07/The rusty buddy《2》
公龍は朧げな朝陽のなかでアルビスに対峙する。互いに睨み合ったまま動かなかった。
砕いた刃物をばら撒いたような、張り詰めた静寂が流れていく。やがて公龍とアルビスはほとんど同時、殺していた息を噴き出すように吐き切った。
「やめだ。めんどくせえ」
公龍は言って、通路脇に置かれたベンチに腰かける。アルビスは斜め前の壁に寄り掛かり、さも偉そうに腕を組んでいる。公龍はその澄ました顔を睨みつけた。
「何やってんだよ、てめえは」
「それはこっちの台詞だ。堅気に戻り、クロエと平穏に暮らしていたんじゃなかったのか?」
公龍は決まりの悪さに舌打ちをする。
事務所の閉鎖から一ヶ月。どうやら公龍たちの暮らしの様子はアルビスに筒抜けだったらしい。
「……何故殺した?」
「あ? 正気で言ってんならぶっ飛ばすぞ」
公龍は声を荒げる。アルビスは黙ったまま腕を組んでいる。まるでジョークに本気になって返答する公龍を小馬鹿にするような表情だったが、それならジョークのセンスがなさすぎる。着せられた濡れ衣は、公龍にとって間違いなく最も差し迫った問題だ。
「てめえこそどういうつもりだよ。指名手配犯が何の真似だ?」
「別に慈善事業で貴様を助けたわけじゃない。利用価値があるから助けたまでだ」
「てめえにしゃあしゃあと利用されると思うか?」
「強がるな。それは誇り高さではなく、ただ状況判断のできない阿呆の選択だ」
アルビスの言うことは、辛辣だがもっともだった。公龍は自らの不甲斐なさに奥歯を噛んだ。
状況は最悪。濡れ衣を晴らすための突破口はゼロに等しく、そこには過去の怨嗟に駆り立てられる魔女――フェンディ・ステラビッチが立ちはだかる。彼我の実力差は先の戦いが物語っている。これまでだって幾度となく強敵と対峙してきた公龍だが、フェンディは過去最強にして最凶と言えるだろう。今こうして五体満足で息をしていること自体がある種の奇跡だった。
加えてもしフェンディを倒すことができたとしても、その先の陰謀と真実を握る敵はさらに強大だ。フェンディの強さと厄介さがあくまで一個人のものに過ぎないとすれば、その敵の大きさは測り知れない。
「俺は何日寝てた?」
「三日だ」
「三日……」
事態は急を要している。汐による超人的な治療なしでの三日ならば及第点と言えるだろうが、それでも寝込んでいた遅れは否定できない。
「貴様の状況はおおよそ把握している。敵の意図も予測がつく」
「何が相手か分かってんのか?」
「当然だ。そもそも私の敵は、最初から奴らだ」
勝手に事務所を辞め、賢政会の暴動に与した時点でなんとなくは察していた。しかし本人から改めて言葉にされると、共に戦ってきたこの二年余りの時間は何だったのかという気分になる。
公龍が黙り込んでいると、アルビスは「いい機会だ」と言って口を開いた。
「私の本名は、アルビス・ヴァルムシュテルン・リンドウ。名前から分かる通り、《東都》を統べる一族の血を引いている。亡き竜藤統郎の三男だ。母親の名はレシア・ヴァルムシュテルン。東京が震災に見舞われる以前、まだ《リンドウ・アークス》が一介の製薬会社に過ぎなかった当時、研究員として《リンドウ・アークス》に所属していた」
公龍は面を食らうあまり、言葉を失った。
アルビスが過去に何かを抱えていることは薄々勘づいていたつもりだ。公龍が桜華とその子供を喪ったのと同様に、相棒であるアルビスもまた大きな喪失を経験している。その哀しい共通項が、水と油だった犬猿の仲の二人のパートナーシップを辛うじて繋ぎ止めていたようにさえ感じる。
だが明らかになる闇はあまりに深い。なぜ竜藤の家に生まれ、《東都》での成功を約束された人間が国外で傭兵に身をやつし、今こうして解薬士として血生臭い道を歩いているのか。もはや子細を聞くまでもなく、アルビスの佇まいが壮絶な過去を経たことを物語っている。
「私の母、レシアは竜藤統郎の愛人だった。とは言え、珍しいことではない。統郎には妻である
「あたくしの気品は生まれながら、竜の血筋によるものだってか?」
公龍は重くなる空気を退けようと、わざとらしく茶化してみる。だがアルビスの薄青の瞳はそんな公龍を突き刺すように一瞥し、〝黙って聞いていろ〟と雄弁に告げる。公龍はささやかな抵抗に舌打ちを鳴らし、渋々と口を閉じた。
「だが状況は変わっていった。レシアは原因も分からないまま瞬く間に精神を壊し、何者かに自殺に偽装して殺されかけた。そしてその療養という名目で、まだ幼かった私もろとも南アジアのスラム街に捨てられた。私がまだ一三歳のときだった」
そこからのアルビスの人生の悲惨さは、きっと安易な想像を巡らすことすら憚られるものだろう。
