06/The chase & crash《2》

 止まったエスカレーターを駆け下りて吹き抜けのホールへ。中央に鎮座するグランドピアノの前で、とうとうアルビスの手を振り解いたスサーナが座り込む。


「もう、無理よ……走れないわ」


 スサーナが息も絶え絶えにそう言って、腫れ上がった右の足首を擦る。逃げる最中、どこかで足を捻ったらしい。


「痛いの。これ以上は、無理……」

「ならば死ぬか?」


 アルビスの冷たく響く言葉にスサーナが嫌悪を浮かべる。


「私たちが貴女を保護するのは、貴女がある事件の重要なカギを握っていると推測しているからだ。だが、当の本人に生きる気がなければ助けることはできない」


 アルビスも既に満身創痍だった。昼間からの度重なる戦闘に、相棒である公龍の喪失。アリストクラタ・ホテルに来てからも、強酸による溶解と鉄灰色アイアングレーのアンプルによる強引な再生でケロイドと化した左腕は使い物にならず、決して少なくないダメージを負っている。表情だけは普段通りに保っているのは、たゆまぬ訓練を積み、元から感情の起伏が少ないアルビスだからこそだった。


「不条理な死と異なり、生は選択だ。誰しもが平等に、生きることを望むことはできる。もし貴女がそれさえ放棄するというなら、もはや私に為す術はない」


 真正面から振りかざされる正論に、スサーナは言い返す言葉を持たない。だが言葉に詰まるスサーナの判断を悠長に待っているだけの余裕は、今はない。


「立て、盛永スサーナ」

「……守るって、私を守るって言ったくせに」

「守られる気があればの話だ」

「…………クソ食らえだわ、まったく」


 スサーナがアルビスをキッと睨み、ふらふらと立ち上がる。アルビスはスサーナの肩を支える。


「いいわね、死んでも守りなさいよ。絶対よ、絶対!」

「さっきも言った通りだ。先を急ぐぞ」

「うるさいわね、命令しないで」


 スサーナが不機嫌に吐き捨てる。瞬間、アルビスはスサーナを抱え、グランドピアノの下へと滑り込む。

 一瞬遅れて降り注いだ強酸が床とグランドピアノを瞬く間に溶かしていく。覆いかぶさるアルビスの頬を、スサーナの荒い息が撫でる。脚が溶け、ピアノが音を立てて傾いた。


「ち、近いわ……」

「私が飛び出したら逆方向へ走れ」

「な、何を」


 スサーナの返事を待たず、アルビスは低い体勢から加速。醸される殺気でメルティ=フレンドリィの位置を感じ取る。

 見上げた視線の先――二階層上の柱に張り付く、トカゲの怪物。引き千切られたノズルの先から体内で生成され続けている強酸が滴る。


「「オトモダチッ! オトモダチッ!」」


 叫びながら強酸を発射。ノズルが千切れているせいで矢のような精密狙撃ではなく、水の入ったバケツの中身を引っくり返すような雑な放射。

 アルビスは強酸の射程と範囲を瞬時に計算。視界の隅では駆け出したスサーナの姿を捉えつつ、機敏な動作で掻い潜りながらエスカレーターを駆け上る。


「「イーヒヒッ! オトモダチッ! イーヒヒッ!」」


 アルビスは強酸を躱し、ハンドレールを足場に跳躍。続いて壁を蹴りつけてこちらを見下ろすメルティとの間を詰める。


「「――オトモダチッ!」」


 当然メルティも応戦。真正面から無防備に跳んでくるアルビスに向けて、不可避の強酸を放射する。


「恐るべき能力だが、貴様のそれはただの慢心だ」


 アルビスは既に読んでいた攻撃に即座の反応――ジャケットを脱いで自らの進行方向へと投げる。広がったジャケットが互いの視線を遮り、吐き出された強酸を受け止める。アルビスはジャケットもろともた拳を鋭く突き上げる。

 鈍い音と手応え。だがメルティは間一髪で後方へ飛び退き、致命的な衝撃を減衰している。

 自由落下を始めたアルビスにメルティが強酸を吐きつける――刹那、横から殴打するように飛来した銃弾がメルティの左半身を次々と貫く。

 アルビスは着地。二階に見える、白煙を吐いた拳銃を構える二つの影。


「ここはわたしたちに任せて、アーベントさんは先へ」

「解毒屋に借りなんざ作れねえんだよ!」


 澪と中年刑事・小田嶋の、決死の覚悟。そのほかにも応援に駆け付けた警視庁特殊急襲部隊――通称SATの面々がメルティに対峙する。

 たとえ力を失いつつあるとしても、解薬士に治安維持の片棒を譲ったとしても、自分たちこそが平和の砦であるという自負。あるいは市民を守るという、決して消えぬ矜持のあらわれ。


