第460話 息詰まるクロアート

 ずっしりと重たいリュックを肩から下して、僕は一息ついた。

 クロアートも同じように荷袋を下ろしてため息を吐く。

 迷宮の外は明るいが、色素の明るい空を見ればなんとなく朝だというのはわかった。


「俺の分はあそこに置いておくぞ」


 ディドは迷宮詰め所の前に設置されたテーブルを指して言う。

 前衛組はそもそもの装備品に相当の重量があり、また動きを制限しないためにも背負っている戦利品は少なかった。

 カロンロッサは後衛であるものの多少の装備品を持ち、また罠解除用の専用器具も嵩張る関係で運搬量は少ない。

 

「はい、お願いします」


 僕が答えると各々が二つ三つずつの戦利品を机に置き、鎧を預けるために詰め所併設の倉庫に向かった。

 取り残されたのは僕と僧侶のクロアートである。

 その顔はカロンロッサに蹴られたまま、未だに痛々しく腫れていた。


「あのさ、その顔はなんで治療しないの?」


 地面に下したリュックを再び背負い、件のテーブルに向かって歩きながら僕はクロアートに尋ねた。

 今回の迷宮行には独特の緊張が存在したものの戦闘自体は上手い具合に転がっていたので回復魔法が尽きたということはあるまい。

 並んで歩きながら、クロアートはフムと呟いた。

 

「なぜ、と問われれば浅ましい我が身ゆえとお答えしましょう」


 クロアートはどことなく萎びた眼球で僕を見据える。

 テーブルに着き、あらためて荷物を下ろすと彼は迷宮を指で示した。


「あれは危険です。危険そのものといってもいいでしょう。しかしア師」


 彼はディドを先生、カロンロッサをカロンロッサ師と呼ぶのでア師とは僕のことだろうか。

 

「もしあなたが私を殺そうと決心し、行動に移した時。あなたも私にとっては危険となります。今回の迷宮行で理解しましたが、あなたは私よりもずっとお強い。ですから、私が多少手向かいしたところで殺される結末には違いがないでしょう」


 この男はいったい、なぜ物騒なことを言うものか。

 僕は思わず怪訝な表情を浮かべてしまった。

 

「また、百万の矢が降り注ぐ戦争はその場所が危険となります。どれもこれも危険で恐ろしいことです。私は小心者、臆病者、そして惨めな卑怯者ですからそれらの危険と接する時にはこの薬が必要になるのです」


 クロアートは慈愛に満ちた手つきで自らの胸を優しく押さえる。

 丁度、薬の入った小袋がぶら下がっている辺りだ。


「もちろん、あなたが私へ殺意を抱いていないことを私は知っており、さらにここは百万の矢が降る場所でもない。なにより、迷宮の外である。それは事実として受け止めます。よって、今はこの薬を用いるべきではないのだと頭で理解しているのです。耐え難い渇きに襲われようと、平安の内にあるときはそれも試練として受け止めます」


 クロアートは苦笑しながら回復魔法を唱えた。

 すると腫れていた頬が治癒し、元の顔に戻っていく。

 すっかり怪我が消えて去った顔には、代わりに自嘲的な笑みが浮いていた。

 

「しかしながら例え迷宮に入ろうと、あなたに命を狙われようと、百万の矢に狙われようとそれは怪我を負うということではない。危険のそばに無傷で佇むということもあるのです。一瞬後には血反吐に塗れて転がっていることも有り得ますが、しかしその前までは万全の状態で生きていますね。それが健全かということに疑問を捨てきれないのです。つまり、蓄積すればいずれ死に至るダメージを負うことで生き死にの狭間に立っていたいのだとご理解ください」


 真っ直ぐ見つめてくるクロアートの主張がさっぱり理解できないまま、僕は曖昧に相槌を打つ。

 

「ア師ほどの方ならご存じかと思いますが『東部書簡連盟』は偉大なる大聖が東部に住まう複数の弟子たちとやり取りをした膨大な量の手紙が教えの元となっています」


 残念ながらア師ほどの方でも存じ上げない情報を並べながら、クロアートの右手は左手の袖を払っている。そこに泥がついてでもいるかのように執拗に。

 何もついていない布が何度も無意味に擦られ続けている。

 

「私が直接所属する『礎の旅人』では開祖様が偉大なる大聖と、生と死について水の様に深く、火の様に激しくやり取りを交わしました」


「コラ!」


 突然の怒鳴り声に振り向けばカロンロッサが眉を吊り上げて立っていた。


「真面目に聞くんじゃないよ。アンタも薬漬けになりたいの?」


 明確な否定に、クロアートは無言で表情を歪める。憎悪や悲しみといった感情ではなく、ただ少し困ったような顔をして空を見上げた。

 まるで、急な雨に降られたような男の顔だと僕は思った。

 

「申し訳ありません、カロンロッサ師。ア師からの問いに答えているうちに逸脱しました。ア師も、失礼をお許しください。私も自らの信仰を他人に説くべきでないことくらいは理解しているのです。ただ、誰にも告げず自らだけが信仰に殉じたことを知っていればいいと」


「ディドがお人よしじゃなければアンタはとうに見捨てられているんだからね。それだけは覚えておきなさい」


 カロンロッサの言葉にクロアートは無言で何度も頷いた。

 おそらく、カロンロッサの言葉を素直に受け止めている。

 恩義と信念、それに断ち難い薬に翻弄される男は体が左右に割れるのを恐れているのか。彼はいつの間にか胸の前で両手をきつく結んでいた。

 しかし内面の混沌が噴出するのを耐えられない様に両の瞳だけは忙しく揺れ動いていた。

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