第266話 奇跡の猿
長い待機時間もやがて終わりが来る。
巨大な猿は大半のトロールを飲み込むと、最後に神官をかみ砕いてゲップを吐いた。
だけど、僕たちが期待したような変化はなく、猿はおおあくびをして目を閉じかけている。
「ちょ……ちょっと寝ないでよ」
ゼタの言葉に九割がた閉じていた猿の瞼が開かれた。
「願いを叶えてくれるのを待ってるんだけど!」
しかし猿はギョロリと目を動かすだけで、再び睡眠に向かおうとしていた。
ゼタは悔しそうに歯を食いしばり、今にもつかみかからんばかりなので僕はそっと服の裾を掴んだ。
外見上は間抜けだが、猿の強さは次元が違うものなのだ。
怒らせるどころか、ほんの気まぐれでさえ僕たちは消し飛んでも不思議ではない。
「もう、あきらめて帰ろうよ!」
僕は小声で仲間たちに告げた。
長い食事が終わるまで待ち、これから睡眠まで待つのはさすがに辛いし、なにより僕個人の要件はある程度果たされている。
ノラたちも半ばあきらめた表情を浮かべており、真剣に怒っているのはゼタだけだ。
「食事が終われば願いを叶えてくれるって言うから待ってたのに!」
「お願いだから大きな声を出さないでよ」
瞬間、ゼタの口から言葉が消えた。
戸惑いながら口をパクパクと動かすゼタに、僕は冷や汗を流した。
お願いだから。
その言葉が受理され、叶えられてしまったのだろうか。
僕たちは一様の表情を浮かべて顔を見合わせた。
反応はなくても聞いている。そして、叶えてくれる。
ノラの反応は早かった。
刀を鞘ごと取り外すと、地面に座って頭を下げる。
「私は仇を追う者。願わくば仇の所在を教え賜りますよう伏して頼みます」
凛とした声が広間に響いた。
猿は億劫そうに上体を起こすと、ムニャムニャと呟く。
「遙か下。追うのならその元へ飛ばしてやろう」
非常に聞き取りづらい言葉を受けて、明らかにノラの背中が強ばった。
やがて、ゆっくりと頭を上げたノラは常ならぬ不安を顔に浮かべていて、額には玉の汗が浮かんでいた。
「私の力でその者を討ち果たせますでしょうか」
「ムリ」
ムニャムニャとした断定にノラは顔を歪める。
「ではここにいる者全員であればいかがか」
「ムリ」
勝手に数に入れられては困る。
しかし、それも空しい加算で結果は変わらないらしい。
「……では、結構でございます。ありがとうございました」
複雑な感情が入り乱れる表情。
口の端では噛み破られた唇から血が出ている。
彼は敵討ちに人生を掛けていて、それがかなわないのだとすれば思うところもあるだろう。
でも、僕が巻き込まれないのならそれでいい。
僕の背中がバシバシと叩かれ、振り向くとゼタだった。
目を凝らすまでもない。彼女の喉には音を吸い取る呪いが掛けられていた。
圧倒的な密度と精妙さ、そしてしょうもなさに力が抜ける。
魔力の薄い地上に居続けても数十年は残りそうな強度だ。
魔力を直接いじっての解呪を試みたものの、全く歯がたたなかった。
本格的に解呪しようと思えば一号かウル師匠並の素養と数ヶ月単位の時間が必要だろう。
「あの、すみません。彼女の声を戻して貰えませんか」
ノラほどではないけど、僕も恭しく頭を下げた。
猿の返答は鼻息が一つ。ゼタは変わらず無言のまま背中を叩いている。
「お願いをなかったことにするのはダメなんでしょうか?」
ゼタを諫めながらステアが呟いた。
そうかもしれない。それならそれで彼女の願いから先にお願いしてみるか。
「じゃあ、あの。このゼタって女の人を男にしてほしいんですけど、お願いします」
しかし、猿は反応を示さずにゼタに変化もない。
ゼタが不満げな表情で僕の尻を蹴ってきて痛い。
「ダメみたいだよ」
結論が出たなら諦めて帰りたい。
こんなに深いところまでやってきて命を落とさなかったのだ。声くらいくれてやればいい。
「願わくば、俺に新しい籠手をくれ」
カルコーマが言うと、どこからか真新しい籠手が降ってきた。
なんの変哲もない、普通の籠手である。
「願わくば、新しいシャツもくれ」
しかし、続けての願いは無視された。
「一人一回、ってことだな」
籠手を拾うとカルコーマは手を突っ込んだ。
この男には躊躇というものがないのだろうか。
「じゃあ残りはゼタさんと私たちですか」
ステアと小雨は一様に嫌そうな表情を浮かべた。
「私たちはすでに信仰の対象を持っています。あのような怪物にものを願うなど……」
小雨が忌々しげに吐き捨てた。
信仰というのはそのようなものだろうか。それでもどちらかにはゼタの回復を願ってもらわないと僕への攻撃が収まりそうにない。
しかし、今更ながら僕は自分の願いをくだらないことに費やしてしまったと気づき、情けなくなった。
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