02/A fleeting day《1》

 淡い緑色の検査着を着たクロエが検査室から出てくる。不安に満ちた表情は、手を振る公龍に気づいて安堵の笑顔へと変わる。クロエはちらと後ろの看護師を見やってもう問題がないと判断すると、貸し出されたスリッパでぺたぺたと床を叩きながら公龍とアルビスの元へと戻ってくる。


「よく頑張ったな」


 公龍がクロエの髪をわしわしと撫でる。クロエはまるで仔犬のように、公龍の大きな手で撫でられるがまま、気持ちよさそうに笑みを浮かべている。

 アルビスはそんな二人をよそに、待合室のソファへと腰掛ける。

 一言で言えば、アルビスはクロエが苦手だ。というか子供という生き物が苦手だ。何を考えているのか不明な上、合理性も論理性もない謎の行動に突如として及んだりする。クロエが同年代の子供に比べていくらか大人びてしっかりしていることは理解しているが、それでもやはり苦手だという評価に変わりはない。

 適材適所。子供の世話は子供の世話をしたい奴がすればいい。公龍の人格が人を育てる器でないことは重々承知しているが、そこまで少女の将来を慮ってやる義理はない。何よりクロエ自身が公龍を気に入っているのだから、水を差す必要もあるまい。

 アルビスの目の前を、松葉杖を突いた男が通り過ぎていく。足に撒かれた包帯には僅かに滲み出した錆が浮いている。男は生気のない虚ろな表情で歩きながら、クロエが出てきたばかりの検査室へと入っていった。

 粟国桜華事件が《東都》に残した爪痕は、何も都市部と廃区の対立構造の強化だけではない。桜華――〝脳男ブレイン〟の画策した計画の骨子には〝ラスティキック〟と呼ばれる非認可薬物デザイナーズドラッグが据えられていた。

 表向きは疲労回復・滋養強壮のドラッグとして流通していたそれは、ある特定の音階に反応して人体を錆化させるという狂気の魔薬だ。

 粟国桜華事件による錆化被害は死者七二二名、重軽症者六五九名にも及ぶ。事件から二週間以上が経っているとは言え、未だに多くの市民が錆化に苦しんでいる状況が続いているのだ。

 そしてクロエもまた、〝脳男ブレイン〟によってラスティキックを投与された被害者であり、今日もこうして治療と検査のために帝邦医科大学病院へと足を運んでいるわけだ。

 間もなく番号札とクロエの名前が呼ばれる。クロエの手を引く公龍の後ろに続き、アルビスも立ち上がって診療室へと向かった。



 診療室では中年の女性看護師と細面の若い医者が待ち受けていた。医者は黒ぶちの眼鏡の位置を指で直し、茶色い癖毛を掻きながら診察表カルテを眺めていたが、こちらの入室に気づくとすぐに笑顔をつくって向き直る。状況が状況なので、ろくに休めてはいないのだろう。眼鏡の奥、目の下にはくっきりと隈が刻まれ、白衣の襟や首から下げられた顔写真付きのIDはよれてあらぬ方向へと曲がっている。


「――まず、検査お疲れ様でした。お掛けになってください」


 言われた公龍が後ろのアルビスをちらと伺う。おそらくは椅子が二つしかないからだろう。アルビスは無言で腕を組み、扉の横の壁に寄り掛かる。公龍はクロエを座らせ、その隣りに腰を下ろした。


「結果から言いますと、経過は良好です。もうほとんど錆化ナノカプセルも体内に残っていませんし、医療用のナノマシンを用いた治療は今日で必要ないでしょう」


 クロエが医者と公龍を交互に見やる。公龍はおよそ善人には見えない、生まれつきの凶悪な笑みを浮かべて「もう治ったってことだ」とクロエに伝えてやる。クロエは一体どこで覚えたのか、拳を握ってガッツポーズをした。


「ここまでナノカプセルの除去がスムーズにいく例はあまりないんですよ。クロエさんの場合、服用していた〝ラスティキック〟が微量だったことと、発症初期にワクチン投与が為されていたことが功を奏したと考えられますね」

