第522話 大声
地平線の向こうからメッシャール軍が姿を現したのは十二日が経ってからだった。
アスロの読みよりも遅かったのは様々な遅滞作戦のうちどれかが功を奏したのだろう。
「ほら、騒ぐな。調子が悪くなるぞ!」
ハメッドが大きな声で怒鳴り、周囲の動揺を抑えつけた。
しかし、その様相を見たら誰でも騒ぎたくなるのではないか。
地平の一部をメッシャール軍が黒く染めているのだ。
「ううむ、やる気やなぁ。分かれていた別の軍団とも合流してるわ」
僕の隣でユゴールが呟く。
目つきは厳しく、手が自らの顎髭を撫でているのは動揺の現れだろうか。
「アスロ、あれは何人くらいいるの?」
僕は少し離れて敵を見つめるアスロに尋ねた。
直前まで泥作業をしていた為、彼はひどく泥にまみれている。
「さあ、たぶん五万人はいないと思うけど」
「弾丸、足りひんのう」
女傑のリリーが渋い表情で呟く。
僕も改めて戦場となる平野を見回した。
五歩分ほどの幅で川から水を引いた水堀が二重に渡っていて、その内側には木柵がある。
橋の付け根に垂直に並べて埋められた丸太が二階建てほどの高さの城壁となっていた。木製城壁の内側には高く土が盛られて、高い城壁の上から向こうが覗ける様にしてあった。
更に同じような防備を持ち、川を背にした出城が上流側と下流側にも建設されている。
「あまり前に出られませんよう」
年若い金髪の少年が僕にそっと促す。
この十日で可能な限り人や組織をここに引きずり込んだのであるが、その中の一人であった。
グェンの様な迷宮上がりの連中は工作をするため別働隊としてしまったので、僕の護衛は現在『荒野の家教会』にたった五人残った暗殺者たちが請け負っているのだ。
目が開かれているのかいないのか、細目の少年は場違いの微笑みを浮かべているが、腰には大ぶりのナイフを二本携えている。
「大丈夫だよ、ゼムリ。頼まれても前には出ないから」
穏やかな口調と物腰が暗殺のための仮面なのだとしても、無害そうな外見の少年には僕も親しみを感じてしまう。
「市民兵に僧兵に傭兵に盗賊団。こっちは大体六千くらいか。向こうも二割くらいは動けんやろから四万とみて、まあ勝ち目抜群やな」
ユゴールが指折り数えながらワッハッハと笑った。
全く、なんの根拠もなさそうな笑いはしかし、頼もしさを感じさせて周囲の市民兵たちも釣られて笑っている。
「まだちょっと時間あるぞ。飯は今のうちに食っとけよ!」
ハメッドの声が砦の内部に響く。
しかし、城壁越しに敵を視認した市民兵や『荒野の家教会』所属の僧侶たちは顔を青くして食欲もなさそうだった。
※
周辺の集落にメッシャール軍の襲来を教え、この橋に誘導した。
グロリアの伝手で『荒野の家教会』の全面協力を取り付けた。
のさばる盗賊団や傭兵団と交渉し、罪を問わない事と報酬を条件に戦力に引き入れた。
時間を稼げたお陰でそのような工作が出来たのだ。
そう考えればあの夜襲で喪われた部下の命も無駄ではなかったのだろう。
メッシャール軍の侵攻経路にある村や町は食料を持った住民をこちらへ避難させたあとに火を着けさせ、井戸も埋めてしまっている。
皆でアイデアを出し合い、そうして僕が命令した。
この川を境に、人が暮らすのは困難な土地ができあがったのだ。
それで満足してメッシャール軍が足を止めるのなら、良かったがそうはいかないらしい。
彼らは威容を示す様に広く広がった。
そうして、うなり声を上げ、金属音を打ち鳴らしながら徐々に近づいてくる。
これは迫力がある。こんな連中と戦うくらいなら逃げた方がマシではないか。押しつぶされそうな気配がそんな気にさせる。
事実、兵士たちの多くが顔を見合わせて怯えていた。
戦う前に相手の戦意をくじく。互いに繰り返した嫌がらせの、これも一つなのだろう。
「会長さん、これはあかんわ。なんぞ派手なヤツを一発かませんか? このままやと兵士が逃げてしまうぞ」
苦々しい表情でハメッドが言う。
しかし、近づきつつあるとはいえまだ距離があり、魔法が届く範囲ではない。
実際に戦闘が始まればやることが沢山あり、ぼんやりと考えている暇はない。
が、今はただ相手を待つばかりだけに心理的揺さぶりが良く聞くのだ。
「もう少し待たないと出来ることはなにも……こっちも掛け声の一つも用意しておくべきでしたね」
大声は相手を怯ませると同時に自分を落ち着かせる。僕にそう教えたのはブラントだった。だから兵士たちは叫び声を上げて突撃するのだと。
「ええわい、こっちもなんか叩け。木でも金でもいいから打ち鳴らせ!」
ユゴールが怒鳴ると、ジプシーたちが身近なもので音を鳴らし始めた。
すぐに他の兵士たちにも伝わり、それぞれが様々なものを精一杯叩く。
バチバチと豪雨が降り注ぐ様に音は続き、出城の方からも音が聞こえて来た。
中には腹から絞り出した絶叫も混ざっている。
やかましくてたまらない。しかしそれでも不快じゃない。
向こうが誇示するように、こちらも戦うのだという意思を示すのだ。
気づけば僕も大きな声で叫んでいた。
そうしてしばらくの騒音合戦が終わった後、ゆっくりと戦いは始まったのだった。
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