04/Fall in the rain《1》
「……宅間の身柄を追っていた?」
「ああ。もっと正確に言えば、宅間喜市の身柄とそいつが持ってるファイルの確保。それが俺らに言い渡された依頼だった」
「貴様らの襲撃の理由、言っていた横取りとは、宅間を解薬した私たちがそのファイルを持っていると勘違いしたということか」
「ああ、その通りだよ。破格の依頼だったんだ。もちろん胡散臭い感じはしたんだがよ、うちは弱小事務所だからな。背に腹は代えられなかったんだ。それが、……畜生っ、まさかこんなことになるなんてよっ」
アルビスが《東都》内にいくつか保有するセーフハウスの一つ。地下迷路街の一角にある埃っぽい部屋のなかで、椅子に浅く腰かけた銀が舌打ちをする。
部屋には血と汗の匂いが広がる。死線を潜り抜けたことに対する安堵はなく、敗北したという重く濃密な空気が淀んでいた。
アルビスの自宅と同じく、部屋の中には最低限の家具しか置かれていない。机と椅子が部屋の真ん中に置かれ、照明は裸電球が一つぶら下がるだけ。奥の戸棚に応急手当の道具くらいは揃えているが、ある程度は保存の効く
元々地下迷路街のセーフハウスは使用の優先度が低い。ここに逃げ込まなければならなくなるということが、事態の悪さを物語っている。
硬質で殺風景な室内で唯一安らげそうなベッドには今、青血障害の発作が落ち着いた花が眠っていた。
「ファイルか……。医薬特区絡みか?」
「さあな。もし俺たちがそのファイルを入手したとして、中は絶対に見るなってのが
「誰の依頼だ?」
「残念ながら顔も名前も知らねえ。やり取りは常にチャットだった。最初に依頼を持ち掛けられたときと前金を受け取ったときは直で会ってるが、どっちも顔も声も分からねえ別々の代理人と会っただけなんだ。言っただろ、きな臭い依頼だったって」
銀が肩を竦める。懐から取り出した煙草に火を点け、溜息とともに煙を吐き出す。
警視庁傘下であるウロボロス解薬士事務所と異なり、解薬士の互助組織である《
そうした様々な理由から、
アルビスは壁に寄り掛かりながら、思考に沈む。
医薬特区の立役者の一人である宅間喜市の行方不明と
その宅間と彼が持つらしい謎のファイルを確保するよう、何者かから依頼を受けた解薬士である女部田銀と犬飼花。
アルビスたちによって処分された宅間の肝臓に刻まれていた〝私はあなたの全てを知っている〟という挑発的なメッセージ。
加えて、宅間の遺体に見られる通常ではあり得ない遺伝子変異の痕跡。――浮上する〝
そしてそれを裏付けるかのように現れ、アルビスと公龍に襲い掛かったメルティ=フレンドリィとジェリー=ハニーなる二人の改造人間。
謎だけが野放図に巨大で、手にする断片だけでは真実の全貌は測り知れない。
だが依然として朧げではあるが、おおよそ見えてきたものもある。
この混沌の中心に存在するのは、宅間が保有し、現在では在処の分からない謎のファイル。おそらく肝臓に刻まれたメッセージが指す〝すべて〟の内容も、このファイルに関わるものだろう。
そしてこのファイルを巡り、少なくとも二つの勢力が相対している。
一つは医薬特区について何かを握る勢力。これは医薬特区自体を主導した政府か、あるいはこれに深く関わっていた加盟企業か、あるいはそのどちらもか、といったところだろう。
もう一つは宅間の肝臓にメッセージを刻み、対抗勢力へと挑発を仕掛けた側。遺伝子変異を方向付けたり、肉体そのものを規格外に改造してみせる技術が特定の個人にのみ成しうる御業と考える場合、この挑発を仕掛けた側にはメルティとジェリーという二人の改造人間が属することになる。
だが矛盾が一つ。
メッセージの内容を素直に受け取るならば、既にこちらはファイルの内容を手に入れていると考えるべきだが、それではメルティたちの襲撃が説明できない。おそらく奴らの襲撃もまた、銀たちの勘違いと同様に、アルビスたちがファイルを手に入れたという勘違いのもとで起きたと考えるのが最も自然だった。
ならばあのメッセージはブラフ。少なくともメルティたちの勢力はまだファイルを手に入れてはいない。あのメッセージ自体が、相手を挑発し、何らかの対処を講じるべく動かすためのものだとすれば理解はそう難しくない。
「畜生っ、俺たちは口封じってわけかよっ」
おそらくはアルビスと同じような推測に達したのだろう。銀が短くなった煙草を握り潰し、奥歯を噛み締める。