「良かったな、クロエ。あのクール気取りのスカシ朴念仁もたまには役に立つんだな」

「女の尻を追い駆けて、クロエをほったらかしていたことを棚に上げるな、ヤンキー崩れ」


 公龍のこめかみに青筋が浮かび、アルビスの氷のような冷徹な眼差しが静かに怒気を帯びる。時も場所も関係なかった。二人は常に互いを殺し合う準備を整えているのだと、もはや素人でも理解できるほどの殺気が診療室に漂う。


「まあまあ。お二人とも落ち着いて。ここ、病院ですから。ね?」


 場違いなほどへらへらとした医者の宥めに、二人は抜きかけた矛を収めることにする。


「お子さんの情操教育の発達に、父母の方の仲の良さが関わっているなんてデータもありましてね。お二人が仲良くすることは、回り回ってクロエさんのためにもなる……なんて余計でしたかね?」


 医者はぽりぽりと癖毛を掻く。公龍が口の端を吊り上げ、アルビスへと視線を向ける。


「なるほどな。確かにあれは女みてえな顔してやがるもんな。お前がママ役やれよ」

「貴様の脳内では超新星爆発でも起きているのか? どう考えても今のは女々しいお前に向けられた言葉だろう」


 再び張り詰めていく空気に、医者が眉根を寄せて苦笑する。


「そういう意味ではないんですが……」


 公龍とアルビスが同じ空間にいる限り、必ず生じる殺伐とした化学反応にクロエは深く溜息を吐いていた。


   †


 詳しい検査結果とクロエの状態についての説明を聞き終え、公龍は立ち上がる。


「そんじゃ、センセありがとな」

「ドクター・サルワ、礼を言う」

「いえいえ、仕事ですから。もう通院は大丈夫ですが、最後に薬だけ出しておきますね。体内のナノマシンを正常に働かせて、分解する薬です。それじゃ、お大事にね、クロエさん」


 若い医者――猿羽さるわに笑みを向けられ、クロエは小さく胸を撫で下ろす。病院に来るのにはあまり乗り気ではなかったので、今日で最後と聞いて安心しているのだろう。

 公龍はクロエの頭をぽんと撫で、挨拶するやとっとと退出しているアルビスの後を追う。

 窓口で調剤ドローンから処方箋を受け取った公龍たちは帝邦医大を後にする。公龍たち自身、幾度となく世話になっているこの病院はやはり、あまり長居のしたい場所ではない。


「あーっ、疲れたなぁ、クロエ」


 大学病院の入り口で声を張り上げて伸びをする。クロエも真似をして両腕をぐっと頭上に伸ばす。老婆が微笑ましく二人を眺めて通り過ぎていく。

「おい、アルビス」

 公龍はだらんと腕を垂らして脱力しつつ、そそくさと前を歩くスーツ姿の相棒を睨む。アルビスは踵を鳴らして立ち止まり、堅気には見えない剣呑な目つきで公龍を振り返る。


「何だ」

「何だ、じゃねえだろ。どこ行くつもりだよ」

「帰るに決まっているだろう。まだ仕事は残っている」

「おい、クソつまらねえ冗談はよせよ。閑古鳥鳴きまくりのビンボー事務所に、一体どんな仕事が残ってるってんだ」

「事務所の資金難は貴様の浪費のせいでもあるんだが、たった今素晴らしい解決策を思いついた。貴様の無駄に健康な臓器を売るのはどうだ? 幸い設備も技術も、おまけにいい買い手も、ここなら全てが揃っている」


 アルビスはちらと並ぶ人工樹を見やる。もちろん視線で示したのは人工樹ではなく、この白亜の病棟の裏手に佇む、漆黒の伏魔殿の魔女のことだ。

 ちなみに言うと、ついこの前のコードαで毒性の血液を浴びた二人はその後、魔女の元を訪れ、血液透析だけを受けるはずが散々身体を弄り回される羽目になっている。


「やめろ。あの女の名前が出ると冗談に聞こえねえ」

「冗談のつもりはないがな」


 誇張なしに身震いした公龍を、アルビスは鼻で笑う。壊滅的に歪んだ性格をよく表した微笑だが、元々の美貌のせいでどこか絵になるのがまた憎い。


「それで何だ? 何か言いかけていただろう」

「ああ、そうだった。クソ、話の腰折りやがって」


 公龍は舌打ちから一転、得意気かつにこやかな笑みを浮かべて隣りに立つクロエの頭をぽんと撫でた。


「寛解祝いだ。行くぞ」


 言いながら見下ろせば、クロエの表情がパッと笑顔を咲かせる。やはり感情の機微のないこのカッコつけ朴念仁は理解できないと言わんばかり、無表情の顔貌にクエスチョンマークを浮かべている。


