01/Creeping shadow《3》
食事を終え、アルビスは仕事を再開する。
執務机にかけ、自分たちが担当していないコードαまで、警視庁のデータベースに登録されるものに関しては目を通しておく。理解の及ばない新たな
たとえ《東都》を救った英雄と崇められようと、アルビスには僅かな慢心さえない。誰がどう評価を下そうと、アルビスが辿る道はたった一つ――修羅のそれ以外にあり得ないのだ。
論文を読んでいた思考の空隙を突くように、手首の端末が振動した。
着信ではなくアラート。コードαの二次発令に際して届く緊急通知だ。二次発令は、澪から直接連絡が来る一次案件とは異なり、既に別の解薬士が対処にあたり、その上でこのままでは解薬が困難と見做された難度の高い案件である場合が多い。
アルビスは論文を机に置き、立ち上がる。食後すぐにクロエと一緒に寝始めた公龍の頭に手刀を見舞って叩き起こす。
「ふが……」
「起きろ、粗大ゴミ。コードαだ」
†
発生場所は一九区の第三廃区。遺伝子変異を起こした人間の身元は不明。使用した薬物も不明。既にフェードレッドへと到達しており、複数の解薬士ペアが対処にあたるも返り討ちに遭っている。被害は大きく、民間人も含め死者は四名、重軽症者は二〇名以上。迅速な鎮圧が求められている――。
アルビスはコードαの内容を口頭で確認しつつ、助手席に座る相棒を見やる。寝癖で爆発した金髪をヘアバンドで抑え込みながら、公龍は白い歯を剥く。
「久々に骨がありそうだな。食後の運動にはちょうどいい」
「油断はするな。まずは変異症状から使用した薬物の傾向を特定する」
「ちまちまセコいことしてんなよ。正面切って、ぶっ殺せばいい」
「それが油断だと言っている」
アルビスはハンドルを
「お前はいちいちビビり過ぎなんだよ、アルビス。まあその弱さじゃ臆病になるのも分かるけどよ」
「言っていろ。公龍、貴様が死ぬのは勝手だが、足だけは引っ張ってくれるなよ」
やがて煌びやかなホログラムに彩られた都市部から無窮の闇が落ちる廃区へ到達。廃区の周囲は既に警視庁の警備ドローンが築くバリケードによって封鎖されている。その内側では、廃区の住民たちが押し寄せ、我先にと決して通り抜けることの叶わない境界線を犯そうと必死に形相で喚いている。
暗黙の事実として、廃区においても人々の生活が営まれていることは誰もが知っている。しかし廃区は書類上は無人の区画である。すなわち《東都》の法も倫理も、彼らを積極的に守ろうとはしない。
元より存在悪として黙認されている廃区は、こうしてコードαが発生すれば正義と平和の名のもとに封鎖され、内側に住む者たちは容易に切り捨てられる。
だが、それにしても――。
「随分、中が騒がしいな」
「ああ。近いのだろう」
公龍とアルビスが珍しく意見を一致させた刹那、目の前の廃ビルの壁が吹き飛んだ。飛び交う瓦礫に追い立てられるように、住民の血相がさらなる必死さを帯びる。
「そういうことだ」
震動を感知して自動運転システムが停止。アルビスたちは即座に下車する。
巻き起こる粉塵に浮かび上がるのは、三メートルに届こうかという巨大な異形。全身が内出血を起こして風船さながらに青黒く膨れ上がり、弾性を備えた皮膚が破裂を辛うじて押し留める。一方で手足の先は岩を削ったように硬く鋭利に変貌し、触れる全てを削り取っていく。
「ぬぬぬぉぉぉおおおおおんんんっ!」
異形が吼える。振り回した腕がコンクリートを抉り、破壊と恐怖を撒き散らす。しかしドローンのバリケードは公的に透明化した人々を尚も執拗に押しとどめた。
公龍が場の緊迫感にそぐわない、あまりに軽薄な口笛を鳴らす。
「随分、活きがいいじゃねえか」
「分かっているな? まずは誘導からだ」
二人は散歩するかのような足取りで歩きながらIDを翳してバリケードを通過。絶対零度の威圧感と狂気を滲ませる獣の熱量が狂乱に駆られる人々に思わず道を開けさせる。
「――ぐはぁっ」
「て、てめえらは……っ」
吹っ飛んできた赤髪の解薬士がアルビスたちを見て目を見開く。
「死んだふりしてたほうが身のためだぜ」
「命が惜しくば、そのまま伏せているがいい」
二人は一瞥することもなくそう言って、尚も悠然と戦場を進む。
「ぬぬぬぬぅぅううっ」
アルビスたちの存在に気づいた
「始めるぞ」
アルビスが言うや、公龍が低く駆け出す。案の定の独断専行。アルビスはあからさまに舌打つ。
公龍は抜いた
「ゴミカスが死ねオラァッ!」
下品な罵声とともに血の弾丸が放たれる。一〇の曲線軌道を描いた弾丸は赤い軌跡を引きながら
「うぐああああああああああああああああっ!」
撒き散らされた血の噴霧を間近で浴びた見知らぬ解薬士が絶叫する。皮膚がぶくぶくと爛れ全身から出血、白目を剥いて失神する。
「ゴミカスは貴様だ」
追いついたアルビスは公龍の横っ腹に強烈な蹴りを見舞う。公龍は紙一重で反応し、肘でこれをガード。アルビスを容赦なく
「薬物に汚染された
