第170話 デステンプラ―
東洋坊主はやや不機嫌な面持ちでため息を吐いた。
だが、それでも心の水面はすぐに静寂を取り戻していく。
周囲には巨大なムカデの一部が散らばっていた。
およそ巨木のような胴回りのムカデは東洋坊主を見かけると、すぐに戦闘を仕掛けてきた。
岩も切断しそうな鋭い顎、地面を溶かすほどの猛毒、無数の足からくる速さ、それに長く不規則に動く胴体。
その全てに東洋坊主は興奮し、事実として久しぶりに苦戦を味わうことが出来た。
一瞬の隙に東洋坊主を締め上げた巨大ムカデは今までに遭遇した魔人や猛獣を遙かにしのぐ怪力を示した。
東洋坊主が全身に気を漲らせ、体を鋼鉄よりも硬くしていなければわけもなく潰れてしまっていただろう。
しかし、節足動物は脆い。
力任せに分厚い甲殻を割り、胴体を裂き、二つに千切ったところでムカデはあっさりと逃走し始めたのである。
逃がしてなるものかと東洋坊主もこれを追走したが、胴体を捕まえた瞬間にムカデの頭が反転。すぐさま東洋坊主に掴まれた体を切除して再び逃走した。
頭に切り捨てられ、それでも絡みついてくる胴体を打ち砕くと、すでにムカデは逃げ去り影も形もなかった。
思えば、対手を仕留め損なったのは迷宮に入って初めての事ではあるまいか。
既に常の冷静さを取り戻した東洋坊主はそんな事を考えた。
迷宮に棲む者共の多くは逃げなど知らぬというようにひたすら獲物へと向かっていく。
そういった意味では皆、東洋坊主の同類である。
しかし、中にはすぐに逃走を企てる連中もおり、特に小さな悪魔族にそれは顕著だった。
とはいえ一度たりとも逃がした事はない。
逃走をくわだてたり、いずこかへ消え失せようとする悪魔のことごとくを拳の一撃で屠ってきたのだ。
それが初めて取り逃がした。
魔物が強くなってきた証か。
そう考えると東洋坊主は一転、嬉しくなった。
底もないような迷宮をひたすら降りてきたが、ようやく一方的蹂躙以外の戦闘ができるのだ。
冷静さを保ちながら、それでも抑えがたい期待感に表情が崩れそうになる。
と、周囲の空気が変わった。
濃密な魔力がドロリと収束していく。
同時に、散乱していたムカデの肉片も溶けた獣油のように流れ出し、球をなす魔力の中心に吸い寄せられていった。
東洋坊主は何度かこの光景を見ていた。
悪魔族の顕現である。
悪魔族は魔力と肉を練り上げ、わが現し身を形作るのだ。
東洋坊主は自分でも気づかないうちに破顔していた。
今度は逃すか。脳髄砕いてくれる。
そうして顕現が終わるのを待つ。
バリバリと空間を引き裂くように現れたのは、見慣れた悪魔族ではなかった。
悪魔族特有の牙や爪、棘などはない。
見た目は人間のそれに近い。
整った顔立ちは女といえば女、男といえば男だった。
片方の肩と胸が露出した布のような服を身に纏い、胸には乳房が、股間には魔羅がぶら下がっているではないか。
更に、背中には神々しいほどに白く、淡く燐光を放つ翼を持ち、頭上には光そのものでこしらえたような輪が浮いている。
東洋坊主は旅路の途中で読んだ書物を思い出していた。
天使か。
確か、異教の神の使徒であるはずだ。とすれば悪魔族とは真逆である。
顕現が終わった天使は周囲を見回すと東洋坊主に気付き、何事か喚いた。
それは美しい声だったのだが、東洋坊主が知る言語ではなかったために意思の疎通は出来なかった。
しかし、出来たところでやることは変わりがない。
東洋坊主にとって、目の前の存在が打ち砕けるか否か、それだけが関心事であるのだ。
かくして、神に仕える者同士の戦いは始まった。
天使が何事か喚きながら手をかざすと、猛烈な光があふれ出し東洋坊主を包んだ。
強烈な熱線は浴びた物体を蒸発させる。
だが、東洋坊主は蒸発した端から体を復元させ、横っ飛びに飛んだ。
壁を蹴って上空から天使に襲いかかる。
並大抵の相手ならそれで頭を砕いて終わりだ。
しかし、東洋坊主の跳び蹴りを天使は身を捻ってかわし、いずこからか取り出した鉄杖で東洋坊主を殴りつけた。
とても肉弾戦に向いているようには見えない体のどこにそんな力があるのだろうか。
大きく弾き飛ばされた東洋坊主は転げながら血反吐をまき散らした。
骨が数本砕かれ、内蔵もいくつか潰れている。
巨人の一撃でもこれほど重くはなかった。
瞬時に負傷を復元しながら東洋坊主は天使に向かって駆け出す。
一歩一歩にこの世を踏み破らんばかりの力を込め、砲弾のような勢いで天使に突っ込む。
しかし、その一撃も寸前で躱され、再び鉄杖による反撃。
鉄杖が腹にめり込み、胴体を半ばまで引き裂く。
それでも東洋坊主は足裏に込めた力で吹き飛ばされずに耐えた。
鉄杖を振り切ったあとの隙を突き、天使を捕まえる。
その太い腕は天使の細い首を瞬間的にねじ切っていた。
転がり落ちた頭部を踏み砕くと、しばらく明滅して光りの輪が消滅する。
同時に、今までにない力が我が身に流れ込んでくるのを感じ東洋坊主は多幸感に包まれた。神を称えるだけで極上の快楽を感じられる気がしたのだ。
およそ全てをかなぐり捨て、神の膝元でかしずこう。
ハレルヤ!
馥郁たる香りに包まれ、耳には天界の美しくも荘厳な音色が響く。
ただ、神への愛を叫びたい欲求が脳裏を支配する。
この瞬間、確かに東洋坊主は神と呼ばれるものの一端を味わい、しかし唾棄するようにそれを捨てた。
常人であれば二度と戻れない平静に東洋坊主の心境は戻っていく。
自分の仕える神仏ではない。
さらにいえば何者かに与えられる快楽など偽物であろう。
東洋坊主にとって真実の快楽とは強者を我が手で打ち砕く事である。
召使いを打ち倒したのだから、いずれ主人も出張ってくるだろうか。
叶うのならそうしてくれと、東洋坊主は異教の神に祈り、蒸発してしまった僧服の代わりに、天使の服を身に巻いた。
まだまだ、迷宮の奥は深そうだった。
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