07/The rusty buddy《3》
薄々分かっていたとはいえ、実際に言葉にされると、それはまるで鈍器で殴られたような衝撃を公龍に与えた。
もちろん公龍も、クロエが何らかの秘密や過去を抱えているだろうことは彼女のなかのMKOが明らかになったときから覚悟していた。だが話があまりにも壮大だ。アルビスの言うことが真実なら、クロエの存在は《東都》の闇そのものと言える。
否定しなければ、と直感的に思った。
これではあまりにもクロエが可哀そうだ。クロエは母親を殺され、声も出すことができない。そしてその小さな身体には《東都》を丸ごと吹き飛ばしかねないような爆弾が植え付けられていて、理不尽に身柄を狙われる。そんな地獄のような運命を背負わされていいはずがなかった。
「じゃあよ、アルビス。クロエが俺たちと出会う前に一緒に暮らしていた母親……
「ああ。なぜあの母娘が廃区にいたのかは不明だ。だがウルノフの主導したF計画は彼の死を理由に頓挫している。そのことと関係があるのかもしれない」
「かもしれない? てきとうなこと抜かしてんじゃねえよ」
公龍はまとわりつく運命に抗うように言葉を並べる。否定するだけの材料はいくらでもある。だが同時に、その虚しさも頭の片隅で理解していた。
「それにクロエはまだ一〇歳そこらのガキだ。
「公龍、少し会わない間に随分と腑抜けたな」
アルビスの冷笑するような声が耳朶を打ち、捲し立てられる公龍の言葉を遮る。行き場を失った言葉は喉の奥のほうで解け、にわかに込められた力が手のなかにあった写真を握り潰す。公龍は舌打ちをし、くしゃくしゃに丸まった写真を床に叩きつけて立ち上がる。公龍の怒気を孕んだ表情に、アルビスは冷ややかな視線を向けていた。
「てめえ、もういっぺん言ってみろよ」
「腑抜けたと言ったんだ」
「思い知らせてやろうか? てめえなんざ、一発でぶちのめしてやるよ」
「今お前がすべきは可能性の否定でも、無意味な力比べでもないことくらい分かっているだろう。クロエを救う。そのためにできる最良の選択をすべきだ。それともこの一ヶ月で本当に平和ボケでもしたのか?」
突き刺さる矢のような辛辣な言葉に、公龍は返す言葉がない。
図星だった。そんなことは自分でも分かっていた。だができることがない。現状目ぼしい手掛かりはなく、全てが後手に回っている。今のままではただ盤上で破滅に向かって翻弄されるだけの駒に過ぎず、指し手の影すら見上げることができない。
何よりいつの間にか全ての中心に立たされているクロエの、そのあまりに数奇で非情な人生を直視することができなかった。
現実はどこまでクロエを、――公龍たちを苦しめれば気が済むのだろう。不条理と理不尽に対する怒りや、あるいは哀しみや悔しさが湧いてきて、胸を引き裂いた。
「俺にどうしろってんだよっ!」
公龍は吼え、アルビスに掴みかかる。アルビスはその手を払い、逆に公龍の胸座を掴み上げた。公龍は押し込まれ、壁に背中を強打。肺から絞られた空気が食いしばった歯の隙間からこぼれた。
「てめえ……っ」
「狼狽えるな。まだ何も終わってはいないはずだ」
真っ直ぐに向けられた薄青の瞳に、自分の姿が写っている。腑抜けていると言われるのも当然だった。絶望に酔ったひどい顔の情けない男――それが今の公龍だった。
その姿は二年前の自分と重なる。
路上で酔い潰れていたあの日、公龍はアルビスと出会うことで立ち直るきっかけを得た。多くの傷を負い、多くの喪失を経験し、それらと比べればささやかな、だが掛け替えのない笑顔を手に入れることができたのだ。
守れるか――ではない。何としても守るのだ。クロエとそう約束したはずだ。
噛みつけ。抗え。飢えた野犬のように、最後の瞬間まで食らいついて離すな。
公龍はアルビスの手を振り解き、両手で自らの頬を強く叩いた。弾けるような音が薄暗い廊下にこだまする。
所詮、全ては虚勢。状況は最悪のまま、敵の強大さは測ることすらできない。だがいつだって虚勢を張って、馬鹿馬鹿しい軽口とともにどんな苦境も乗り越えてきた。
公龍とアルビス――他でもないこの二人で。
「俺は、どうすればいい」
公龍は問う。進むため、あるいは戦うために。
迷いを捨て去った公龍の表情に応えるように、アルビスは口元に微かな笑みを湛えた。
「《リンドウ》がクロエの身柄を確保できているのは、お前が殺人犯であることが理由だ。まずはその濡れ衣を晴らし、クロエを取り戻す。クロエの身柄が確保されていることは、私の目的にとっても都合が悪いからな」
やることは変わらない。だが独りではないという単純な事実が、公龍に計り知れない勇気をもたらしていた。
