第431話 私の夫は
短剣を持つ手が、明確な殺意と共に引かれた。
刃を残して。
喉に食い込んだ刃がポロリと落ち、軽くなった柄に驚いたのか、背後のグロリアは動きを止めた。
ウル師匠が使う空間断裂の魔法が間に合い、短剣の刃を半ばから切断したのだ。
ウル師匠の使ったそれに比べれば、切断できる範囲がずっと小さいがそれでも死なずに済んだ。まったく、ウル師匠のおかげだ。
とはいえ口を押えられてていて、このまま首を捻られたって結果は一緒である。
と、ルガムの判断は素早かった。
事態の推移が飲み込めないのか、涙を流したまま硬直しているステアを抱え上げるとそのまま投げつけてきたのだ。
「うぎゃ!」
可愛らしい顔に似合わない悲鳴を上げて飛んでくるステアを前に、グロリアは僕を突き飛ばした。
たたらを踏んで振り返れば、グロリアがステアを受け止めている。
『流星矢!』
僕の唱えた魔法は複数の魔力球を生み、動きを止めたグロリアの膝から下に降り注いだ。
「ぐぅっ!」
ふくらはぎに血の花を咲かせ表情を歪めながらも、グロリアはステアを落とさずがっくりと膝をついた。
ほとんど息も出来なかった一連の流れが落ち着き、僕は大きく息を吸う。
危うく死ぬところだった。視界の隅に映る刃の破片を見て、背筋が寒くなる。喉元を触ると、刃が食い込んだ分、皮膚が裂けて血が流れていた。
『傷よ、癒えよ』
回復魔法で傷を治し、グロリアから距離をとる。
『荒野の家教会』がどんな団体だったのか、さんざん思い知らされたはずだったのに僕はいつの間にか忘れていた。
彼女たちは意に添わぬ他者を排除するのになんら痛痒を感じない連中である。
「グロリアさん、ステアを巻き込みたくないのであれば彼女を放してください」
言いながら、上級冒険者の死体を呼び出し、グロリアと僕の間に立たせる。
これで突然、襲い掛かられることを防ぐ。
「死体を使役するんですか。邪悪な人です」
迷いなく信仰に殉ずる。そんな覚悟がグロリアの瞳には浮いていた。
「残念ながらローム先生にも同じようなことを言われていました。そうして、こうなれば僕の間合いだ。さあ、ステアを放して」
僕の言葉に、グロリアは困惑したままのステアを優しく地面に置いた。
ステアの親しい人であるのなら、できるだけ殺したくはない。
が、向こうは剣を抜き、望まれるままに殺されてやるほど僕も寛大ではいられない。
「げ、グロリアだ!」
場違いな声は突然に響き、僕の集中力を殺いだ。
グロリアもそちらを見て驚いた表情を浮かべる。
「バロータ!」
そこには腹を大きくした暗殺者の小雨が洗濯物の入った籠を抱えて立っていた。
「ちょっと、やめてくださいよ。今の私は小雨。『荒野の家教会』とは縁を切ったんですから、もうバロータと呼ばれることはないのです。そこんところ、いいですか?」
「バロータ、あなたはこんなところで何を?」
愕然とした表情のグロリアに問われ、小雨はムッと眉間に皺を寄せる。
「話を聞かない人ですね。だからバロータと呼ばないでください。それに、何って見たら解るでしょう。今から洗濯物を干すんですよ。だいたい、グロリアこそ呑気に血なんか流して何やってるんですか。ここは小雨の家なんですから、汚さないでくださいよ!」
正しく言えば、ここはルガムの家とステアの教会である。
しかし、それだけ言って満足したのか、小雨はプイと横を向き洗濯物を干しに行ってしまった。
場には白けた修羅場だけが横たわり、なんとなく殺し合いを再開しづらい。
「待って、待ってくださいお姉さま!」
ようやく硬直が溶けたステアが喚き、グロリアに抱きついた。
「確かに私の夫は、少しくらい性格に問題のある人ですけど、それに多少は邪法の術も使いますけど……でも優しい人なんです!」
素直にほめ言葉だけを叫んでくれたらよかったのに。
しかし、グロリアは諦めた様にほほえむと、折れた短剣を捨てステアの額を撫でた。
そうして血塗れの足でステアをふりほどいて立ち上がり、僕の操る死体に触れた。
と、糸の切れた操り人形の様に死体が崩れ落ちる。
まだ魔法を解除した訳じゃないのに死体はピクリとも動かない。
「可愛いステアの愛しい人。私の負けのようです。さあ、今この場で私を殺しなさい。そうして、ステアの愛する対象でなくなれば結局私の勝ち。さあ」
言いながら、眼に灯る光は決して諦めていない。
僕は警戒を続けながら、大きく息を吸う。
「殺しません」
すくなくとも今、この場では。
「僕はあなたと違って無法者ではないので。それに、あなたのせいでステアに嫌われるのは怖い」
なにより、相手に促されるままに行動をすることを避けたかった。
「……人格者ですこと。可愛いステアに手を出しただけじゃなく、バロータまで孕ませておいて」
吐き捨てる様にグロリアは言うのだけど、大きな誤解である。
と、ものすごい勢いで洗濯物を放り投げた小雨が駆けてきた。
「バ、バカを言うな! 小雨の夫はノラさんだー!」
顔を真っ赤にしての抗議は周囲に響きわたるのだった。
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