第3話


「本当に惜しい人を亡くしましたねぇ」


 ケーキ屋さんのサロンで、モンブランのクリームだけをすくい、フォークごとパクリと口に入れにっこり笑う。

 彼女は白雪姫子。

 この無邪気な微笑が悪魔のものであろうとは誰も思わないだろう。

 目の前にいる俺を除いては……。


 俺、佐野誠。大学生。

 明日に葬式を控えている哀れな男だ。

 いや、今は浅野真琴というべきか? 究極の理想体型を持ったハーフ美女である。元マネキン人形の。


 姫子の家にわずかに残された誠の遺留品——100円ライターと小銭入れだが——そこからなけなしのお金を出して、姫子にケーキをご馳走する。

 それもこれもたった一つのお願いのためだ。


「なぁ、おい。これで気が変わったかよ。明日の葬儀をどうにかして、俺を誠に戻してくれる気になったか?」


 姫子は満足げに目を細めた。


「それってマコ姉さまの希望?」


 うん……と言いかけて俺は口を押さえた。

 悪魔は負の希望しか叶えたがらない。こちらが切に願っていると知れば、やーめーたー! になりかねない。


「いや、俺はそれを望んでいるとか、そんなんじゃないんだ。別にこの体も気に入っているしなぁ」


 嘘八百を並べて、姫子の顔色を伺う。

 彼女は今度はジャムをたっぷり、砂糖もたくさん入れた紅茶をずずず……とすすった。


「ふーん、それじゃあよかったですねぇ。ケーキご馳走様!」




 佐野誠の人生は、振り返ってみるとちゃらんぽらんで幸せだった。

 不幸といえば、姫子に会って死んで、明日が告別式だということぐらいだろう。


 ——いたたまれない。



 その夜、168,000円のスーツ姿で、俺は自分の家の近くをうろついた。


【弔】


 なんともいえない気分である。

 通夜が営まれている。


 俺はそっと裏に回り、窓からこっそり中を仰ぎ見た。

 母さんと父さん、妹が黒い服を着て立っている。お客さんがお悔やみを言っているよう……妹がハンカチで涙を拭いた。

 母さんと父さんは、押し黙っているようだった。

 白い菊の花が、なんだか造花のように味気ない。その花に囲まれて俺の遺影が飾られている。

 俺は複雑な気分になって、思わずひとりごとをつぶやいていた。

「もっと、ましな写真にしろよな……」


 嫌な気分だ。

 表に回って帰ろうとした。


「あら、あなたは? 弔問にいらっしゃったのですか?」


 いきなりの声に、俺は飛び上がった。

 忘れもしないこの声は……。


 森川さとみ。俺の彼女だ。


 背の高い見知らぬ女が他人(本当は他人じゃないけれど)の通夜の様子をこそこそ覗き見している。森川じゃなくてもこれじゃあ不審に思うに違いない。

 彼女は、おそらく葬儀の手伝いをかって出たのだろう。そういう仕事が好きな、わりと地味な女だ。急あつらえの真新しい喪服に白い受付の花バッジをつけていた。

 それに比べて、俺、つまり真琴は派手なへそ出しパンツスーツなのだから、どう見ても弔問客には見えない。


「ええ、まあ……そんなものね」


 などとますます怪しい返事をするしかない。

 怪訝そうな顔をする森川の前を、少しでもかっこよく退散しようと俺はゆっくりと庭を出た。

 森川の視界から消えたことを確認すると、俺は小走りに駅への道を急いだ。

 アスファルトにピンヒールの甲高い音。それがやけに郷愁を誘う。



 俺には……。

 もう帰る家はない。



 俺はこれからマネキン人形として、悪魔の家にとらわれた哀れな生活を送るのか?

 たった一夜の女遊びのために、女の部屋に入るというつまらん願いを持ったばかりに……。

 姫子の家の中に散らばったぬいぐるみやお人形の類の中に、自分のマネキン姿を想像してはため息をつく。

 俺の人生——しつこいようだが、まだ人生といえるのであればだが——で最大の憂鬱な気分。歯医者に行った時よりも憂鬱だ。

 残念ながら、戻るところは姫子の部屋しかない。



「うぎゃややああああああ!」


 姫子の家の前に着いたとたん、耳も張り裂けんばかりの悲鳴が俺を出迎えた。

 その声の勢いで、ふりふりカーテンが窓から旗振りするほど。

 俺はあわてて階段を駆け上がり、姫子の部屋に飛び込んだ。

 悪魔とはいえ、彼女に何かあったら一大事。姫子の魔力に頼っている俺の存在も消えてしまうにちがいない。

 姫子はぬいぐるみやふりふりクッションの中に硬直して座り込んでいた。後姿で表情は見えないが、肩はこわばり多毛症の黒髪はすべて逆立っていた。さらに、なんと背中には氷が連なっている。

 どうやら悪魔は、恐ろしいものを見ると、本当に背筋に冷たいものを走らせるらしい。


「いったいどうしちゃったの!」


 俺はあわてて叫んだ。

 自分でもびっくりしたのは、このとき女言葉になっていたことだ。

 しかし、それよりも姫子を助けなければ!

