永い時を経たある日

七十二の日

その日は風が澄んでいて、あるはずのない清涼剤が常時空を滑空していた。私といえばぽかぽか陽気にあてられて、そんな日に

「屑を見に行こう。空でふかふかしてるんだ」

いきなりお誘いと来たものだから心臓が飛びてて破裂せんばかりに鼓動している。

「・・・・・・」

レディへの礼節とやらを知らないのかな、誘うならもっとこう、ロマンという物を考えて地獄の門を叩き開ける勢いで・・・・・・って、私の理想を押し付けてもしかたないか、今日は嫌にクールだなと寂しげながらも感心してしまった。


「星」という物がこの空にはなくなっていた。


その概念を理解しているあたり、以前は存在していたのだろう。おかげで夜は暗闇に塗れて無駄に過ごしてしまっている。

でも空の先にあるものを、私は覚えていない。蒼の先に希望を抱くと同時に、涙が出そうになるのだ。考えることを放棄していたのもある。そんな時に、彼が灯火を携えてやってきた。どんなものなのか興味はあったので、気持ちを高まらせてついていくことにした。

だんだん冷たくなり始めた風が、肌をちくちくと刺す。

「ここ、草まみれ。どこまでいくというのかな?」

「背中に掴まって下さいお嬢様――」

やだ、この下僕。跪きなさいと踏んづけたい気持ちを抑え、渋々ながらその背中に体を預ける。

「目を閉じておいてくれ。きっと驚く」

「・・・・・・ん」

思ったよりも大きかった。私のそれより何倍も厚く、しっかりとした重みを感じた。手のひらには何度も触れた曲線。でもいつもとは違う。背中越しに伝わる鼓動が彼の想いを吐露してくれる。まだ動き始めて数秒なのに、こんなにも高鳴るものなのだろうか?


――ああ、違う。


これは私の音。彼の音色を挟んでリズミカルな音階を奏でてくれる。たゆたうように浮遊する温かい音に、自然と目を閉じてしまっていた。


「おーい、そろそろ降りてくれー。おじさんは若者と違って我慢が効かないんだ。振り落としちまうぞー」

なんと寝ていた。屈辱。覚醒で驚きに出会った瞬間は生まれた時から数えて二回目だ。

「ラヴィさんや、こりゃお主とんでもない所に連れてきてくれましたな」

辺り一帯暗闇。灯りをくべて周りはかすかに見えるくらい。先程までの雄大な景色とはうって変わった場所に出た。

「何も見えないからこそ美しいとか・・・・・・ようし目を瞑って歩いてみようれっつごー」

風の音だけがかすかにする。予定調和で壁のようなものに額がぶつかって尻餅をついてしまう。

ふと、顔を上げた。


「いつつ・・・・・・わ・・・・・・」


そこには、無限の光が散りばめられていた。


不均等に並べられた輝きが暗がりを照らして、いつも見ていた世界が塗り替えられていく。無明なんかじゃない。小さな光が重なって――透明で小さなドーム、この部屋を照らし出していた。

「これが、星・・・・・・」

それは不安や葛藤のような暗い影を消し去ってくれる、そんな明かりだった。

「ただの核融合反応だ。それも生命を奪う大爆発」

彼はいつものように前触れもなく話し始める。でも今日だけはどこか遠く、この綺麗な景色より遠くを見ている気がした。

「それを美しいとおもうのだから、やはり人は終わりたがってるのかもな。でも星を目指すように作られているんだ。原初に土から生まれ、知能を発達させて人はロケットを発明した。故郷である地球を飛び出し、住める環境下にある星を探索するまでになっていた」

どこかで聞いたような言い回しに既視感を憶えたが、気に留めなかった。それよりも目線は星空を見上げたままで。私のことなんか目に入っていないと言わんばかりの態度に、少しむっとした。

「いつまで経っても、この光景だけは変わらない。昔見た星の姿も、誰かが隣にいてくれたのも。今度も半ば強制だったな。すまん許してくれ。君は頑固だから、こうしなきゃ付いてきてくれなかっただろう?」

それは穴のあいたポケットから、溜まりに溜まったものを全てこぼれ落とすような口ぶりだった。

どうしてなんだろう。

「君がこの景色を不要と言うのなら、自分が消そう。でもどうだい、存外と悪くないもんだろ」

どうしてここまで、この人と星に心惹かれるのか。

「後ろを見てくれ」

貴重な懐中電灯で、大きな家だと思い込んでいたものが巨大な戦艦のようなものであった事が判明。驚愕した。どこにこんなデカブツが潜んでいたんだ。今はセーフモードで稼働しているのか、命令信号さえ送れば今にも変形してしまいそうだ。

「星の方舟・・・・・・自分の夢だ。今の君になら、見せてもいいと思えた」

聞くところによると、ここには過去の遺物・・・・・・書物や電子機器が埋もれているらしい。発掘したい欲がくすぐられてしまう。・・・・・・なぜだろう?

