第570話 混沌好み
「はい、そんなもんで十分でしょう?」
僕が声を掛けると、血塗れの店主は血塗れの麺棒と血塗れ強盗たちを交互に見つめ、黙ったまま盗まれた物を奪い返し、店に戻っていった。
花街の大通りは誰も彼も、怪物に背を炙られているような表情をしている。奪いたい者と奪われたくない者たちの踊りは賑やかで、狂気的だ。
返り討ちにされた強盗と、袋叩きにあった店舗の用心棒たちが転々と転がっており、それらを避けて歩く。
「お客さん、助けて!」
走って来た女性が僕の背後に隠れる。
それは何度か会ったことがある高級娼婦だった。
見れば追ってくるのは二人の荒くれ者で、彼女が身に付けた宝飾品類か、彼女の肉体か。そんなところを目当てに追い掛けて来たらしい。
逃げ込むなら僕よりももっと頼もしい男の後ろだと思うが、顔見知りに思わず飛び込んだのかもしれない。
しかし、荒くれ者二人は僕の顔を見ると、慌てて走り去ってしまった。
「ありがとうございます。もう、なにもかもムチャクチャで……」
彼女は荒い息を吐きながら僕の肩に手をついた。
「さっきのは浜小屋連合の連中だよね?」
エランジェスが遙か彼方から連れてきた連中は人種も服装も地つきのゴロツキたちとは異なる。
僕たちがエランジェスを殺害したのを見ていて、それで逃げ出したのだ。
「そうです。うちの店もエランジェスさんの系列になったから、地回りでもあったんですけど、さっき突然店に来たと思ったら金目の物と女の子たちを集め始めて……」
そうして、追い出される街から少しでも財産を持ち出そうとしたのかも知れない。
まさに行きがけの駄賃というやつだ。
しかし、目を血走らせたディドが徘徊しているので、命が惜しければなにもかも放り出して一刻も早く逃げ出すのが正解だと思うのだけど、価値観というヤツは人それぞれなので難しいのである。
「エランジェスさんが戻って来てからは、しばらく平和だったんですけど、どうしたんでしょうか」
彼女は険しい表情で騒乱の花街に向けて呟く。
確かに、並び立つ者のいない暴君には誰も逆らおうとしない。結果として秩序が保たれる。
在郷の小規模暴力組織も、難民で構成されていた愚連隊も、娼館経営に乗り出した商人たちも、女にたかる半端者も、個人の遊び人も、誰も彼もがエランジェスがいなくなると声を上げて自らの利益を確保しようとし、そうしてエランジェスが戻ってくると一様に黙った。
自ら言葉を飲み込んだのか、ぐぅの音も出ない程やり込められたのか、息の根ごと止められたのかはそれぞれだろうが、とにかく物音を立てなくなった。
その生き残り連中がまた、騒ぎ出す。浜小屋連合の撤退に伴う混乱も重なればしばらく賑やかだろう。
「とはいえ、大通りだ。すぐに警備兵が飛んでくるよ。それに、ここまでの騒ぎはエランジェスさんが死んだ今だけだよ」
揉め事はすぐに地下へ潜り、息を潜めた暗闘に変わっていく。
兵士たちの多くは北方難民から取りたてた連中で、以前の冒険者上がりで揃えた精鋭と腕前の程は話にならないが、とにかく頭数は大勢になった。
あるいは治安の維持において、もしかすると個人の練度よりも十分な人員が効果を発揮する事も多かろう。
「え、エランジェスさんが? あの人って、死ぬんだ……」
「そうそう。元娼婦からちょっとね。最後は火まで着けられて」
僕が言うと彼女はへぇ、と驚いていた。
気持ちは少しわかる。
まして、僕よりもこの花街に深く長く暮らす彼女にとってエランジェスは良くも悪くも特別な存在だったのだろう。
「とにかく、気を付けてね」
などと言っていると、兵士たちが怒鳴りながらやってきて暴徒を蹴散らす。
暴徒たちも真正面から歯向かう様子はなく、我先に逃げ出し始めた。
少なくとも、今この場所での騒ぎには水が打たれたらしい。
様々な取り調べなどが行われ、気軽に罪を犯した者に対しては、法の側から気さくに罰を贈られることだろう。
ディドの殺人などについてはフォローすべきか、それとも放っておけばよいのか、話してみなければならないが、まあ市民であるディドが市民権を持たぬ余所者に対して何をしようと、ある程度のお目こぼしはあるだろう。
この都市のルールは常に市民権を持つ者に対して有利に働くよう調整されているのだ。
と、警備兵の最後尾を堂々と歩きながらついてくる男が目に入った。
いや、見たくはなかったのだが、嫌でも目立つので思わず見てしまったのだ。
「おい、エランジェスを殺したらしいな」
手を振りながら大声で言うのだけど、花街でそういうことを言うのは止めてほしいと心底から思う。
聞こえた者が一様に僕の方を見ており、先ほどまで横に立っていた娼婦も口を開けて僕から離れていた。
「ロバートさん、誤解です。それは僕じゃなくて、知り合いのゼタという元娼婦がやったことで……」
精一杯反論するのだけど、誰も聞いていない。
誰より、ロバートには届かない。
「そんなことはどうでもいいんだが、丁度オマエにも相談があったんだ。ほら、ジジイども。こいつが俺の後見人だよ」
ロバートが横に並ぶ三人の老人たちに僕を紹介した。
いずれも、六十から七十前後といった高齢の男たちで、髭も頭髪も真っ白だ。
しかし、どれもこれも背中も曲がっておらず、何より強者特有の雰囲気を纏っている。
この男に誰かを紹介されてロクな目に遭ったことはない。
僕は彼の言葉に応えず、知らぬふりをして逃げるのだったと後悔するのだった。
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