 姫子の目の前に恐怖の原因があった。


 ——紙?


 ただの紙切れだった。

 俺は拍子抜けして頭を振った。少しカツラがずれてしまった。


「なんだよ、この紙切れがいったいどうしたっていうんだよ」


 あきれながらも、俺は紙切れを拾い上げた。


「ひ、ひ、ひ……」


 姫子は引きつったままである。あまりのショックに呼吸困難に陥っている。

 俺は紙切れを読んでみた。


「えっと、何々……。今月のポイント。マイナス168ポイント」


 ……まずい。

 非常にまずい。


 どうやらこれは悪魔さんカードの請求書らしい。俺の悪事はばれてしまったようだ。


「ひ、ひ、ひゃくろくじゅうはち……」


 これはどうやら姫子には天文学的数字だったらしい。たったの3桁だったけれど。



 俺はすっかり開き直っていた。

 もともと俺のいいところは、起きてしまったことにくよくよせず、前向きに生きてゆくところなのだから。

 いや、生きているとはいえない状態ではあるが。

 しかし、悪魔のくせして姫子は落ち込みやすい性格らしい。いつまでもくよくよして、ぬいぐるみを抱きしめて泣いている。

 根暗なヤツは、俺はあまり好きじゃないんだけれどなぁ。


「あ、あたしのぉ……ポイントォ……。どうしてぇ?」


「仕方がないだろ? 俺、知らなくて使っちゃったんだから」


「し、しかたがないぃ?」


 涙でウルウルの大きな目で姫子が睨む。

 どんなお仕置きが待っているのやら。

 しかし、もう人生が明日で終わる俺には、関係のないことかもしれない。

 俺はキヨスクで買ったタバコを取り出し、わずかな誠の遺留品である100円ライターで火をつけた。

 姫子の部屋には似使わしくない紫の煙が上がり、姫子がごほごほむせている。


「ごっほっ、マコ姉さまの悪魔!」


「悪魔に言われたくねぇ……」


 俺は、煙で輪を作って見せた。冗談でやったのに、それはなんとハート型になって、少しは姫子の部屋に似合うものになった。


「マコ姉さまなんて、最高に不幸になればいいんだわ!」


 もう充分に不幸だ。


 明日、俺は火葬されちまう。

 これ以上の不幸がいったいどこにあるっていうんだ?


 散々不幸にしてくれた姫子が、こんなに不幸な気分に陥っているのを見ると、俺はなんだか楽しくなってきた。

 これぞ、悪魔っ子の気分。一矢報いて散ってゆくのも悪くはない。


「俺は充分に姫子のポイントに貢献しただろ?」


 姫子は急に立ち上がった。

 そしていきなり俺からタバコを取り上げると素手でギリギリもみつぶした。

 はらはらと散るころには、なんとタバコはきれいなポプリに変化して、あたりに甘い香りを漂わせた。


「マコ姉さまは、最高に不幸な気分で散らなくちゃいけないんですぅ!」


 その語気に俺は思わずのけぞった。

 姫子はくるりと方向を変え、部屋の奥のウオーキング・クローゼットの扉を勢いよく開いた。

 中には奇妙な衣装がぎっしり。

 クローゼットの中に、姫子の姿は消えてしまった。魔法ではなく、衣装に埋もれてしまったのだ。

 そして、やがて衣裳部屋からバッバと衣装が飛び出してくる。


 羽根付き妖精ドレスやら、中世騎士風甲冑やら、はたまた熊さんの着ぐるみやら……。


 このクローゼットにいったいどれだけの服が入っていることやら?

 姫子が出した衣装は、やがて俺の目の高さまで山積みになった。


「お、おい?どうするんだよ。こんなに服をだして」


 もぞもぞと衣装が動いて、姫子の顔がにょきっと出てきた。


「喪服を探しているんですよぉ! あたしとぉ、マコ姉さまの!」


「もふく?」


 再び衣装に埋もれた姫子の声は、まるで水の底から響くようにこもって聞こえた。


「誠君のお葬式に出るんですぅ! マコ姉さまのこと、うんと不幸にしてあげたかったけれど、わりにあいませんものぉ!」


 かすかな希望の光を見たような気がした。


 もしかして……。


「誠君を復活させるんですぅ!」 


 俺はにんまりと微笑んだ。

 でも、衣装に埋もれた姫子には見えなかっただろう。


「マコ姉さまからポイントを得るよりも、ポイントを減らされるほうが多いんですもの。マコ姉さまのお願いなんて聞いてあげない! マコ姉さまは姫子とは一緒に暮らさせてあげない!」


 やったあ!!!!


 俺はついにガッツポーズをとった。


 浪費は身を助けるぜ!


 姫子が悪戦苦闘している中、俺は鏡にかっこいいスーツ姿を写し、モデル風にポーズをとった。

 少し右肩を内に入れ、細いマニキュアの指先で腰を押さえたら、おへそがちらりとのぞいている。


「キュートじゃん!」


 明日でお別れの美しい真琴に、俺はウインクしてお別れを言った。

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