第483話 国境

 今の季節ならもう、平原の雪は溶けた頃ですが……。

 見送り、別れの間際で躊躇いがちに告げたステアの表情の意味が東方領と北方領を隔てる山脈が見えた瞬間に氷解した。

 巨大な山脈の山頂部には真っ白な雪が厚く残っていたのだ。

 どおりで冬が来て以来、やってくる難民が少ないと思った。

 唯一整備された山脈越えの街道が雪に閉ざされれば北方領とそれ以外の王国内では行き来が難しいのだ。

 しかし、王国領内から他に北方領へ渡れる大きな道は無いという。だからこそ北方領には蓄えられた食料や物資が、どこにも持ち出されずに眠っているのだ。現物を押さえた盗賊たちも現金に換えたくて仕方が無かろう。

 いくらかは踏み固められた山道を完全な雪解けを待たずに、他の勢力に先駆けて北方領へ進入し物資を買いあさるのが僕の使命である。


「気を抜けば滑落して死にますよ」


 先頭を歩くグロリアが一行に声を掛けた。

 表面が溶けかけた分厚い氷の様な雪の上を彼女は淡々と歩いていく。流石に旅を続ける宣教師である。

 しかし、そうは言ったって僕には氷を歩いた経験などないのだ。

 僕の故郷も痩せた山の上だったけれど、冷たい空っ風ばかりが強く吹いて雪など滅多に降らなかった。

 比較的大きな街道の凍った路面は、ほんの少し進むにも藻掻くようにゆっくり進まねばならない。僕は汗を掻きながら登って行く。

 救いは背後から来る荷車隊のほとんどが北方難民から募った雑役夫であるので、凍った道の歩き方に慣れている点だろうか。

 ロバが引く荷車に重たい物が乗っていないのもいい。

 しかし、帰りはこの荷車に物資を満載して山を越えねばならぬのだ。

 

「旦那、あんまりゆっくりやってると夜までに山頂へたどり着けませんよ」


 こちらもしっかりとした足取りのグェンが僕に囁いた。

 山頂付近にちょっとした洞穴があり、山越えする隊商はそこで夜を明かすのが常なのだという。

 

「まぁ、最後尾に追い抜かれない様がんばるよ」


 登り初めて時間が経っていないのに、既に息が荒れてしまっている。

 冒険者などという、ほとんど歩くことを主にして稼ぐ僕が参っているのだ。

 振り返れば北方出身ではない人足たちがやはり滑りやすい路面に悪戦苦闘していた。

 一番最後尾にはシアジオがいるはずだが、長大な隊商の最後尾はつづら折りの山道で望むことは叶わない。

 

「ガルダ商会は本来、砂漠の隊商ですからね。雪山は勝手が違います」


 グェンは振り返り、東方領の平原を眺める。

 ガルダ商会の残党としてここしばらく、東方領北部の防衛準備と情報収集にあたってきた彼らの任務はロバートが結成した東方領軍およそ百名に引き継がれた。とはいえ、難民崩れの即席軍人に斥候として如何に行動すれば過不足がないかを教育するのには骨が折れるらしく、今もガルダ商会の元用心棒連中半分は彼らの指導にあたっている。

 グェンについてはガルダが重用していたことから有能であると判断し、ネルハから一筆書いてもらい、新生ガルダ商会に迎え入れた。

 そうすることで、他の商会や在野に散っていたガルダの部下たちもかなりの数が戻って来てくれ、さらにご主人がラタトル商会から人手や道具を回してくれたので何とか今回の北方行に格好がついたのだった。


 ※


 登りと同様に、あるいは更につらい下り道を経て、僕たちは足掛け四日の登山を終えた。

 雪にまみれたのは二日間だが、雪が切れた低地に入ってからもなだらかな下りが長く続いたのだ。

 裸の岩肌が見えたときも飛び上がりそうに嬉しかったが、ようやく緑の草原地帯に到達した時、僕は嬉しくて涙が出てしまった。

 二度とこんな雪道を通りたくない。

 帰りはもう少し待って、雪が溶けてからにしよう。僕は密かに心に決めた。

 四百人ほどの隊商は幸いに、一人の脱落者もなくこの行程をこなし、責任者としてこれも嬉しかった。


「それじゃ、会長さん。俺らはこの辺でばらけます」

 

 二十名ほどの冒険者組合から選抜された面々が僕の近くに集まってきて言った。

 彼らは僕と違う命令をロバートから受けているらしい。

 

「うん、気をつけてね」


 達人の認定には到達していないが、地下五階より下まで降りている連中だ。

 簡単には後れを取ることはないだろうが、それでも声を掛ける。

 彼らの任務について、僕は何も知らされていない。

 きっと、各々が目的を果たしたらバラバラに帰還するのだろう。

 

「いいけん、さっさと行こうや。寒かって!」


 近くの荷車から毛布にくるまったモモックが喚いた。

 厚着を纏った上で迷惑そうなコルネリを抱き、ガタガタと震えている。

 冒険者たちはその様を見て、苦笑して立ち去って行った。

 今回の同行を誰に頼むか。真っ先に選考から落としたのが南方出身で寒さに弱い獣人組だった。

 にもかかわらず、ロバートから話を聞いたモモックは物見遊山で是非行きたいと主張してきたのだ。

 シガーフル隊は冒険者組合の広告塔としての仕事があり、教授騎士は業務再開を命じられ動けない。

 それを差し引いても教会運営の責任があるステアは都市を離れられず、子供を産んだばかりの小雨も同様である。北方で心に傷を負ったベリコガもあまり無理をさせたくはない。

 そうなると、腕が立って北方を案内できる人材として消去法に残ったのがグロリアだった。

 さらに、グェン推薦の用心棒が数名いて、あとは商会の人間と雑役人足で隊商は構成されている。


「間もなく北方街道最初の宿場に到着します。本来であれば、補給と休憩が出来るだけの小さな村ですが、情勢が情勢ですから油断は出来ませんね」


 グロリアが指で示す先には確かに集落が見える。

 一見して穏やかな雰囲気のそこが見たままならいいのにな。

 そんな事を考えながら僕たちはその宿場へ向かうのだった。

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