「だけどどうするつもりだよ? 現場やキリノエの自宅は既にあらかたの証拠は回収されてる。俺の無罪はまるで悪魔の証明だ。真犯人を辿っていく手立てがない」
「実行犯という意味ならば、真犯人はあまり重要ではないだろうな。あるいはいたとして、既に消されている可能性が高い」
アルビスは言って、スーツジャケットの胸ポケットからチェーンを引っ張り出す。先についているのはハート形のペンダントトップ――公龍がキリノエの自宅で拾ってきたものだ。アルビスがハートの中心部分を親指で押すと、ハートが割れて中から端子が露出した。
「おい、それ」
「ああ、お前のポケットに入っていたものだ。ほぼ間違いなくキリノエの私物だろう。どうやらペンダント型の
アルビスが投げ渡したペンダントを受け取る。公龍はそれをポケットに仕舞い直そうかとも思ったが、ただのペンダントでないと分かった以上、念を入れて首から下げておくことにした。
「見られねえんじゃ意味ねえな」
「設備の問題だ。パパスに機材を用意させている」
「随分と準備がいいな」
「お前が寝こけていただけだ」
「怪我人はもっと丁重に労われ」
「労わられたいならばもっと殊勝な態度でいるんだな」
どこか懐かしい、耳障りな軽口。鬱陶しいはずなのに、お互いに思わず笑みがこぼれる。
しかし懐かしく感じるからこそ、それは決定的に変質してしまったものを公龍たちに意識させた。
「なあ、アルビス。言っておくが――」
「分かっている。私とお前はただ敵が同じだっただけ。それ以上でも、以下でもない」
そう。これはもう
単なる利害の一致。お互いが向いている方向も、見ている場所ももう違う。たとえかつての相棒で、あるいは恩人で、家族や兄弟すら超えるような唯一無二の存在だとしても、あの日のノアツリーでの決別をなかったことにはできない。
「分かってんならいい」
吐き出した公龍の声は、自分のものじゃないみたいに掠れていた。
†
公龍たちは夜を待って、廃病院を出発する準備を整えた。
元々セーフハウスとして構えていたものではないらしく、アルビスは丁寧に痕跡を消していた。公龍は乏しい装備であるグロック拳銃と
「そろそろ行くぞ」
いつものスーツ姿にフード付きの外套を着込んだアルビスが公龍に声をかける。公龍は立ち上がって二丁の拳銃を左右の腰後ろに仕舞い、アルビスから渡されていた外套を着こんだ。
アルビスを先頭に、二人はアイコンタクトのみで言葉を交わすことなく病院の裏手へと廊下を進み、救急患者の搬送口から外へと向かう。照明の類はないので、恐ろしいほどに廊下は暗い。予め
公龍たちは研ぎ澄まされた感覚を周囲に巡らせていく。
砕けた窓ガラス。枯れた植木。破れたポスター。病院の外では野犬の遠吠えが聞こえ、窓から入り込む生温い風が外套を揺らして衣擦れの音を鳴らす。風が肌に絡みつき、妙に張り詰めた静寂が周囲を漂う。
公龍がしゃがみ、アルビスが窓の間の壁に張り付いたのとほぼ同時、窓の外で無数のライトが灯った。白光が突き刺すように夜の廃病院を照らし出し、続いて拡声器越しの声が響く。
『九重公龍! いるのは分かっている。元同業としての最後通告だ。抵抗は止めて投降しろ』
響く声には聞き覚えがあった。どこかスカシた雰囲気に、頭ごなしの上から目線。公龍は靴底でガラスの破片を手元に引き寄せ、廃病院の外――ライトの方向の様子を伺う。真新しいシャツのような白のなかに、ぼんやりと浮かぶ壁のように連なった人影を確認する。
声の主は記憶を手繰る限り、おそらく
「おい、アルビス。どうなってんだよ。バレてんじゃねえか」
「私が知るか。奴らの捜査網を褒めろ」
公龍は舌打ち。アルビスは眉間に皺を寄せる。
続いて今度は拡声器を通さずに、がなるような声が聞こえた。
「おい、九重! てめえ何やってんだ! 見損なったぞ! これ以上男下げんじゃねえっ!」
こっちはより分かりやすい。賢政会との戦いにおいて、ずっと行動を共にしていた
どうやら公龍と顔見知りの解薬士を集めて、投降の説得に借り出したらしい。この二人がいるということはそれぞれの相棒であるイ・ハヌルと
「どうすんだよ」
「投降を呼びかけるということは、まず間違いなく包囲されているだろうな」
「冷静に分析してんな、クソスカシ」
公龍は毒づき、それから溜息を吐く。
包囲されているとなれば、選びうる選択肢は一つだ。
アルビスを再び一瞥。二人は立ち上がって両手を挙げ、窓枠に足をかけて外へと出る。そして突き刺さるような白光と警戒心が針の筵さながらにひしめく場所へ、散歩に出かけるような軽い足取りで姿を晒した。
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