「恩に着る」


 アルビスは踵を返す。瞬く間にスサーナへと追いつき、とうとうエントランスホールへ到達。


「車に乗れ!」

「乱暴にしないでっ!」


 腕時計端末コミュレットの遠隔操作でエントランス前につけたアルビスの車の扉が開く。スサーナを後部座席へと押し込み、アルビス自身もボンネット上を滑り、運転席へと乗り込んだ。

 指紋認証でロックを解除。アクセルを踏む。エンジンが嘶いて急加速。スサーナは吹き飛び、座席の背もたれに身体を押し付けられながら悲鳴を上げる。

 アルビスは通りの流れを強引に断ち切るように通りへ。危険を察知して急停止した車がけたたましいクラクションを鳴らす。ホテルで響く銃声は遠退き、車内に束の間の平穏がもたらされ、小気味のいい雨の音が二人を包むよう。


「やった……やったのね! 私、助かったのね!」


 遅れて理解がようやく状況に追いついたスサーナが手を叩く。だがアルビスの表情は険しく、視線はバックミラー越しに背後へと向けられる。

 法定速度を優に超える速度で疾走するアルビスの車に、着かず離れずの猛追を見せる一台の大型二輪。跨るのはモンスターマシンに不釣り合いな、白髪に白皙の容貌をした、雰囲気だけは嫋やかな女――ジェリー=ハニー。

 やはりそう簡単に逃がしてはくれはしない。


「追ってきてる! どうするのよっ!」


 気づいたスサーナが喚く。アルビスは黙ってさらにアクセルを踏む。


「ちょっとっ! なんか構えてるっ! 撃ってく――きゃぁっ」


 後方で轟く銃声。ジェリーが片手で構えたショットガンが造作もなく放たれ、リアガラスに着弾。防弾の強化ガラスに無数の亀裂が刻まれる。


「もっとスピード上げなさいよっ! 追いつかれるわっ!」

「静かにしろ。これが全速だ」

なんてことGosh……」


 スサーナが額を抑えて座席に沈む。

 間もなく次弾の装填を終えたジェリーが車上からアルビスたちを狙う。今度は発砲の衝撃で大きく逸れた散弾はアルビスが追い抜いた車を直撃。運転手が絶命して制御を失った車は縁石を乗り越え、反対車線へ。運悪く走ってきた車の横っ腹に追突し、立ち往生――玉突き事故が誘発される。

 降り注ぐ雨を揮発させて立ち昇る炎と黒煙を背に、アルビスたちは速度を緩めることなく走り続ける。炎を切り裂いて、白い悪魔を乗せたモンスターマシンが躍り出る。

 昼間とは打って変わっての派手な立ち回り。それはまさに、この事件におけるスサーナの重要性が高いかを表している。

 ジェリーの大型二輪がさらに加速。じりじりとアルビスたちとの距離を詰め始める。

 だがスサーナを渡すわけにはいかない。今は眠る公龍の思いに応えるためにも、ジェリーらの背後に広がる医薬特区の闇を暴く必要があるのだ。

 後方に注意を払いつつ、前を向いたアルビスの視界を掠める大きな影。左側から跳躍した何かがアルビスたちの上に着地する。


「今度は何よっ!」


 スサーナが座席の上で縮こまっている。やはり生身の人間では、いくら組織的に訓練されたSATであっても――奴を止めることはできなかったらしい。

 天井が強酸に解かされる。本来であれば対戦車ライフルさえ貫通を防ぐ車体装甲が脆くなり、強靭な腕力によって剥がされる。頭上に空いた穴に向け、アルビスは警官の死体から拝借してきた拳銃を向ける。


「「オトモダ――」」


 狂気の声を掻き消す銃声。発射された弾丸は額を穿ち、メルティの身体を仰け反らせたが、頭蓋を貫通するには至らない。額に埋まった銃弾をほじくり出したメルティは今度こそ、と、両頬の唇を歪めて笑う。


「いやぁぁぁっ!」

「掴まれっ!」


 アルビスは右腕一本で急激にハンドルを切る。車はアスファルトに黒いタイヤ痕を刻みつけながら車が回転。わざと縁石に躓かせ、車体が浮き上がる。勢いそのままに反転した車は天井にメルティを貼り付けたまま墜落。もう一度大きく跳ねて元の状態へ。さすがの衝撃に四肢の吸着が剥がれたメルティが、遠心力に弾かれてビル壁に撃突。

 空転するタイヤが地面を噛んで、アルビスの車が再び加速する。

 しかし今の一瞬で、モンスターマシンを駆るジェリーが間を詰めるには十分だった。その距離僅か、三メートル。再び構えられたショットガンが二連の銃口を覗かせる。


「スサーナ! 伏せろ!」


 あまりに荒い運転に平衡感覚を失っているスサーナは、なんとかアルビスの指示に反応。ほとんど座席からずり落ちるように、ショットガンの射線から身を隠す。

 刹那、撃発。

 リアガラスが砕け散り、散弾のいくつかが車内を蹂躙。アルビスも背もたれで直撃を防ぐも、車内システムが破壊される。自動運転オートドライビングとナビゲーションは完全に沈黙。警告画面アラートがエンジン機能の低下を訴えた。

