第139話 いつもの朝

 とりあえず血塗れのコウモリを濡れた布で綺麗にする。

 コウモリは眠たいのか、キーキーと唸りながら体をよじるのだけど、本格的な反抗も無いまま作業を終わらせることができた。

 まだ他の三人は眠っていて、彼女たちを起こさないように僕はそっと小屋から出た。

 コウモリはとりあえず僕の胸に張り付かせて、お屋敷の庭を散歩する。

 まだ夜明けから間もないらしく、太陽の下端は地面にかかっていた。

 空気も暖まりきっていなくて、ひんやりとした風が頬をなでる。

 お屋敷の台所では炊煙が上がって朝食の準備が行われていた。

 大勢が暮らし、さらに大勢が通うこのお屋敷ではまずご主人とその家族が食堂で食事をとり続いて家令などの上級使用人が使用人向けの食堂で朝食を食べる。あとは偉い方から順に食べ物にありつくのだけど、下働きの雑益夫や掃除婦などに至ってはきちんと食事をする時間も与えられないので仕事の合間に食堂へ立ち寄り、残飯を急いで口に放り込むと飲み下す時間も惜しいのかすぐに仕事に戻っていく。

 僕も冒険者学校に通っていた頃は朝夕と食堂の雑用を手伝わされていたので、慌ただしさをよく知っていた。

 ただ、僕の故郷では薄い粥をさらに湯で薄めたものが朝食で、それも週に三日ほどしか口にできなかったのだから、とりあえず食べるものに困らないというのは素晴らしいと思っている。

 ここにいればパンには困らないし、塩なんかの調味料も分けてもらえる。

 一樽の塩と引き替えに奴隷商に売られて行った友人を思えば、何とも幸福な話だ。


「おはようございます」


 僕はコウモリを胸から引き剥がしてポケットにつっこむと、台所の裏手へ薪を取りに出てきたおばさんに挨拶した。

 自由市民のおばさんは、時々お菓子のあまりなんかを分けてくれる優しい人だ。


「あら、おはよう。珍しく早いのね」


 おばさんはにっこり笑って挨拶を返してくれた。

 その口には歯が三本しか残っておらず、表情は妙に愛嬌があった。

 そんなに年は重ねていないはずだけど、目は落ちくぼみ腰は曲がっている。

 後ろに束ねた髪はすっかり脂気がなくなっていて、草の蔓を頭にかぶせているような印象を受ける。

 つまり、一般的な貧困層の自由市民である。

 今でこそ顔見知りの僕に対して気さくに接してくれるのだけど、初対面の時点では奴隷と関わり合うことを極端に避けていた。

 例外は庭仕事をしているミガノさんくらいで、他は誰も僕に話しかけては来なかった。


「お手すきなら、薪を運ぶのを手伝ってよ」


 おばさんはかつての態度が嘘のように親しげに言った。

 僕もそれに従い、薪置き場と台所内の竈前を何度も往復する。

 やがて、汗の玉が額に浮き始めたころ、ようやく作業が終了して僕は解放された。

 食事の準備は重労働で、それに長年従事すればおばさんのように腰が曲がるのも理解できた。

 

「はい、ありがとうね」


 おばさんはにっこりと笑い、前日のパンの売れ残りをくれた。

 また、今日はお手伝いのご褒美として茹でた卵を五個も付けてくれた。

 

「わあ、いいんですか?」


 卵なんて滅多に食べられないのだけど、僕は大好きだった。

 ついでに言えばギーも卵が好きなので、楽しい朝食になりそうだ。

 おばさんにお礼を言って小屋に戻ると、メリアが起きていた。

 体にはまだ名残惜しげにギーの尻尾が巻き付いていたのだけど、あくびをしながら引きはがしている。

 僕の同居人で一番早起きなのがメリアだ。

 彼女は朝食の時間が終わる頃からお屋敷内でご主人の娘の世話をしたり、掃除婦の手伝いをしたりしている。

 規則正しく日々を重ね、給金を貰う。

 自由業でのんべんだらりと暮らす冒険者とは違うのだ。

 

「兄さん、おはよう」


 メリアはそう言うと、寝床から起きあがり壁に吊したお屋敷の制服に着替えた。

 

「そういえば、明け方に鳥みたいなのが窓から入ってくる夢を見ちゃった」


 メリアは昨夜遅くに戻ってきたので、コウモリについては話していなかった。


「それは夢じゃないよ」


 僕はポケットからコウモリを取り出すとメリアに見せた。

 コウモリはまだ死んだように眠っていた。


「え、なにそれ。噛みつかないの?」


「噛みつくよ。牙なんか鋭いから気をつけてね」


 実際、迷宮でのコウモリは闇に紛れて飛び回り、獲物の肉片を上手に削いでいく。

 冒険者の場合は、耳や指を食いちぎられる事が多いので気をつけるようにと学校で習ったものだ。

 僕はまだ、実際に噛みつかれたことはないのだけど。


「ふうん、まあいいや。私も行かなくちゃだからご飯を食べようよ。モモックを起こして」


 そう言ってリザードマンのギーを揺り起こすメリアは、今更なににも動じなさそうだった。

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