「あれくれえで死ぬ解薬士ならいらねえよ。それに一発見とかねえと、対策のしようもねえだろうが」
「被害を出しておいて偉そうにするな。ゴミカス」
「お前こそ俺に命令するんじゃねえ。ビビり野郎」
噴射の勢いが弱まるや、今度は二人同時に駆け出す。
アルビスが打ち込んだのは
一方の公龍は
「無暗に斬るなよ。血中の毒素はおそらく強力なマイコトキシンの近縁種だ。貴様が死ぬのはむしろ歓迎したいが、他人様、特に私に、迷惑をかけず死ね」
「知ってるか、アルビス。お前は既に存在だけで大迷惑だ。お前が死ね」
マイコトキシン。カエンタケや赤カビ病の発生したムギなどに生産される猛毒で、腹痛や嘔吐、発熱に始まり敗血症や潰瘍、全身の出血などを引き起こす。またこれを保有するカエンタケは触れただけで皮膚が爛れる症例も確認されており、高い刺激性と皮膚透過性を有している。
何よりこの猛毒の脅威は、皮肉にもついさっき公龍のせいで
「じらべえぇぇっ!」
血を放出して一回り小さくなった
「ぐおっ!」
「いい盾だ」
血の刃に亀裂――。タイミングを計ったように、公龍の陰からアルビスが飛び出す。巨体の懐に低い姿勢で潜り込み、硬化している左の膝関節に向けて掌底を放つ。金属を殴りつけたような反発と手応え。
二人は同時に飛び退き、
「一発で決めろや、雑魚が」
「折れた刀で随分偉そうだな」
公龍が侮るようにアルビスへ向けて吐き捨て、アルビスはその威勢を嘲るように薄く笑む。向かい合う二人の間に挟まれた
公龍が指先から滴る血を刀身へと垂らし、亀裂を修復。アルビスを威嚇するように、元に戻った刃を振るう。
「はっ、老眼か? どこが折れてるって?」
「もう三倍くらい太くしておけ。多少血の気が減って、文句を垂れるだけが能の口も静かになるだろう」
「素直になれよ。もっと強い武器で僕ちゃんの代わりに
「耄碌したのはどうやら貴様のほうらしい。今この場において、最も倒されるべきは貴様だろう」
「上等だ。お前ごときにできるもんならやってみろ」
売り言葉に買い言葉。言い返そうと開きかけたアルビスの口は、続いた大音声に言葉を呑んだ。
「ふぅぅぅううううぬぅぅうううううああああああああんんんんっ!」
無視されたことに腹を立てたわけではないだろう。だが何かに対して確かに激昂した
「硬化した皮膚は既に予習済みだ。それに――」
アルビスは流れるように右方向へ身体を捻りながら円を描くような足さばきで移動。
「ああぁぁぅぅううううぐぅぅぅぅぁぁああああっ!」
凄絶な苦鳴とともに体勢を崩す
「奴に比べれば、あまりに
脳が揺れ、たたらを踏んだ
「最初の一撃で既に膝関節はずれていた。全身に回った毒で痛みを失い、強力な外骨格が自重を支えていたおかげで気づけなかったようだがな」
「おまけに教えとくと、余所見は禁物だぜ。毒ダルマ」
アルビスに続いた声とともに
だがアルビスはそれを、いや、解薬士ならばきっと皆――その類まれなる才能を美しいと思わずにはいられない。それこそが狂気だとは気づかぬふりをしたまままに。
ぱすっ、と間の抜けた音。
公龍が僅かにふらつく。最大限の注意を払った上、血の飛散を防ぐために長槍を引き抜かずに消失させていたが、それでも近接戦闘である以上は少なくない返り血を浴びてしまっている。
そしてそれはアルビスも同じ。だが公龍の前でそんな弱味を見せるつもりは毛ほどもない。
「どうした。足元が覚束ないようだが」
「畜生が……。お前こそ、立ってるのがやっとだって顔してやがるぞ」
「貴様とは鍛え方が違う。この程度の毒が効くものか」
「はっ、毒で脳味噌でも溶けたか? マイコトキシンはいくら鍛えたって効くんだよ」
公龍は路傍まで歩き、縁石の上に座り込む。
「ほら、警察だ。早く手続き済ませて来いよ。お前の仕事だろ。んで、さっさとセンセのとこ行くぞ」
公龍が顎で示す先を見れば、事態の収束を待って出てきた警視庁の人間がこちらの様子を伺っている。
「……私の仕事ではなく、本来は私たちの仕事だがな」
アルビスはもう動く気のない相棒に言うだけ言って、刑事たちの元へと向かう。
粟国桜華事件を経て、公龍は少し変わった。軽口は留まるところを知らないし、相変わらず仕事はしないで食うか寝るかの生活を続ける。だが女遊びの頻度は減って、代わりに毎日事務所に顔を出すようになった。
まるでただ燃え尽きるためだけに刹那的な人生を送ろうとしていた男がほんの少しだけ、未来へと向かおうとしているような。アルビスはそんな印象を抱く。
この変化はきっと、元妻であった粟国桜華の死と失語症の少女・クロエとの出会いによるものだろう。公龍は自らが犯した過去の過ちを受け止め、守るべきを背負おうとしている。
その変化が好ましいものなのかは分からない。
だがそうやって前に進もうと変わっていける公龍を、アルビスは少しだけ羨ましいと思った。
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