 アルビスは背もたれを盾にしたまま拳銃で応戦。狙いはショットガンを握る右手首。

 果たして銃弾は見事にジェリーの右手首を貫く。一時的であれ千切れた右手首が取り落したショットガンは、アスファルトに虚しい音を立てて背後の彼方へと消えていく。ジェリーは僅かに減速し、彼我の距離が一〇メートルほどにまで開く。

 アルビスは間髪入れず、ジェリー本体へ牽制を加えようと引き金を引く。しかし弾切れホールドアップ。珍しく舌打ちをし、感情を露わにして拳銃を道路へと捨てる。


「「オトモダチッ! オトモダチッ!」」


 追い縋る不愉快な声。見るまでもなく、先の激突をものともせずに立ち上がったメルティが垂直に反り建つビルを足場にしながら四つん這いで疾走してくる。


「いやぁっ! 何がどうなってるのよっ!」


 座席の足元ではスサーナが頭を抱えて蹲りながら叫んでいる。ジェリーはすぐ目の前に目的のものがあることを理解し、白濁した双眸をより一層ぎらつかせた。

 アルビスはハンドルを切って噴き掛けられた強酸を躱す。地面に当たって飛散した強酸がタイヤへ付着。不運にもボルトを溶かし、左後輪が外れる。

 がくんと傾いた車体に衝撃。アルビスは廃車覚悟でアクセルを踏み続け、強引に速度を保つ。地面を削り、火花を散らしながら付近のモールに併設された立体駐車場へ。

 ジェリーは自ら袋小路へと飛び込んだアルビスをほくそ笑みながら追随してくる。メルティも変わらぬ声を上げながら、ビル壁から飛び降り、路上駐車の車を足蹴にして立体駐車場へと飛び込む。

 ここで迎え撃つ。

 いずれにせよ、これ以上の走行は限界だ。ならばアルビスに取れる選択肢は逃走を止め、どれほど分が悪くとも正面切って戦うことだけである。そしてこの第二区には廃区が存在しない以上、都市部のなかで人的被害を回避できそうな場所を、戦場として選ぶほかない――


「――とでも思っているなら、浅いな」


 アルビスは状況に相応しくない余裕と不遜さで、言い放つ。

 そしてその言葉を合図にしていたかのように、彼方より一条の軌跡を引いて弾丸が飛来した。

 狭い立体駐車場内の走行と獲物を追い詰めたという油断から、ほんの少しだけ減速していたジェリーの大型二輪の、エンジンを貫く一閃。モンスターマシンに炎が灯り、次に瞬間には跨るジェリーもろとも爆発。


「「オトモダチッ! イーヒヒッ!」」


 仲間が爆炎に呑まれたのを目の当たりにするや、壁伝いに立体駐車場へと入ってきたメルティが四つ足で疾走。距離を置いて停車したアルビスたちの車目がけて強酸を吐きつけようと、予備動作で上体を反らす。


「――昼間の借りだ、トカゲ野郎!」


 完全にメルティの死角――柱の陰から飛び出した影が両手で握った特殊警棒を振り下ろす。メルティの無防備な背を容赦なく打ち据え、先端の高振動ギミックが内臓をシェイク。衝撃はメルティの身体を貫いて、その下の地面に罅を走らせた。

 その人影がアルビスを振り返り、腕時計端末コミュレットからは指向性音声の通信が入る。


「随分と遅かったじゃねえか。待ちくたびれて寝るとこだったぞ」

『……計算、かんぺき。べりーくーるな一撃だったしょ』


 そう、アルビスはやむを得ずにこの立体駐車場へと逃げ込んだわけではない。むしろその逆――ジェリーとメルティは追っているつもりでありながら、アルビスによって組み立てられたレールを走り、この立体駐車場まで誘導されたに過ぎない。

 アリストクラタ・ホテルの一室で停電に見舞われたあの瞬間から、アルビスは既に援護を呼び、待機場所を指示し、完全に敵の不意を突くタイミングでそのカードを切ってみせた。

 お前たちは狩る側ではなく狩られる側なのだと、異形の怪物たちに突き付けるために。

 アルビスは車から降り、偉そうにカッコつけている二人に向けて同時に言う。


「そういうのは無事この場を生き延びてからにしておけ」

「かーっ、本当に噂通りの堅物だ。真面目な顔でこんなバケモンどもとやり合えるかってんだ」

『……否定ナイ。ユーモアだいじ。褒めるの、もっとだいじ』


 アルビスは自らに鉄灰色アイアングレーのアンプルを投与。既にボロボロに傷ついた肉体が急速に治癒を始めていく。パキリと、握った掌が音を鳴らす。


「さて、少し遅れたが状況は整った。銀、花。――反撃を始めるぞ」

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