03/Triangular struggle《2》
「作為的だな」
アルビスは解剖所見に目を通し終え、そう言った。
「まず宅間喜市の遺伝子変異。ミス・ミドウが不審に思っていた点は正鵠を射ているだろう。警視庁は、予想よりも遥かに大きなものを相手にすることになるかもしれないな。武器さながらの四肢の硬化は、何者かに操作された結果だろう」
「でも待って。
「心当たりがあんだよ、俺らには」
割って入ったのは公龍。その声に軽薄な雰囲気はなく、いつにない真剣みを帯びている。
「……アイアンスキナー、ですか」
察した澪がその名を口にし、公龍は頷く。
殺し屋としての呼称の通り、鋼鉄の皮膚を有していたアイアンスキナーは一粒の錠剤によって異形へと変貌した。無数の触腕を操る怪物との激闘は、たとえどれほどの時を経ようとも、脳裏に焼き付き、決して色あせることはない。
「粟国桜華事件で戦ったっていう殺し屋ねぇ……」
「そうだ。奴は何らかの薬で鋼の皮膚を維持しているようだった。さらに何か特殊な錠剤を使い、肉体を大きく変貌させた。さらに奴の相方の女は全身から神経毒の体液を発散する能力の持ち主だった」
「なるほど……。皮膚の硬化と毒。今回と類似点もあるってことねぇ」
納得する水鳥の傍で、公龍がギリと奥歯を噛む。
いくら平気なふりをしていても、理性では清算したつもりになっていても。まだ本当の意味で全てが終わったわけではなかったことを、突き付けられている。
アイアンスキナーとキティ・ザ・スウェッティは桜華に雇われた殺し屋である。だが桜華は元々、真っ当に日の当たる場所で生きていた人間だ。公龍との間にできた子供が流産し、本人も後遺症を患ったことで幸福を失ったとは言え、それはあくまであの凶行に至る動機を説明するだけだ。
つまりあの凶行を現実のものとした手段がない。
桜華には錆化という手の込んだナノギミックを仕込まれた〝ラスティキック〟を製造することも、ただの人間に鋼鉄の皮膚や神経毒の体液を与えることもできない。
桜華に手段を与えた人間は別に存在する。
それが公龍とアルビスが暗黙のうちに達し、互いに触れないようにしていた結論だった。
そしてそいつは、宅間喜市を異形へと変えた人物とおそらく同じ。
「ではこのメッセージの〝私〟が遺伝子変異を方向付ける何らかの手段を持つ人物――仮称で〝X〟としましょう。……その〝X〟は一体、誰に〝全てを知っている〟とメッセージを宛てたんでしょう」
澪が論点を整理するべく問うも、誰も明確な答えを持ち合わせない。
腐敗臭漂う解剖室に沈黙が広がる。アルビスは思考のなかへと沈んでいく。
まず、このメッセージは解剖という第三者の手が加わることによって初めて露わになる。つまり宅間喜市はメッセンジャー。
わざわざ手を加えた
いや、そう結論づけるのは早計だ。材料が足りない。
そう、このメッセージだけでは足りない。あまりに文言が抽象的すぎて、誰が誰に宛てたものなのか、おそらく当事者であっても気付くことができない。
つまりこのメッセージには、当事者だけがそれと気づくことができる符合が、必ず存在する。
「水鳥ちゃん、他にメッセージはなかったのか?」
「なかったねぇ。そりゃもう、ほんと隅々まで確認したんだけどさ」
公龍と水鳥の会話を聞きながら、アルビスは今一度、宅間の死体を眺める。
損壊の酷い死体だ。生きることを前提としていない、条理を踏み躙る遺伝子変異が生じていたことは見れば理解できる。こうしてメッセージを届けることが宅間の役目だとすれば、それも納得だ。弄り尽くされた肉体はおそらく、あの戦いの時点で既に半身を死に突っ込んでいたに違いない。その死には意味も、価値もなく、虫けら同然に使い潰され――。
公龍が貫いた眼窩の虚空を見つめ、アルビスはふと思い至る。
「ミス・アスカ。宅間は医薬特区の関係者だったな?」
「ええ。先ほどご説明した通りです」
アルビスの思考に微かな光明。
もし仮に、このメッセンジャーが宅間でなければならなかったと――宅間が死ぬことでメッセージが明らかになること自体に、何らかの意味があったとすれば。
「医薬特区関連だってか」
「その可能性は、確かめてみる価値があるだろう」
方針は定まった。
アルビスと公龍と澪は視線を交わして頷く。