「この舟は、さっきまでいた俺たちの惑星だよ」

「なんですと!?」

「その昔、大きな災いに備えて、人類が生き残るための超巨大移民船の開発が始まった。その大きさたるや、一都市を誇る。これを五年で作った自分を褒めてやりたいな」

「へほーん・・・・・・どうせメンテもろくにしてなくて不時着でもするんでしょ、私ならサボる」

「おう。だからこんな錆びれた死の惑星にいるんだよ。自分を叱ってやりたいね」

「そこだけは間違いだって言って欲しかった!」

こんなところまで似通っていると、将来が危ういな。お互いに注意力が散漫だから同じ時期に同じ病気にかかってしまいそうだ。

そんな、未来の夢想をしている時だった。

「なぁ、アイ」

――と、明るかった声音が、悲しみを帯びたように変わった。

「実はさ、もう自分は、この星空が見えないんだ。暗闇を照らして、くれないんだ」

痛む胸が、その答えを教えてくれる。

「あんなに憧れていたはずなのに。自分の仮面は、無明の世界を映し出している」

寂しそうで、ひどく孤独をたたえた瞳が印象的だった。

「自分はずっと昔から、果てなく広がる星の世界に憧れていた。どこまでもどこまでも届かないその楽園に、小さな自分は夢を抱いた」

ふと、するりと舌から言葉が滑り落ちるように自分は

「星の、声を届けること、だね」

と、返していた。鉄格子で囲われた楔の中にいた何かが、声を上げた。

「私達のいる世界だって、美しいって、伝えたかったのを覚えてるよ」

彼は少し驚いた顔をしながら、話し続ける。

「かつて地球には、全てがあったんだ。――でも争いを、繰り返した」

そうだ。


「自分達の世界は、終わったんだ」

「私達の世界は、終わったんだ」


荒唐無稽な話を、二人同時に口ずさんだ。

「百年前に自分が、終わらせた」

故郷の惑星は、人間の存在を排斥した。

「地球を脱出した時から、少し時間を遡ろう」

 一つ一つ、噛み締めるように彼は瞼を閉じ、語り始める。

「二十四世紀末、国の研究部の最上位にいた自分は、星の方舟を造る第一人者になる条件として、汚染物質を含むナノマシンの製造を命じられた。その時代は人と人が懐疑的で、国同士が一触即発の状態で牽制し合っていた。――そんな折に、うちの国はしびれをきらせてしまった」

「バイオ兵器による終焉。初めは一地域に限定した社会制裁を目的としていた生組織解離ナノマシンだった。使用を禁じていたが心無い者によってそれは解き放たれた。だが配分を間違ったのか、一夜にして増殖して、ありとあらゆる人間を喰い尽くした」

『ヒト』のみに影響する心身自壊プログラムを引き起こす汚染物質、人々はそれを「萌芽ウイルス」と呼称した。低濃度のそれは空気を伝って伝染し、人間を世界から消滅させた。

「ナノマシンを中和するには、細胞の成長を止めるしかなかった。その抗生物質を作るために、自分は・・・・・・」

自分のしてしまったことに耐え切れず、即座に数種の生命を『方舟』へと送った。既に地上に、『ヒト』は存在出来なくなったからだ。

『方舟』、この世を模した巨大空間には、擬似太陽をはじめとした「三百年分」のエネルギーが蓄えられていた。いわゆる『もうひとつの地上』だ。国が用意した、地球が危機に瀕した際の緊急逃亡先だ。だがウイルスは驚異的な速さで広がったため、ほとんどが搭乗出来ずに消えていった。乗り込んでいた科学者たちも侵され地に還った――たった一人以外は。

「種の存続のために、自分は時間を止めた。身体の成長が止まって、もう百年になるな」

自分が精製し、世界を終わらせたウイルスから作った抗体で、生き繋ぐ。なんとも滑稽な話だ。

「方舟だって安全じゃない。人工土壌は遺伝子改良によって栽培と成長を可能にしているが、それもいつまでもつか・・・・・・」

だから、せめてこの地球が生きた証を残そうと、『脱出計画』を考えた。

「この空のどこかに、あるはずなんだ。またヒトが穏やかに、争いだってあるだろうけど、大きなうねりに飲み込まれることなく過ごせる安寧の地が」

移民船やロケットでは叶わない。この星の記録を載せ、それも悠久の時を過ごす事ができる舟を造り、その場所を見つけ、また人が響き合って、想い合って、そんな時間が過ごせるように――

