第285話 上辺の会話
「じゃあ、遠慮無くお願いしますけど今晩の宿を借りてもいいですか? 強行軍でやってきたもので疲れちゃって」
笑顔を浮かべて頼むと、サーディムは再び愛嬌を取り戻して力強く頷いた。
「ええ、ええ。構いません。ノッキリス、宿舎にご案内しなさい。今晩はできる限りのご馳走でおもてなしをするんだよ」
そう言うサーディムの顔は優しげだったのだけど、ノッキリスの表情はひどく怯えて見える。
まあ、それは余所の事情なので知った事ではない。
「お言葉に甘えてゆっくりさせてもらいます。晩ご飯も期待していますよ」
互いに楽しいことなど一つも無いと解っていながら笑顔を向け合い、空疎が場に満ちる。
これ以上いても仕方が無いので、席を立ちパラゴたちにも退席を促した。
「それじゃ、ノッキリス君。部屋に案内してよ」
冷や汗で襟元が濡れているノッキリスはよほどサーディムが恐ろしいのだろう。
僕が声を掛けても反応が鈍い。
それでもノロノロと立ち上がって扉に向けて歩き出した。
「ノッキリス」
背中に投げかけられた声にノッキリスの肩はビクリと動いて固まる。
投げかけた側のサーディムは椅子に座って冷たい目でノッキリスを見つめていた。
「お客さんを案内したら私のところへ来なさい」
「……はい」
返答の声は震えていて哀れな程だった。
※
通された部屋は客間らしく、広くはないけど清潔な部屋だった。
応接セットの他にベッドが二台置いてあるので、僕とパラゴの部屋なのだろう。
「マーロさんのお部屋は隣になります」
覇気の無い声で告げるノッキリスに礼を言うのだけど、彼は部屋を出て行こうとしない。
気にせず、僕はリュックを下ろしてフカフカのソファに腰を下ろした。
部屋は二階にあって、窓には木板が付けられていたが、パラゴによって開かれ、傾きかけた日の光が射し込む。
マーロも自分の荷物と短剣を壁に立て掛けると流石に疲れたのか僕の向かい側に座った。
「あの、証文を返していただけませんか」
消え入る様な声でノッキリスは呟く。
サーディムには存在も明かさなかった証文。それが彼の心に影を落としているのだとすれば、大変申し訳無い気分になる。
「うん、いいよ。約束の謝礼を払ってくれたらね」
その言葉に、顔を上げかけたノッキリスの表情は渋く歪んだ。
「わ、私はあなた方に助けられて感謝をしています。今は難しくても必ずお金は支払いますから……」
一応、証文には支払期限と遅れた場合の利息が記してあるので、今支払えなければ今後の支払はいよいよ難しくなるだろう。
「もちろん、信じているよ。だから証文は支払が終わった時に渡そうと思っているんだ」
実のところすぐにこの国を去る僕が金を回収できる見込はない。それはノッキリスも解っているはずで、では何故そこまでこだわるのか。
僕が証文を誰かに売り払って換金するのを恐れているのだろう。
ノッキリス個人の貸借であるので、証文がタチの悪い筋にでも渡れば彼は追い詰められる。
「アナンシさんは何も間違ったことは言ってないだろ。ほら、番頭のところへさっさと戻れよ」
パラゴが自分の雑嚢に手を突っ込みながら顎をしゃくると、渋々といった様子でノッキリスは部屋を出て行った。
扉が閉まると同時に黙っていたマーロが不満げに口を開く。
「可哀想じゃないですか。あの番頭も払う気はないみたいだし、回収の見込がないならもう渡してあげたらどうです?」
可哀想。
どうもマーロには僕が嗜虐心から彼を虐めているように見えたらしい。
「おい、アナンシさんに失礼だろ」
言いながらパラゴは紙束と黒鉛の筆記具を机に並べる。
唇に指を当てながら静かにする様、僕たちに示すと、部屋の隅にある小さな花瓶台をそっと動かした。
その裏の壁には小さな穴が空いており、金属製の輪がはまっている。
パラゴは花瓶台を静かに戻すと、こちらに歩いてきながら言葉を繋げた。
「路銀を多めに持って来たっていったってありすぎて困ることはない。ここから旅はまだ長いんだからな」
パラゴは椅子に座ると筆記具を拾い紙に文字を書き出した。
『伝声管だ。聞かれている。余計な事は喋るな』
なるほど、達人級の盗賊とはこの様に目端が利くのか。
山賊の詰め所をあっさり見つけたときといい、僕はすっかり感心してしまった。
「そういうこと。君たちへ渡すこづかいも増やせるし、賄賂なんかも必要だろうから」
マーロは押し黙ってしまったのだけど、僕まで黙るわけにはいかない。
『ここは前線に近い。上手くやればいろいろ探れるかも』
人間が戦うにはいろいろな物資が要る。食料や武具、消耗品などだけど、それを誰が運んで来るのか。
当然、御用商人たるセンドロウ商会だ。
前線に近く、軍にも顔が利く商会の番頭がその気になれば何が出てくるのかは非常に興味深い。
「とりあえず今晩は歓待してくれるらしいから、存分にご馳走になろうぜ」
『何が入っているか解らないから、俺が食う物以外は絶対に口に入れるな』
盗賊の超感覚で毒を見分けることも出来るのだろうか。
マーロは無言でコクコクと頷いた。
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