「私は宅間喜市の生前の足取りを追います。捜査本部の成果も、出来る範囲でお二人と共有します」
「いいだろう。私と公龍で医薬特区について、詳細を調べよう」
「アタシはもう少しご遺体を調べてみるよ。何か分かったら、すぐに連絡するねぇ」
「決まりだな。――暴くぞ。〝X〟まで最短距離でいく」
公龍が獰猛に笑う。眼鏡の奥で一度は蓋をした憤怒が再び燃え上がっていくのを、アルビスは間近で感じた。
†
科捜研を後にしたアルビスたちは、摩天楼を縫っていく車のシートに身体を埋める。二人の間に飛び交う言葉はなく、息の詰まるような沈黙がたゆたっている。
「……何を考えている?」
アルビスは助手席の公龍に問う。窓の外を眺める公龍は身体の向きをそのままに答える。
「何も考えちゃいねえよ、別に」
「そうか。神妙にもの憂げな顔で、怖気づいているように見えたがな」
「けっ、寝言は寝て言えよ。俺がいつ誰にビビるってんだ」
「無暗にデカく不遜な態度を取るのは、怖気づく矮小な自分を隠すためだろう」
ピキ、と公龍の額に青い筋が浮く。
「言ってくれるじゃねえか……ぶっ殺すぞ、てめえ」
「確かこんな諺があるだろう。……弱い犬ほど、よく吼える――だったか?」
「その口、二度と開けねえようにしてやるよ」
公龍が腰を浮かし、アルビスへと鋭く腕を伸ばして掴みかかる。
だが真正面からの、しかも不安定な体勢での接近に、後れを取るアルビスではない。アルビスは公龍の腕を取って捻り上げ、同時に公龍の座席のリクライニングを倒して組み伏せる。顔面から背もたれに叩きつけられた公龍が吐き出した息とともに声を漏らす。
「この口をどうするんだ?」
「くそっ……放しやがれっ!」
公龍が振り解こうと暴れるが、締め上げられた関節はがっちりと嵌り、公龍にいかなる抵抗も許さない。
近接戦闘においては生来の野生じみた直感や持って生まれた肉体の強さがその優劣を大きく左右する。公龍が刃や槍を構えて、
だが相手の攻撃を見極め、関節を締め上げる技は勝手が違う。あらゆる状況に対する冷静な対処。繰り返し肉体に滲み込ませた動きの練度。そうした研鑽が如実にものを言う。
つまりこと戦いにおける技巧でのみ比較したとき、アルビスと公龍の間には雲泥とも言える歴然とした差が存在する。
故にアルビスの技は執拗なまでに強固。たとえ相手が公龍であっても、そう簡単に逃れることはできなかった。
「無様だな。犬には似合いの格好だ」
「てめえ……ッ!」
公龍を見下ろすアルビスの薄青の瞳に静かな熱が込められる。
分かっていた。
愛する人を失った哀しみの深さも、絶望の大きさも。ただ一人、何を引き換えにしてでも守りたいと願った者を、抗えぬ不条理によって殺されることの虚しさを。
だからこそ、アルビスは甘えた言葉を相棒には向けない。二人の間に安易な慰めも同情も、迂遠な気遣いも必要はないのだ。いつも通りの挑発を並べ、怒りを煽り、剥き出しにした闘争心をもって向かい合う。それでこそ、狂気と混沌が支配する死地において互いの背中を預ける相棒たり得るのだ。
「私の足を引っ張るな。言いたいのはそれだけだ。そして貴様はそのことだけに注力していろ。乏しい脳味噌で、余計なことを考えるな」
「舐めてんじゃねえぞぉッ!」
公龍が四肢に力を込め、強靭な背筋力でアルビスを押しのける。
そして即座に振り返った公龍の拳が放たれる。アルビスは狭い車内で上体を反らし、眼前を擦過する公龍の腕を右手で掴み、切り裂くような鋭い空気をまとった。
「――待て。つけられている」
「あ?」
公龍は苛立ちを露わにしたまま、バックミラーを目線だけで確認する。
「科捜研を出たところから気付いていたが、距離が詰まっている。おそらく仕掛けてくる」
「上等だ。どこの誰だか知らねえがぶっ殺してやるよ」
「やめろ。拘束して情報を吐かせる」
アルビスは車のナビゲーションを操作。ルートを変更し、手近な廃区へと入っていく。
「単車が一台。一人でのこのこ来やがるとは舐めてんな」
「気づいていないふりをしておけ。気づいたことに気づかれれば、余程の馬鹿ではない限り撤退してしまう」
「……余程の馬鹿らしいぞ」
公龍が言うや、バイクが加速。車間距離を詰め、強引にアルビスたちの横に並んでくる。そのまま前に出るかと思いきや、ハンドルから離れた手の中で特殊警棒が伸展。同時、運転席の窓に向けて振り抜かれる。