「方舟を修理しなきゃいけない。自分は、生き残ってしまったからな。使命なんだ。新たな地へ、届けることが」

死の惑星から、本当に人間が過ごせる場所へ、命を届けることが。

「それが、忘れることを禁じられた自分にできる、贖いだ――」

大きな絶望と後悔を背負った彼の慟哭が、誰もいない地平に響く。

まだこの星に陽は登らない。長い月日をかけて苦しみ、喘ぎ、闇夜に瞳を閉ざしてきたんだ。それがわかって、いてもたってもいられなくなった。

「大丈夫。ラヴィさん」

小さな身体で、咄嗟に彼を抱擁していた。

「貴方がここにいてくれる。貴方と違って、私には過去が無くてわからないことだらけだった。でもそんな私に、手を差し伸べてくれた。疲れた羽根を、今は休めて」

冷たい。百年もの時を経て痩せ細った心が、凍えるように沈みゆく。引き止めるんだ、絶対。

「――アイ」

今、枷が外れた。

「ウイルスに対抗する為に、自分の時間を止めちゃった。だから方舟に、人間が誰ひとりとしていなくなってしまうことを恐れた。人を、欲していた。終わった世界から、星の言葉を伝えるために方舟を完成させる人間を」

「・・・・・・そうだ。こんなに死に装束に薄汚れた悪魔では、もはやたどり着いたところで語るべき言葉など・・・・・・だが・・・・・・自分は」

そこで、彼はハッとした。きっと、一足遅く気付いたのだろう。

「あはは・・・・・・思い出しちゃった」

生まれた意味を。自らの使命を。夢を。

「どうして、あなたの思考も性格も趣味も好き嫌いも手に取るようにわかったのか」

答えはすぐそばにあった。簡単なことだった。

「何故、私はあなたといると心が安らぐのか。靴紐のように結ばれたのか。こんなにも、この星空を愛しているのか、その答えは」

『終わりの日』の後悔を、私は感じていない。まだ、この星は理想郷たり得ているから。


「私が貴方の娘で、貴方と母さんの生まれ変わりだからだね」


『終わりの日』から幾星霜を超えて、私は『自分』の欠片として生まれた。後悔のあまり、自らの過去を切り離したものが、。すべての罪を背負い込んで、彼は途方もない時間を一人で生き続けていたんだ。

「・・・・・・自分は、愛する者を、この手にかけたんだ」

ラヴィさんが愛した女性のお腹の中には、小さな命が宿っていた。それが原初の私。けれど命と呼ぶにはあまりにも小さくて認識もできなくて、その命の元は『終わりの日』に廃棄される筈だった。

その予定はしかし、ウイルスの繁殖によって実行されることはなかった。『自分』は一刻も早く中和剤を造るべく人の成長を止める禁忌の方法に手を出した。

それは許されることではなかった。

彼にとって不幸だったのは、世界で唯一『自分』を認めてくれた女性が、唯一ウイルスの特効薬を精製する実験台に立候補した女性だった事だ。


おかげで中和剤は完成し、自分の時間は終わりを告げた。

だが、そこに喜びは微塵も感じられなかった。

『自分』はウイルスを大量に浴び、溶けていく彼女をどうにかつなぎとめようと、香織への想いと、星空への想いを込めて彼女を抱き締めた。科学者としても失格な一手であり、所詮無駄な足掻きだということは知っていたが、一度奇跡が起こったのなら、もう一度くらい、と。しかしその祈りは誰にも届かなかった。


『あなたを信じてる。けれど死ぬならせめて、この子と一緒にいてあげたら、この子も安心できるかしらって、思うの。もし、奇跡が起こったら、あなたみたいな・・・・・・』


その言葉を最後に、『自分』が初めて愛した人間であり、初めて『自分』の研究を理解してくれた女性であり、初めて成功した奇跡の体現者となった『御影香織』という女性は溶けていった。

記憶に残る三つ編みの女性は、笑顔のままで。

手のひらから無くなる体積。感染した時点で噴射された中和剤によって解離しない身を恨んだ。

私の記憶の最後は、何もかもを無くした『自分』が、たった一つ、彼女と誓った約束を果たすという使命感に溺れていく感情だった。


培養液に入っていた私は、そのままあの場所に運ばれたのだろう。母さんと『自分』の想い出の場所であり、共に過ごした大切な場所へ。そして百年後――奇跡は起こった。

推測でしかないが、解離した細胞組織が、長い年月を経て核に集合を試みたのだろう。満足な設備もない方舟世界では、人の形を得て覚醒するまでに途方もない時間を要した。生まれる前の私は母さんによって萌芽ウイルスから守られていたんだ。

