第267話 解呪

「私たちにとって神とはつまり、規範であってあのような……存在ではないです」


 ステアにも失礼な言葉を避ける程度の気遣いがあってくれて助かった。

 存在が違いすぎて考えがたいけど、万が一怒らせでもしたら蟻を踏みつぶすよりも容易く僕たちの人生が終わる。


「それは解るんだけど、もう収拾つかないからさ。ゼタを助けると思ってあちらの……」


 神と表現すればステアたちを刺激しそうで言葉使いが難しい。

 とにかく、撤収するためには一通りのことを穏便に済ませなければいけない。


「あの方にゼタの呪いを解いて貰うようお願いしてくれないかな」


 一人一回のお願い事が絶対だと思ってはいけない。

 あの猿が願いを叶えてくれるのは食後で上機嫌だからに過ぎないし、その機嫌が続く保証もない。

 ほんの気まぐれで、僕たちがデザートになることも十分に考えられる。

 だから、一切の雑事はとっとと済ませてこの場を立ち去りたい。

 マヌケなやり取りをしながら、僕のシャツは冷や汗でぐっしょりと濡れていた。

 視界の端ではノラがぐったりとうな垂れているのだけど、正直にいってそれどころではない。

 もっと気安い相手ならとっとと小雨を説得しろと言って尻を叩くところだ。無理だけど。

 

「じゃあ、もし私が分派を起こしたら入信してくださいますか?」


 この場で話す事ではない。

 でも、ステア個人が何かやるのなら支えるのは当然とも思う。


「解ったから、頼むよ」


「では、私と結婚してくれますか?」


 ステアは不敵な笑みを浮かべた。

 よく見れば彼女は手足が震えている。決して、この状況を理解していないわけではない。

 ただ、この状況にこれからの人生と命を賭けているのだ。


「ルガムが怒ると思うけど……」


「一緒に説得しましょう。大丈夫、きっとわかり合えます」


 ステアの様な可愛い女の子に求愛されるのは嫌ではない。嫌ではないのだけど、いろんな状況が立ちはだかるだろう。

 でも、ステアは覚悟を決めてしまっている。

 僕はルガムと生還を約束しなかったか。ここにいればいるだけ死の危険は高まっていく。

 もっとも重要なことは生存か。不貞を避けることか。

 

「とにかく、解ったからお願いして!」


「その解った、というのは了承と捉えていいですね」


 うう、曖昧にして逃げるのも許さないらしい。

 

「約束するから。だから……」


 僕の言葉が終わるよりも早く、ステアは僕の手を掴んだ。

 

「確かに、約束しましたよ。地獄に堕ちるときは一緒です」


 そういうと、猿に向き直り深々と頭を下げる。

 

「お願い致します。ゼタさんの声を元に戻してください」


 猿の目がゆらりと動き、視線がゼタに刺さった。

 瞬間、ゼタの喉に仕掛けられた超高度な呪界があっけなくほどけて消滅した。 

 

「あ、ああ、あああ」


 喉を押さえながらゼタは発声を確認する。

 

「ゼタ、お願いだから無礼なものいいはやめてよ」


 ほとんど付き合いのない級友ながら、今は世界中の誰よりもずっと信じたかった。

 

「私だって馬鹿じゃないのよ。こんな所まで来たんだもの。頭くらい、いくらでも下げるわ」


 不機嫌そうに言って、ゼタは僕の肩を殴ると猿に頭を下げた。

 

「お願いします。私の体を男に作り替えてください」


 猿はムニャムニャと首を揺すり、長い舌を出す。

 人差し指を伸ばすと、瞬間まばゆく光った。

 暗視に慣れた目はもろに焼かれ、強烈な痛みに顔を隠す。

 目を庇った腕さえも透過してまぶしさを与えた光は数秒で消え、暗闇が戻るとそこには全裸の男が立っていた。

 薄い胸板、筋肉の付いていない華奢な体、そしてぶら下がった陽根。

 痩せすぎた体つきは確かにゼタと共通しているが、その顔や髪の色はゼタと異なっていて、判別が付かない。


「ちょっと、服を貸しなさいよ!」


 前言撤回。

 その物言いは間違いなくゼタのものだ。

 しかし、体を少しいじるどころではない。全くの別人である。

 一体、どういう力でそれをなしたのかは不明だが、人間には不可能な、まさに神の御業であることは疑いようもない。

 ひったくるように服を着ると、ゼタは満足げにほほえんだ。

 だけどこれで終わりだ。

 あとは刺激しないようにこの場を去る。

 と、突然コルネリが甲高く叫んだ。

 僕は慌ててコルネリの口を塞いだのだけれど、猿は目を細めてコルネリを見ていた。

 ズルリ、と上体を起こすと僕に向かって手を突き出す。


 来い。


 ひどく不明瞭な声が短く告げる。

 その手のひらは巨大で、おそらく僕なんて簡単に握りつぶせそうだった。

 助けを求めるようにステアやノラを見ても、皆どうしていいか判断が付きかねているようだった。

 近づいたら食われるかも知れない。逃げれば追っては来ないかも知れない。

 そして、逆らった瞬間に殺されるかも知れない。

 僕は意を決して猿に近づくと、手のひらの前に立った。

 太い指がゆっくりと動き、人差し指が僕の頭、中指が胸のコルネリに押し当てられる。

 異形の怪物を間近にして、僕の腰は抜けてしまいそうだ。

 しかし、かまわずに猿は指先に高密度の魔力塊を作ると、僕の頭に押し込んできた。

 苦痛はない。おそらく、害意もない。

 人間を完全に作り替える彼にとって、僕とコルネリに施した術など児戯にも値しないだろう。

 だけどそれで理解できた。

 先ほどコルネリは自らの願いを叫んだのだ。

 望みは僕との意志疎通。コルネリと僕はこうして、精神面で直結したのだった。

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