衝撃。対戦車ライフルさえ凌ぐはずの防弾ガラスに深い蜘蛛の巣状の亀裂。フルフェイスのヘルメットの奥で、獰猛に笑ったライダーの犬歯が覗く。
「――面白ぇっ! アルビス、俺が出る!」
公龍は即座に助手席の扉を蹴り開け、曲芸じみた身のこなしで疾走する車のボンネットへと飛び移る。既に手には
公龍の肉体が即座に隆起。どちらかと言えば痩身だった身体が、二秒で筋骨隆々の雄々しい肉体へと変化する。
公龍が低く跳躍。丸太のような腕がバイクに乗る襲撃者の首を刈り取る。凄まじい勢いで落車した二人は、危機を察して早々に店主が逃げた露店へと突っ込む。制御を失ったバイクは蛇行して壁に激突。アルビスも車を急停止させる。
「公龍、無事か!」
「ったりめえだっ! 誰に言ってやがる、ボケが!」
粉塵のなかから公龍の罵声。間もなく晴れていく粉塵を裂いて、公龍がバックステップでアルビスの元まで退いてくる。
「……野郎、同業だ」
舌打つ公龍の腕には
「……痛ぇなぁ、おいコラ。噂通りのイカレ野郎じゃねえのよ、九重公龍」
割れたヘルメットが地面に叩きつけられる。粉塵が完全に晴れ、襲撃者が姿を晒す。
逆立てた赤い髪に無精ひげ。トンボのような青光りするサングラス。アルビスと同等の上背には毒々しいにも程があるだろうというような紫色のレザージャケットを羽織り、擦り切れて褪せたダメージジーンズを履いている。右手には特殊警棒、左手には
「よくもこの前はコケにしてくれたなぁ……」
男はサングラス越しにガンを飛ばす。
「知っているか?」
「あ? 知らねえよ、あんな三下。てめえこそ知らねえのかよ」
「知らないな」
全く身に覚えのない言いがかりだった。本当にただの怨恨ならば御しやすいが、アルビスはもう一人の存在に警戒を緩めない。解薬士は
「何ぶつぶつ言ってやがんだコラ。まさか忘れたとか抜かすんじゃねえだろうな」
男が凄み、特殊警棒を振るう。背後の壁にやはり蜘蛛の巣状の亀裂が走り、粉々に砕けた。
おそらく特殊警棒の尖端に超高速で振動を発するギミックを仕込んでいるのだろう。直撃すれば肉が抉れ、骨が粉微塵になることは必至。僅かにでも掠めれば、重度の脳震盪が引き起こされる。
「公龍、一人でやれるな?」
「てめえは親か。当然のこと聞くな、てめえから殺すぞ」
アルビスと公龍はほんの一瞬だけ視線を交わす。アルビスは悠然と、ボンネットに浅く腰かけて腕を組む。公龍は
「高みの見物とは舐めてくれるな、アルビス・アーベントォッ! 俺の名はぁっ――――」
「お前の相手はこっちだドアホ」
相手の意識が僅かに逸れた一瞬を突いて公龍が接近。低い姿勢から全身のバネを使って逆袈裟の斬撃を放つ。赤髪の男は間一髪で飛び退き、掲げた特殊警棒で斬撃を防御。甲高く鋭い衝撃音が耳を劈く。
「人が話してるときは最後まで聞けよ! この俺が名乗ってる最中に――――」
「興味ねえんだよ、三下が」
公龍は真正面から接近。振り絞る刃を警戒した男に、不意の前蹴りを見舞う。容赦なし。完全にタイミングをずらされた男の腹に、強化された肉体による打撃が突き刺さり、男の体躯は紙切れ同然に吹き飛ぶ。
「てめえの名前なんざ、どうでもいいんだよ。今から死ぬんだ。戒名でも考えとくんだな」
ぶち抜いた壁の瓦礫に塗れながら、腹を抑えて血を吐く男に向けて、公龍が吐き捨てる。この勢いだと本当に殺しかねない。アルビスは仲裁に入ろうと重い腰を上げ、その視界の片隅――遙か彼方のビルの屋上にほんの一瞬光るものを捉えた。
「公龍っ! 伏せろ」
しかしアルビスの警告は虚しく、公龍の身体が揺らぐ。ふらつく脚は身体を支えることができず、数歩たたらを踏んだあと、公龍は地面に膝をついた。隆起した上腕に、ボールペンのような銅色のシリンダーが突き刺さっている。
「…………くそ、意識、が」
公龍は
やはり赤髪の男の相棒は身を潜めていた。
それも解薬士同士の戦闘において、最も警戒されず、最も厄介な相手。
「――――狙撃」
知らず生じていた油断に奥歯を噛むアルビスに、立ち上がった男がしたり顔を向ける。
「残念だったな、九重公龍。アルビス・アーベント。俺の名はシルバー。お前らをぶっ潰す男の名だ、よーく覚えとけや」
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