南アジアのスラム街がどれほどのものかを公龍は知らないが、《東都》で最も劣悪な環境である二四区の廃区など比べものにならないことは予想がつく。加えて病んだ母親と二人きり、言葉さえろくに通じない地での生活が一三歳の子供に背負わせる苦難の大きさは測り知れなかった。
「病んでいるレシアは働けない。だから私が彼女を守るしかなかった。知恵を巡らし、ときに暴力に訴え、金を稼いだ。ギャングの小間使いのようなこともした。盗みも殺しも何でもやった。だがある日、私が腐っていない果物を手に入れて寝床に戻ると、殺されたレシアが
淡々と、まるで散歩のルートを説明するような口調に、公龍は内心で苦笑を浮かべ、同時に気づかされる。
公龍だって、もしあのとき〝チートマル〟による
言ってしまえばアルビス・アーベントという相棒は、復讐することを選んだ公龍自身の姿だった。
「そのあとは、偶然出会った
そしてアルビスは未だ、復讐の道程に立っている。その冷たい眼差しの奥で、黒々とした憎悪の焔を燃やしているのだ。
そんなアルビスに、公龍は何をしてやれるのだろう。
相棒として、どうこの男の隣りに立っていればいいのだろう。
結局のところ、できることなどないのかもしれない。喪失の大きさを痛いほど知っているからこそ、力づくで止めることはできないし、そうまでして復讐を否定するつもりもない。
だが公龍はかつて、二度までも救われた。落ちぶれる公龍に手を差し伸べ、あるいは憎しみに落ちそうになったときには共に並んで戦ってくれた。
きっと公龍は復讐に走る選択もできた。名もなき我が子を思い、あるいは桜華の願いを汲み、鬼となる道だってあった。だがそうはしなかった。過去を乗り越えて生きていくことに意味を持たせてくれたアルビスがいたからだ。
「どうしても、やらなきゃいけねえのか」
公龍は覚悟を込めて聞いた。その言葉のうちに、自分やクロエが、アルビスにとって過去ではなく今を生きる意味になりえないのかという願いを込めて。
だが薄青の瞳は決して揺らがない。ただ真っ直ぐ、復讐の劫火が燃え盛る爆心地へ向けて、進むことだけを望んでいる。
「ああ。そのためだけに生きてきた」
「そうかよ」
胸のあたりで渦巻く複雑な感情もろとも吐き出して捨てるような公龍の応答は、アルビスに届くことなく埃っぽいリノリウムの床に落ちて砕ける。差し込んでいた朝陽は雲に隠れ、薄闇が二人のいる場所を蝕んでいった。
「私は《リンドウ・アークス》と戦う。だが、これはお前にとっても他人事ではないはずだ」
やがてアルビスが静かに告げる。
無論その通りだ。おそらく今回の濡れ衣には《リンドウ・アークス》が噛んでいる。それを晴らすことは当然、《リンドウ・アークス》を敵に回してキリノエの死の真実を暴くことに他ならない。
だがアルビスの言葉が含む意味はそれだけに留まらないように思えて、公龍は目を細めた。
「《リンドウ・アークス》がクロエを確保したのは、おそらく〝
「つまり、なんだよ、知り過ぎた奴らを片っ端から排除しようってか」
公龍は冗談めかすように軽く笑ってみせるが、アルビスは頷いただけだった。
「MKOが珍しいのも、奴らにとっていい研究材料なのかもしれねえことも分かる。だけどよ、ここまで大がかりなことしてまで手に入れてえもんなのかよ?」
「手に入れたいんじゃない。正確には取り戻したいんだ」
「あ?」
公龍が思わず訊き返すと、アルビスは胸ポケットから取り出した写真を指で弾いて公龍に向けて飛ばした。足元に滑り込んだそれを拾い上げる。街頭に設置されるカメラ映像の隅に映り込んでいたものを無理矢理拡大して印刷したような粗い写真には、おそらく西洋人と思われるスキンヘッドの男がマスク姿で写っていた。
「男の名前はレナート・ウルノフ。ウルノフは一八年前までロシアの研究機関に属していたが亡命。世界中を転々とした後、日本政府に科学顧問として秘密裡に保護されている。その後すぐ行われた《東都》における医薬特区設立の背景には、少なからずウルノフの影響があると考えるのが自然だ。さらにウルノフは、医薬特区でF計画と呼ばれる研究を主導していた。目的は生体兵器の開発。そして《リンドウ・アークス》による医薬特区の事実上の吸収を経て、F計画はウルノフの身柄ごと《リンドウ》の手中に落ちている。あるいは政府公認で、《リンドウ》が十全なかたちのF計画を引き継いだと言ってもいいだろう」
アルビスの説明に、公龍は困惑する。それが高度に政治的な巨大な陰謀の話であるというだけではない。このタイミングでこの話をするということが示す意味に、公龍は強烈な悪寒を感じていた。
「もしかして、F計画の生体兵器開発の内容がMKOだとか言うつもりじゃねえだろうな?」
「お前にしては察しがいいな。十中八九、クロエはその実験体だ」
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