第183話 蜜酒
娼館から通りへと女が一人飛び出してきた。すぐにそれを追って一目でそれとわかるゴロツキも転がり出てきた。
女が何事か叫びながら周囲に助けを求めるも、関わり合いになる事を恐れた通行人たちは目も合わせない。
やがて女は捕まり、馬乗りになった男の拳がその顔に降り注ぐ。
周囲にはさぞ気味の悪い音が響いていることだろう。
やがて、女が突き出した手が男の顔を引っ掻き、のけぞった男から女は辛くも逃れ、立ち上がった。
そのまま、店の前に座り込んだノラに助けを求め近づき、切り捨てられた。
「ああ、もったいない!」
その光景を通りに面した建物の四階から見ていた老爺が呻く。
横には並んでエランジェスも階下を眺めている。
若く、精悍なエランジェスと並べば際立つが老爺は異貌の持ち主であった。
小柄で、極端なやせ形の老爺は、申し訳程度の白髪を除けば肌も爪も唇さえも泥水の様な色をしており、節くれだった関節は動く度に音を立てて軋んだ。
しかし、餓死した死体のような体でありながら落ちくぼんだ眼窩では濁った眼球が爛々と生を主張している。
「ほら、無理だっただろ」
エランジェスがため息をついて肩をすくめた。
「しかし、エランジェス様。ハンク様が殺されてなにも手を打たぬのもこのキトロミノスといたしましても顔が立ちませんでな」
そう言うと老爺は近くの椅子に腰掛けた。
エランジェスは他の者の前では決して見せる事のない親しげな笑みを浮かべた。
「そのせいで爺さんの部下が死んじまったら、大損だろうよ」
エランジェスが言っているのは先ほど切り捨てられた娼婦についてである。
正確には娼婦ではなく、キトロミノスが率いる女暗殺者集団『蜜酒』の暗殺者なのだが、隠し持った毒針を突き立てることもなく返り討ちに遭ってしまった。
大陸西方に本拠地を置くキュード・ファミリーの親組織はキトロミノスと『蜜酒』の他にもいくつもの暗殺部隊を抱えていると聞くが、エランジェスは商売柄、女で構成される『蜜酒』を多用していた。
以前、キトロミノスに聞いたところによれば配下を一人育てるのにかかる費用は驚くほど安かったが、適性のある者を見つけるのが難しく、五十人ほど子供を仕入れ、暗殺者に育つのは一人か二人だと言っていた。
適性のない少女たちはエランジェスが高値で買い取る事でどうにか『蜜酒』は活動出来ているので、お互いが生命線を握り合っているといっていい。
「まあ、先ほどのは相手に問題がありましたわな」
キトロミノスは鼻で笑い、傍らの水差しから水を飲んだ。
「配下の者共を都市中に放っておりますが、またそこかしこでくせ者が屯しておるらしいですな」
常であればエランジェスに呼びつけられ、標的を指示されるのであるが、今回はエランジェスの危急であると聞き、呼ばれてもいないのに馳せ参じていたのだ。
『蜜酒』の一行の他に荒事を専門とする用心棒も数名連れて来ていた。
「爺さん、落ち着けよ。アンタらを二年やそこら養う金は残しているから」
エランジェスも空いている椅子に座った。
娼婦が客を取る一室だ。椅子の質など気にする者も皆無であるので最も安く数が揃う商品を買いそろえていた為、高い音で軋む。
「実際、参ったぜ。ハンクが殺され、寺院はなんだかんだと理屈をこねて蘇生拒否だ。よほど皆殺しにしてやろうかと思ったぜ。しかし、業突寺院と揉めるのはうまくないからおとなしく帰ってはきたが、次は花街中の店への品物の販売が停止だ。水物がなけりゃ花街はあっという間に干涸らびちまう。あげく、俺を落ち目と踏んだのか奴隷商の連中も顔を出しやしない。あっという間だぜ。こりゃとっとと逃げ出さないと誰に殺されるか解ったもんじゃねえな」
「お言葉の割に随分と楽しそうですな」
キトロミノスの指は満面の笑みを浮かべるエランジェスの顔を指していた。
「わかる? ここんとこずっと退屈だったんだよ。ハンクにゃ悪いがまたやり直せると思えばどうしてもな……」
ノウハウも金もツテもある。エランジェスは返り咲けることに一片の疑念も持たない。ただ、自分に対して不義理な態度を取った連中に報復する瞬間が脳内に浮かび笑みが止まらなかった。
「それでは早々に逃げますかね。どこで体勢を整えましょうか?」
「慌てんなよ。少なくとも都市の上席連中は俺の命を狙っていやしねえ。腐っても大幹部の俺を殺しちまうと後が怖えんだろうよ」
組織が抱える戦力は大きく、隠し持った暗器は鋭い。
キトロミノスはそれもそうだろうと頷いた。
そうでなければ通りでこれ見よがしに陣取る剣士が押し入ってきているはずだ。
「というわけで、両手を挙げて出て行く。戻って来るときには俺のケツに蹴りをくれやがった連中の首を両手に掲げてやる。それだけだ」
そういうと、エランジェスはポケットから紙切れを取り出した。
「郊外の農場に金塊を隠してある。一部だが、爺さんの足代と配下の飯代くらいは出る。足りなきゃまた言ってくれ」
言って差し出す地図をキトロミノスは恭しく受け取る。
「これはこれは。無遠慮に押しかけたジジイにありがたいお言葉。さて、貰いすぎても夢見がわるいですからな。ワッシからも少しお返しを」
キトロミノスが両手を叩くと、扉が開いて大きな男が一人入ってきた。
キトロミノスに劣らぬ異貌を持ったその男にエランジェスは一瞬、息を呑んだ。
潰れて平たくなった鼻、虫こぶのような耳、何度も割けた額、盛り上がった僧帽筋、おそらくは物の殴りすぎで変形した拳。
尋常な人間ではないのが一目でわかる。
「いかがですか。私が個人的に飼っております拳奴でございます。十頭の猛獣を素手で引き千切り、武装した兵士も五十人を相手に完勝します。彼の地では強すぎてこれ以上の試合が成立しないと言われた怪物です。まったく何もせずに逃げたのでは腹の虫も収まりませぬし、こいつで下の剣士を屠って行きましょうや」
キトロミノスの顔には邪悪な笑みが浮かぶ。
その目に宿る生気を見るにまだ百年は死にそうにない。
「女衒としては使えねえな。ちょっと目が小さい」
エランジェスはどうにか文句を継げた。
拳奴は口も開かずに、分厚い瞼でエランジェスを見つめていた。
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