「どこへ行く?」

「決まってんだろ。忘れたのか? クロエぐらいの年頃のガキが行きたいところと言やあ、一つだろうが」

「まさか、貴様……」


 公龍はもう一度、得意気に笑ってみせる。今度は目の前の相棒に向けて、ざまぁみろ、というありったけの感情を込めて。


「――遊園地だ!」


 人差し指を上斜め四五度へと突き刺した公龍が宣言すると、クロエがガッツポーズの勢い余って跳び上がる。そのはしゃぎっぷりに、アルビスが意見を挟む余地など一分さえ存在しなかった。


   †


 豪ッ――と。

 大勢の人を乗せたカラフルな箱が、鋼鉄のレールを地面へ向けて滑り落ちる。歓声のような悲鳴のような黄色い声を置き去りに、人々を乗せた箱はすさまじい勢いでレールを走り抜けていく。

 反対側を見れば、……あれは死蝋プラスティネーションだろうか。疾走姿勢のまま固まって動かなくなった串刺しの馬が荷車とともに並べられ、円形の館のなかをひたすらに回っている。楽しげに馬に跨る子供たちは、一体どんな狂気をその胸に孕んでいるというのだろうか。


「いいか、アルビス。お前はお情けで連れて来てやってるんだ。さすがに仲間外れはかわいそうだからな」

「誰がチケット代を払ったと思っている」


 アルビスは公龍の軽口に応じつつ、初めて足を踏み入れた狂気の楽園ゆうえんちに息を呑む。

 低空飛行する戦闘機を連想させるジェットコースターの轟音。所々に陳列される、親しみ深い笑顔に口の端を歪めながらも目だけは決して笑っていないキャラクター。肩と胸に下ろされたバーだけを頼りに、不安定極まりない建造物にぶら下がりながら理不尽な回転に身を委ねる人々。

 誰も彼も、何故こんな場所で楽しそうに笑っているのか、心の底から分からない。

 無論、概念としては知っている。

 遊園地が人々にとっては当たり前で、人気のある娯楽施設であることも承知しているつもりだ。

 だが見聞きして知っていることと、実際に目の当たりにすることは違う。

 断言できるのは、どう考えてもこの場所はおかしいということだ。


「ん、どうした? 風船ほしいのか?」


 すぐ近くでパンフレットを眺めていた公龍がクロエの視線を察知。手を引いて歩き出す。向かう先には自然界的にはあり得ない、ピンクの体毛を生やした二足歩行のウサギ。この遊園地では人気のキャラクターであるらしく、風船を抱えたウサギの周りには親子連れやカップルが集まっている。


「おい、公龍! 待て!」


 アルビスは公龍を呼び止める。あまりに鋭い声音に、公龍は胡乱げな表情で振り返る。


「危険だ。あの着ぐるみには武器を隠せる場所が多すぎる。加えて、背後を取られぬよう立ち回っている点も怪しい。装着者は軍属の可能性もある。迂闊に近づくべきではない」

「…………」


 アルビスが言うや、公龍の表情が一瞬にして蔑みに満ちていった。


「……なぁ、クロエ。この間抜け、何言ってんだと思う?」


 溜息混じりの公龍に、クロエは書き走りのメモを向ける。表情から察するに言葉に窮したのだろう。メモの中心には申し訳なさそうに「?」とだけ書かれている。


「なあ、アルビスよ」

「なんだ」

「…………病院、戻っておくか?」


 公龍はもう一度、今度は殊更に深く、魂ごと吐き出すような溜息を吐いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る