母さんの細胞と、『自分』の記憶、そして私の身体が一つになって、『アイ』を構成した。

どうして記憶が受け継がれたのか、それはわからない。奇跡としか言い様のない出来事だが、これにはきっと意味があると思える。

「修理に必須な鉱石も便利なパーツも、消耗部品もなにもない場所で、待っててくれてたんだね」

私の中には、少しだけだけど、母さんの気持ちが残っている。それを、伝えるんだ。

「わたしは――」

胸の奥から湧き出すのは、私の言葉じゃない何か――

彼といられて、子をなして、幸せだったという感情。

健やかに、伸びやかに。私がそんな風に生きられる世界で――

「もし、奇跡が起こったら・・・・・・あなたみたいな」

「愛しい名前を、付けましょうね」

きっとそれは、見たことのない大切な人の言葉だった。

「ぁ・・・・・・あぁ・・・・・・っ・・・・・・自分は」

彼は私の胸を強く掴み、吐き出すように話す。

「・・・・・・すく、われた。自分は、もう、星を見ても、いいのか」

「当たり前でござる。ラヴィさんなーんにも悪くない。私が言うんだから間違いない」

父の記憶と母の身体を受け継ぎ、こうやって一人の人間が三人を繋ぐことなんて前代未聞だ。奇跡は起こらないから奇跡というのだけれど、起こったこの会合をどう説明出来るのだろう?

もし、この神様に見捨てられた世界で、奇跡があるのだとしたら、それは私と彼が息づいている事実それだけだと思う。

「ありがとう。・・・・・・記憶を受け継いでても君は、君だ。歳も性も違えば自分よりずっと純粋にこの光を捉えている。星の祈りを繋ぐのは、もはや自分ではない」

その言葉を漏らした彼の瞳を、素敵だなと思った。先程までの憂いや惑いはなく、おおよそ百年を超えた長い永い日々を超えて今ここに彼自身の全てが戻ったと思える。

「そんな、ラヴィさん、貴方も一緒に・・・・・・」

遮るように、彼はひとつの注射器を私の腕に刺した。

途端に眠気が襲い来る。

「ありがとう。自分は、もうたどり着けた」

全細胞が叫んでいる。彼を、離してはいけない。この手を引けば、もう幾千里を歩もうとその袖に触れる事は叶わないだろう。

「ありがとう……ったく、香織も香織だぜ、父親の死に様を、子に見せるわけにはいかないでござるよ」

それは、きっと・・・・・・母さんを救えなかった自分への、十字架。咎人という自分の、世界への返還。

「決して・・・・・・無駄じゃ、ない・・・・・・」

彼が私の手の甲を両手で包む。その手のひらは、温かかった。

「ありがとう。自分の役目は、終わったと言える。・・・・・・もう時間なんだ。細胞の成長を止めたところで、寿命はごまかせない」

眼前の左薬指にあったリングが、私の指へ移される。それの意味するところを、私は知っていた。

「一つだけ、お願いがある。自分が、香織がいたことを、忘れないでいてほしい」

朧月が暗闇を照らす。明暗が反転する境目に、笑顔が見えた。もう彼の瞳に揺らぎはない。


「そしていつか、お前が――」


届かぬ空へ、白銀の刃が映えた。




――――意識を失っていた事を、この時ほど悔やんだことはない。

本当に体温を失った彼の白衣を、奪い取るようにして剥いだ。右手から通して左手。覚えている。いつもこの手順だった。最愛の妻の指輪に祈りを込めて、いつものように誓う。

「私は貴方。貴方は私」

綴る。貴方が頑張って繋いだ歴史を。人が追い求め続けた場所へ。だから、お願い。ここで見守ってて。そして、いつか貴方が、貴方自身を救うことが出来ますように――

忘れない。忘れるもんか。

「無限に続く空の中で、ラヴィさんが、人という命を繋げたことを――」

もう名前を取り繕う必要なんてない。

「ありがとう。さようなら」

結って貰った髪の毛を強く意識する。

「見てて、お星様。地球の色を。聞いて、お星様。私達の祈りを。緑の風の音を」

共に歩く。星はいつの日も全部を受け止めてくれるだけで、そこに人の思惑や策謀なんてものは介在の余地なんてない。ただ祈り、捧げ、慈しむ。

「此方を謳う、青い空を。命芽吹く大地を、守り抜いた愛する人を」

喪失じゃなく、還元。私は『自分』に。今度は三人一緒だから、どんな壁だって困難だって乗り越えていける。

「これからは、ずっと一緒だな」

彼の口調を真似る。不思議と力が湧いてきた。懐かしい時計の針音が、また時を刻み始める。

やっていける。何故なら私は・・・・・・


「自分の、名前は――――」

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