ降りてくれない? けっこう重――ぎふっ」


 言いかけたところで、花の手刀が鳩尾に振り下ろされた。銀は陸に打ち上げられてしまった哀れな魚のように四肢をばたつかせる。小さく欠伸を噛み殺した花はわざとらしく銀を意識の外へと締め出し、綺麗に手入れされた自分の爪を眺めていた。


   †


「どうやら貴方の部下たちは失敗したようだ」


 革張りのソファに深く身体を預けている竜藤静火りんどうしずか腕時計型端末コミュレットでの報告を受けて言い、左右の脚を組み替える。対する屋船有胤やふねありたねは表情を崩さないまま、角砂糖を四つ落としたティーカップを口へと運び、紅茶を口に含んだ。

 警視庁・警視総監室。屋船と静火はたった二人、表面上は穏やかな空気のなかで向かい合っていた。


「随分と余裕そう……いや、嬉しいのかな? 警視総監殿は、あの二人に何かと目をかけていたようだしね」


 屋船は喉を通って胃に落ちていく甘みを味わい、紅茶の芳醇な香りを楽しむ。ゆっくりとティーカップをソーサーの上に戻すと、陶器が打ち合って小さな音が鳴った。


「優秀な解薬士というのが貴重なだけですとも。警視庁うちには《リンドウ》さんと違って、人材に余りがあるわけじゃないですからね」


 屋船は白々しく言ってから「それに」と付け加える。


「失敗の咎を受けるならば、それはそちらも一蓮托生では? そもそもこれは警視庁の人員を動員して行われた、《リンドウ・アークス》主導の包囲作戦です。何よりフォルターワークスの二人も名を連ねている」

「たしかにその通りだ。だけどね、元はと言えば警視総監直属の部下である飛鳥警部の失態が原因でしょう。彼女らが護送に失敗しなければ、こんな事態にはならず、今頃事件は丸く収まっていたはずなんだよ」

「その件に関しては、申し開きもできない」


 屋船はしおらしく言ってみたが、逮捕された公龍の元に澪を回したのも、その澪を使い、極秘で捕らえていた賢政会の連中と取引をして公龍の逃亡計画を実行させたのも、全て屋船の指示だ。おそらく静火もそのことには勘づいているのだろう。だが決定的な証拠がないからこそ推測の域を出ず、それ以上の追求はできないでいる。

 それに腹のうちを隠しているのは何も屋船のほうだけではない。


「そう言えば、小耳に挟んだ話ではあるんですがね、何でもあの〝氷血の魔女〟が脱走したとかしないとか」


 屋船は反撃代わりに突いてみたが、静火の表情は全く揺らがない。もちろんこの程度で動揺するようでは《リンドウ・アークス》の――ひいては《東都》に君臨する新たな王が務まるはずもないのだが。


「そのようだね。今、事実関係を確認させているところだ。とは言え、いくらと言えど魔法を使うわけじゃない。《鉄籠ケージ》から脱走するなんて真似はできないさ」


 もはや言うまでもなく、警視庁と《リンドウ・アークス》は同じく《東都》を守る立場にありながら、縄張りを争って敵対する組織だ。屋船は《リンドウ・アークス》に対して自分の息がかかった人間をスパイとして送り込んでいたし、それは《リンドウ》側も同様だ。

 これまで水面下で繰り広げてきた無数の情報戦は、今まさに一つの大きな火種となりかけているのかもしれない。そう感じさせるだけの緊張感が、二人の会話の端々でちらついていた。


「たしかに仰る通りだ。大きな事件が立て続けに起き、第四部門フォースパワーが打撃を受けている現状で《鉄籠ケージ》まで破れたとなっては責任問題になりかねないですからね」


 屋船があっけらかんと笑うと、静火も微笑みでそれに応える。しかし眼差しだけは、お互いの腹のうちを絶え間なく探り続けている。


「御父上に不幸があり、その上着任早々でこの面倒。静火さんも大変ですな」

「父の死は、……そうだね、きっと志半ばで逝っただろうし、無念でならない。だがその父が遺した《東都》を守っていくことが、私と、竜藤の家の人間とともにある宿命だ。だから苦に感じるようなことは何もない。むしろ気が引き締まる思いでいるよ」

「さすがですね。天国の御父上も安心していることでしょう」

「生前に大した孝行をしてやれなかったことは悔やまれるが、もしそうなら少し胸が楽になるかもしれないな」


 屋船は静火に前に置かれているティーカップをちらと見る。紅茶に口をつけるどころか、まだ静火はティーカップに触れてすらいない。もちろん警視総監室こんなところであからさまに薬を盛ったりするはずもないのだが、染みついた警戒心というやつだろう。

 自分以外の誰も、それがたとえ血を分けた身内であっても信用しない。それが竜藤静火という人間の本質であり、《東都》という巨大な盤を使って繰り広げられる政治ゲームの優秀な指し手である所以だった。

 静火はちらと手元の腕時計型端末コミュレットを見やる。もう既に日付が変わろうかという時間だったが、まだ次の予定か仕事が残っているのかもしれない。


「話が逸れたね。警察には引き続き、都外への経路に検問の敷設と各廃区を中心にした人員の配置をしてもらう。よろしく頼むよ」

「ええ。分かりました」


 おそらく静火はもう既に次の手を打っている。そして警察に下される二つの命令はその次の手とは無関係であることは間違いない。事実上の締め出し。警察は九重公龍の一件から切り離されたのだ。

 しかし現在の立場上、屋船は静火の命令に従う他にない。だが黙って従い続けるつもりも、屋船にはない。


「御多忙ななか、わざわざ足を運んでいただきありがとうございました」

「いいんだ。本社に居続けるのも息が詰まるからね。たまにはこうして気分転換に外の空気でも吸わないと。……では、これで失礼するよ」


 屋船が差し出した右手を無視し、静火は立ち上がって扉へと向かう。これまで存在すら忘れるほど完璧に気配を消していた秘書のルベラ・レグホーンが扉を開け、静火は警視総監室から去っていく。

 無様に宙に差し出されたままの手は虚空を握り潰す。込み上げる怒りと嫌悪は笑みとなって屋船の喉を鳴らし、分厚い肩を小刻みに震わせた。

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