第9話
堀井和夫殺人計画——。
俺・佐野誠を人間として復活させるための、まさに必要悪である。
矢野は真面目なヤツだ。ぴくりとも動かず、ずっと電信柱の影から姫子の部屋を見張っている。
だから、俺は窓辺に金髪のマネキン人形を置いて、俺達がいるかのようにカモフラージュした。そして、シャーロック・ホームズのような帽子を深く被り、金髪を押し込めた。
不思議なことに、カツラである金髪は、すでに俺の頭に根付いてしまい、時々くるりと動くことはあっても、取り外すことはできなくなっていた。少しずつ、俺の体はマネキンに馴染んできているのだ。
姫子はというと、タータンチェックのスカート……というのは、比較的真っ当だが、ダックスフンドの風船を持つのだけは止めてくれ。
こうして俺達は、矢野の目をかいくぐって外へ出たのである。
1時間に1本しかない路線バスに乗る。
行き先は、風光明媚な岬である。望洋岬——ただし、自殺者がたえないので『忘世岬』とも呼ばれている。
夏の今頃は観光に訪れる人も多いのだが、日暮れも近いこの時間は人気が減る。 もう駐車場の売店も閉店している時間だ。
ただ、夜遅くなると、どこからともなくドライブの車が集まってくる。俺も、誠時代は何度か女とここに来た。もちろん、目的はいちゃいちゃであり、海を見ることではなかった。
遊歩道を歩いていくのは、中学校以来のことかもしれない。
まだ穂の青いすすきが風に踊る。丘を越えてゆくと、目の前に真っ青な海が急に開けた。
「うわ! 気持ちいいな!」
俺は、思わず叫んで帽子を取った。
金髪があっという間に広がって風になびいた。
俺は深呼吸した。
久しぶりにすがすがしい気分だ。
一瞬、体がマネキン人形であることを忘れかけた。
そんな俺の横で、姫子は悪魔さん電話を使っていた。
「もしもし? 堀井君? 私。八木です」
さすが、悪魔さん電話だけある。姫子の声は、あの間延びした話し方ではなく、すっかり森川の友人・八木の声になっている。
「あの……別にたいしたことではないとは思うんだけど、さっき、望洋岬行きのバスに、さとみが乗るところを見ちゃって……。ちょっと暗い顔をしていたから気になって。私、用事があったから声を掛けなかったのだけど、ちょっと気になって……うん、大丈夫だとは思うんだけどね……」
恋人の葬式であれだけ取り乱した森川さとみが、暗い顔をして、人が行かないだろう夕方に向けて、たった一人で自殺名所の岬に出かけた。
単細胞なうえ、森川に思いを寄せている堀井は、おそらく慌てて車を飛ばしてくるだろう。
崖下で待機している姫子が、今度は森川の声色で悲鳴を上げる。堀井が慌てて崖から身を乗り出した瞬間、俺が後ろから突き飛ばすのだ。
あわれ、堀井は海の中。俺もその後、海へと飛び込む。
その後、俺は例の呪文をとなえ……。
堀井は奇跡的に助かるのだ。しかし、崖から海に落ちたショックで、記憶の大半は失われた……という想定。
そう、堀井の記憶なんて蘇るはずはない。
堀井として海から戻るのは、俺・佐野誠なのだから。
俺は今後、堀井和夫として、人間に戻って生きてゆくのだ。
さらば! 堀井和夫!
さらば! 浅野真琴!
さらば! ドール!
俺は、再び人間として人間らしい生活を取り戻す。
姫子が崖下に去ったあと、俺は海に向かって高らかに笑った。
東に向かった海ではあるが、水平線が西日でかすかに赤くなってきた。
この素晴らしい地球に幸あれ!
この美しい世界に幸いあれ!
「何がそんなに楽しいのよ!」
突然、俺の背後から声がした。
逆光を背に受けた女が、すすきの中に立っていた。
「誠が死んだばかりだっていうのに、何でそんなに笑えるのよ!」
大声を張り上げて怒鳴る女——なんと、森川だった。
「な、なぜ、あなたがここに?」
俺は動揺した。
ここに森川がいるのは、姫子とでっち上げた話だったはずなのに、実際に彼女はここにいる。
「あの時から……あなたたちのことが気になって仕方がなかったわ。私が知らない誠を知っているあなたが、気になって気が狂いそうだったわ! そうしたら、あなたたちが変装してバスに乗り込むのが見えた、だから私もついてきたのよ!」
平凡で普通の女ならば、彼が死んだら泣いて悲しんで終わりにするだろう? それとも、そう思うのは俺だけか?
俺は、森川の中に眠る激しい感情の波に圧倒された。
森川って……こんな女だったのか? 知らなかった。
「あなたはいったい、誠のなんだったのよ! 私はいったい誠のなんだったのよ!」
これ以上ないほど、顔を歪ませて、森川は叫んだ。
俺は戦慄した。
真っ赤に燃える太陽を背負い、熱情を嫉妬の炎で燃え上がらせる森川は、怖い……けれど、美しい。
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