05/Twin dragons《1》

「無様だな」


 あまりに不躾で、冷徹で、傲慢な声が降りかかり、廃区の崩れかけた家屋の壁を背に眠りこけていた公龍はゆっくりと顔を上げる。

 見えたのは長い銀髪を冷たい風に靡かせる男。上背は公龍よりも少し高く、鍛えられた身体は銀灰色のスーツの上からでも引き締まっていると分かる。顔立ちからして純日本人ではなさそうだ。もちろん今の東京――《東都》では別に珍しいものでもない。


「誰だ、てめえ」


 公龍は酒で焼けた喉を震わせる。ひどく嗄れた声が出る。痩せた野犬のように荒んだ双眸が、銀髪の男を睨みつける。

 近づくものは全てが敵だった。

 新開発していた特攻止血剤〝チートマル〟の薬害事故が起き、全ての罪を被ることになった公龍は《リンドウ・アークス》を去ることになった。事故に巻き込まれた妻・桜華はお腹の子供を流産。夫婦関係もうまくいかなくなって、公龍は逃げ出すように別れを告げた。

 何かをしたわけじゃない。だが一度狂い始めた歯車は瞬く間に歪み、弾け飛ぶように壊れ、公龍が手にするはずだった未来の全てを粉々に破壊した。

 そこから先は典型的な転落だった。現実から目を背けるように、昼夜を問わず浴びるほどの酒を飲み、眠るために大して効きもしない睡眠薬を胃の中に流し込んだ。酔えば本能のままに夜の街を歩き、路地裏に連れ込んだ娼婦を犯し、目が合ったという理由だけで喧嘩を始めた。拳が砕け、歯が折れようとも構わなかった。いつしか枯れた涙の代わりに血を流し、千切れてしまった愛の矛先を探すように衝動に身を任せた。

 それはもう、見るも無残な醜態だったに違いない。だが他にどうすればいいのか分からなかった。いや、きっと立ち直るために前を向くこともできたのだろう。しかし公龍は一番楽な道を安易に選び、そして《東都》に巣食う廃区の掃き溜めへと落ちていった。


「無様だと言ったんだ、九重公龍」


 銀髪の男は公龍を見下し、もう一度言った。公龍は緩慢な動きで立ち上がる。手には粗悪な合成酒が入った瓶が握られていた。


「てめえ、分かってんのに誰に口利いてんだ?」


 公龍は銀髪の男に唾を吐くように言うと、持っていた合成酒を頭の上からぶちまける。アイロンの掛けられたスーツやシャツがあっという間に酒で汚れ、銀色の髪からは黄ばんだ液体が滴った。挑発的に口元を歪め、男の薄青の瞳を覗き込む。


「綺麗なおべべが汚れちまったな。ここで、ンなもん着てっからだぜ? てめえみたいなスカシた野郎にはこの俺が廃区の流儀を教――」


 言い終えるより先に、公龍の腹を衝撃が突いた。公龍は背後の壁に激突。壁は崩れ、公龍は瓦礫を巻き込んで倒れ込む。路上で酒盛りをしていた奴らは悲鳴を上げて逃げ出し、ゴミを漁りにやって来ていたカラスは慌てて飛んでいく。鈍い痛みを発する腹を擦りながら、公龍は身体を起こした。


「潰す」


 公龍は身体についた砂礫と埃を払い、銀髪の男に向けて飛びかかる。即座に反応して腰を落とした男は掴みかかる公龍の右手側へと回り込むや、鞭のように撓らせた打撃を放つ。掌打が公龍の頬を直撃。公龍はたたらを踏みながらも倒れるのを堪え、口のなかに広がった血を吐き捨てる。


「エセ拳法使いか? てめえ」


 公龍はでたらめに両拳を顔の前で構える。銀髪の男は挑発するように甲を向けた右手で手招きをした。


「上等だコラァッ!」


 公龍は吼え、男との間合いを無造作に詰めていく。大振りした拳は難なく躱され、カウンターの肘打ちが鼻っ柱に叩き込まれる。鼻血が噴き出す。公龍は血塗れになった顔で獰猛に笑った。

 どうやらこの銀髪の男、ただの拳法家というわけでも、もちろん多少腕のあるそのへんの破落戸というわけでもなさそうだ。まだ数手交錯しただけだが、それでもかなり専門性の高い戦闘訓練を受けていることが動作から伺える。