ここまでの推測でいけば、ファイルの入手を目論むという共通点によって銀たちとメルティらは同じ側に属すると考えられる。
だがメルティたちの奇襲は銀たちをも殺そうという腹積もりのものであり、決して窮地の同胞を救うためのものではなかった。
「単なる口封じか。あるいは、勢力間での手柄争いか」
警視庁の傘下にあるウロボロス解薬士事務所とは異なり、銀と花は
「どっちにしろ、あんなバケモノ相手じゃオッズが不利すぎんだろ……」
銀は深く溜息を吐き、肩を落とす。吸っていないと落ち着かないとでも言いたげに、二本目の煙草へと火を点ける。
件の粟国桜華事件はアルビスと公龍だったからこそ〝
だが銀が視線を向ける先には静かに眠っている少女の寝顔。どうやらこの状況下にあっても、銀が憂うのは自分の身の安全ではなく、花の体調のことらしい。
彼らにどんなバックグラウンドがあり、この無数の思惑と狂気が錯綜する《東都》で解薬士になったのか、アルビスには知る由もなかったが、銀の花を大切に思っている気持ちは理解できた。それこそそれは呪いのように。
「あるいはこう考えることもできるだろう。ファイルを手に入れて何かをしたい勢力と、それを抹消したい勢力。どちらかがメルティらを私たちに嗾け、貴様はもう一方に雇われて動いていた」
「だがどっちにしたって、これがヤバいヤマなのは違いねえ。つまり全部が片付きゃ俺と花は用済み。むしろどこかの誰かにとって好ましくねえことを知っちまった分、消しとくって選択肢が無難になる」
銀は空いた手で頭を抱える。まだ何一つとして推測の域を出ないこの状況であっても、もはや取り返しのつかないところまで踏み込んでいる。ここから先を生き残ることができるのは強者だけであり、解薬士としても戦士としても二流の銀には、為す術がない。
せめて花だけでも助かる手段を、と頭を捻っているようだが、それこそ不可能な話だ。
震災期の感染症の副次病症でもある青血障害は第一分類の特定疾患。これは復興支援機構の補助が優先的に受けられることを意味するが、反面、《東都》から出ることができないという大きな制約を課せられる。
つまり今回の件で、どれほど頭と身体がイカれた連中に目をつけられようとも、花は《東都》から出ることはできない。つまりもし敵が本気で口封じを目論むならば、狭い都市のなかで見つかるまで追い回され、惨い死を遂げるまで命を狙われ続けるのだ。
銀一人ならば、ほとぼりが冷めるまで逃げ出すことはできるだが、それをするつもりが銀にないことは火を見るよりも明らかだ。
とすれば銀が現状でできる最善の選択は一つしかない。
「おい、アルビス」
「断る。メリットがない」
「おい、俺はまだ何も言ってねえぞ」
「顔を見ていれば分かる。用済みだと消されないだけありがたく思え」
アルビスは銀を突き離す。冷徹となじられようと、酷薄と蔑まれようと、アルビスの行動基準は明確で合理的だ。ここで銀と手を結ぶメリットは限りなくゼロに近い。
「まだ、情報は全部じゃねえ、と言ったら?」
銀は苦し紛れに吐き出す。無論これはブラフだ。銀にそんな細やかで狡猾な芸当はできるわけがないことは想像できたし、解薬士相手にその交渉が無意味であることを他でもない解薬士の端くれである銀が知らないはずがない。
だがアルビスのどの読みも、結果としては外れていた。
「違う。確かに今知ってることは全部話した。それは花を助ける協力をしてもらった報酬だからな。だがこれから得る情報まで、タダでお前にくれてやるほど、俺はァ、親切でもお人好しでもねえ」
ハッタリではないようだった。そしてこの八方塞がりの危機的状況下で、あえてさらに前へと進む選択をしようとしているらしい。
「……貴様、案外面白いな。当ては?」
「
「命を懸ける覚悟はあるか?」
「ったりめえだ。俺の命なんざ、いくらでも懸けてやるよ。それで花が守れるなら安いもんだ」
「いいだろう。だが言っておく。私と公龍の目的はあくまで事態を暴き、収束させること。共闘はするが、貴様らを守るためにこちらで犠牲を払うような真似はしない」
「そこまで甘えるつもりはねえよ。こっちだって、伊達にてめえらより長いキャリア積んでねえんだ」
銀が煙草を握り潰し、拳をアルビスへと掲げる。拳と拳を打ち合わせる、ギャング流の挨拶。決して裏切らないことを示す、友好の証だ。
「品のない奴だ」
アルビスは銀に応じるように拳を突き出した。
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