 相手にとって不足はない。いや十分なお釣りがくるほどだろう。だがここは道場でも戦場でもないただの道端ストリート。そういう喧嘩の場数なら、公龍とて負けてはいない。

 公龍はさっきまで握っていた酒瓶を手に取る。ボトルネックを掴み、床へ振り下ろす。鋭利に砕けた瓶はそれだけで十分な凶器になる。


「俺に喧嘩を売ったこと、後悔させてやるよ」

「御託はいい。かかってこい」


 二人は同時に踏み込んだ。銀髪の男は公龍が繰り出した瓶の刺突を掻い潜り、手首を掴んで手刀を振り上げる。鋭く手を穿たれた公龍は呆気なく瓶を手放す。しかし既に逆の拳を握り、男の顔面へ向けて放っている。だがこれすらも銀髪の男が掌打で打ち据えて軌道を逸らす。体勢を崩されながらも、公龍は蹴りを見舞った。蹴りは銀髪の男のボディへと吸い込まれるが、折り畳まれた腕が寸前で割り込んで防がれてしまう。

 公龍は片足で飛び跳ねながら体勢を元に戻す。しかし間髪入れずに繰り出された正面からの掌打が額を打ち据える。今度こそ完全にバランスを逸し、倒れた公龍は地面に背中を擦った。


「どうした? 威勢だけか?」

「調子乗んなよ? てめえなんざ、すぐぶっ潰してやるよ」

「弱い犬ほどよく吼える」

「一丁前にことわざ使ってんじゃねえよッ!」


 公龍は背筋の力で跳ね起き、即座に銀髪の男へと突っ込む。しかし寸前で急停止。地面の砂を思い切り蹴り上げる。

 姑息な目晦まし。だがストリートの喧嘩では常套手段。銀髪の男は咄嗟に顔の前で腕を交差させて砂を防ぐ。だがそれは視界を制限するだけの愚策だ。


「うおらぁッ!」


 公龍は即座に腰を落とし、全身のバネを使った渾身のタックルを繰り出す。銀髪の男の腰に組み付いた公龍は、勢いそのままに銀髪の男もろとも放置されていた廃材の山に激突。力任せに男を押し倒す。廃材が薙ぎ倒され、二人の上に圧し掛かった。公龍は即座に組み敷いた腕を解き、背中の廃材を払いのけ、マウントを取った銀髪の男へ向けて鋭い拳を振り下ろす。

 骨の砕ける鈍い音。無論、銀髪の男もされるがままというわけではない。交差した腕で打撃を防御しつつ、隙を突いて公龍の腕を取る。公龍は体勢を崩されて地面を転がり、捻られた肘関節は容易く外れる。公龍は激痛を押して銀髪の男の肩を踏み抜き拘束を振り解く。すぐに立ち上がるや、外れた肘を強引に嵌める。既に銀髪の男も立ち上がっていて、折れた鼻を指で押して無理矢理に元へと戻していた。


「どうしたよ、もう終わりかよ」


 公龍は赤い唾を吐き出しながら銀髪の男に血走った双眸を向ける。対する銀髪の男は端整な顔を染める血をジャケットの袖で荒々しく拭う。


「思った以上だ。探しただけの甲斐はあった」

「あ? 何言ってやがんだ」


 公龍は拳を構えたままガンを飛ばす。銀髪の男は構えもせずに乱れた襟を正しているが、薄青の瞳は油断なく公龍へと向けられており、踏み込めるだけの隙は見当たらなかった。


「九重公龍。貴様に選ばせてやる。私とともに来るか、それともこのままこの掃き溜めで落ちぶれるか」

「意味分かんねえな」

「理解して感謝しろ。今の貴様が送るこの意味のない時間と振るう意味のない暴力に、意味と道筋を与えてやると言っているんだ」

「喧嘩売ってきたかと思えば、次は説教か? てめえは何様だッ!」


 公龍は地面を蹴って拳を振るう。銀髪の男は後ろへの重心移動でそれを躱し、カウンターの掌打を見舞う。無駄のない洗練された動作から放たれる一撃は公龍の胸を強打。衝撃が胸を貫くが、公龍は歯を食いしばり、膝に力を込めて踏み止まる。口腔に込み上げた血を、奥歯で噛み潰す。


「舐めてんじゃねえぞコラァッ!」


 公龍は銀髪の男の腕を掴み、前蹴りを放つ。腹を踏み抜かれた銀髪の男の体躯はくの字に折れて吹き飛び、公龍が最初に沈んだ瓦礫の山へと突っ込む。しかし公龍もまた反動に耐えきれずバランスを崩し、背中から地面に倒れ込んだ。


「はぁっ、はぁっ……」


 公龍は不規則な呼吸を整えながら起き上がろうとする。しかしついさっき穿たれた胸に鋭い激痛が走り、根性で押し留めていた血が喉を逆流。公龍は四つん這いになって嗚咽を漏らし、血と胃液と酒の混ざった液体を吐き出した。

 瓦礫の山を崩しながら銀髪の男が立ち上がる。澄ました表情は微かに歪んでいるので全く効いていないというわけではなさそうだが、ここまででどちらが優勢かは一目瞭然だった。


「くそっ……」

「何に苛立っている?」


 四つん這いのまま反吐を吐く公龍に男が問いかける。もちろん答えてやる義理も、悔しいが余裕もない。公龍は反吐を吐く合間、貪るように酸素を吸った。饐えた臭いと味がして、それがまた吐き気を助長した。


「いくら威勢を吐き、喧嘩で相手を打ちのめそうと、貴様が無力であることは変わらない。変わりたいならば、その胸に刺さった無力感の楔の根源を圧し折るんだ。そうしなければ貴様はどこにも行けはしない」

「だからうっせえな!」


 公龍は吼え、なんとか立ち上がる。息が上手くできないせいで全身が小刻みに痙攣していた。目の前に捉えているはずの銀髪の男の姿は二重に霞み、遠近感はうまく捉えられなかった。

 無性に苛立つのはいつものことだ。だが普段の苛立ちに輪をかけて、この男は妙に腹立たしかった。そしてその理由がようやく分かったような気がした。

 この見透かしたような顔だ。薄青の瞳に宿る強い意志と、そこに映り込む自らの情けなさとがあまりに対照的で、公龍は腹立たしくて仕方がないのだ。


「黙ってりゃ、べらべらべらべらと御託並べやがって……っ。ぜってえ、潰す」


 公龍は地面を蹴って距離を詰める。しかし脚に力が入らずによろめき、そのまま地面に膝をつく。

 度重なる喧嘩と不摂生がもたらした疲労感。少しずつ狂い始めた肉体の歯車は、脳から放出されるアドレナリンであっても誤魔化すことができなくなっているらしかった。

 銀髪の男が公龍の眼前に立つ。薄青の瞳は相変わらず真っ直ぐに、不甲斐ない公龍のやつれた姿を映している。


「私はアルビス・アーベント。貴様をずっと探していた」


 アルビス・アーベントと名乗った銀髪の男が差し出したのは、拳ではなく掌。だが寸刻まで殴り合っていた相手だ。差し出された手をにわかに握ることは当然のように躊躇われた。


「何のために……?」

「決まっている。この《東都》に、医薬至上社会に蔓延る矛盾を摘む。……合法的に過剰摂取者アディクトを殺せる、と言えば分かりやすいっだろう」


 アルビスは言って口元を歪めた。

 訊いたことがあった。医薬至上社会が生み出した矛盾点――強力な薬の副作用やその誘惑に耐えることのできなかった人間の末路。過剰摂取者アディクトと呼ばれるその落伍者たちを、始末する生業があると。

 たしか、そう、解薬士げやくし過剰摂取者アディクトたちに対抗し、超常の薬を用いて戦う民間の治安維持業者だ。

 悪くない――。公龍はそう思った。

 どうせ後は擦り切れていくだけの命だ。ならば自分の人生をめちゃくちゃにし、最愛の人を傷つけたクソどもを八つ裂きにする日々で燃え尽きるのも悪くない。

 口車に乗せられるようで腹立たしさはある。だがそれ以上に、これまで胸の片隅で燻ぶっていた何かが燃える勢いを増していくのをにわかに感じることができた。


「けっ、何を言い出すかと思えば、ンなことかよ」

「九重公龍。踏みつけられたなら噛みつけ。世界は残酷だ。そうしなければ粉々になる。私とともに来い。それが、貴様に与えられたただ一つの選択肢だ」


   †


 これが九重公龍とアルビス・アーベント――二人の出会い。

 やがて《東都》に名を馳せることになる二人の解薬士の物語は、場末の路傍で交わった拳から始まったのだ。

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