第3話

「おはよーさん、副級長さん」

 ニパッと明るく笑う転入生。佳代は何も言わずに、少し頑張って微笑んだ。今日の黒板はチョーク受けのあたりがピンク色に濁った粉にまみれ、長くて新しいチョークが埋もれるほどだった。

「ほな、今日も頑張りまっせ。黒板消し貸してみぃ」

 副級長さん、ここ届かへんもんなぁ、と転入生は心から楽しげな顔をして、黒板の上から十センチメートルのところを背伸びもせずに拭いてゆく。

「これでも成長したわ。昔とは違うの」

 彼は、ちょうど転入生と同じくらいの背丈だったように思う。その彼に昨日抱きとめられた身体を、不本意ながら持て余してしまっている。苦しくて懐かしくて、それだけに昨日佳代が負った傷は深かった。腕を解かせ、もう一度しっかりと「もう、大丈夫だから」と言ってきた。「さようなら」「元気でね」と畳み掛けて、ようやく彼に背を向け逃げ帰ることができた。

 そう、私はもう大丈夫。大丈夫なの……。

「大丈夫?」

「えっ」

「え、いや……めっちゃ苦そうな顔しとったで?」

 心の声が聞かれているのかと思って、佳代は狼狽えた。膝に力を入れ直して、答える。

「ええ。チョーク受けの掃除で、手がちょっと荒れたみたい……嫌ね」

 少し無理があったかもしれないが、不自然でもない——思うことにした。まぁどうしまひょ、とおどけて、転入生は笑ってくれた。その眉の下がり方が、優しかった。

「そだ、副級長さん。図書室の場所教えてくれへん?」

「ええと……中央棟の真ん中の階段を三階まで登って左に曲がって、すぐのところよ」

「中央棟ってどこやねん! 昼休み一緒に来てくださいまし〜」

 昼休みにすべきことなんて、何もない。たまには教室を出るのもいいだろう。了承の返事をして、自席に戻る。再び彼のことを思い出した時、このやり取りの最中だけは彼のことを忘れていたことに気づいた。


「なーんや、階段上がったらもう看板見えとるやん」

「それくらいしないと、図書室なんて誰も来てくれないでしょう」

「そーなん? 俺は好きなんだけどなぁ」

 図書室に着くと、転入生は図書室全体をゆっくりと見渡し、まずカウンターに向かった。

「……そこに本はないけど」

 頭の上に「?」マークを浮かべたような顔をして、それから転入生は豪快に笑った。

「俺、図書委員なんよ。今日は当番やねんて」

 苦しそうにそれだけ言って、また笑い出した。カウンターに本があるわけないやんかぁ、それくらい分かるわぁ。

 こんなことでこんなに笑える転入生がなんだか可笑しくて、佳代もつられて笑った。昼休みの冒頭、図書室には転入生と佳代と、数えきれない本たちとがあるだけだった。

 二人でひとしきり笑って、涙も拭って、笑えとるやん、と転入生は言った。

「笑えとるやん。副級長さん、やっと笑うてくれた」

「え?」

「副級長さん、ずうっと苦い顔しよったやん。いつもは堂々としてクールにしてるけど、今日はちゃうやろ。だから笑ってくれて、ホッとしたわ」

 そしてまた、ニパッと笑ってみせるのだ。どうしてこの人の笑顔は、少しの曇りも感じさせないのだろう。

「聞かないの? 何があったか、とか」

 今なら素直に話せると思った。聞いてくれるのなら、涙が枯れるまで泣いて声が枯れるまで話して、それでも足りないくらい彼には全てを見せて甘えたかった。

「無理には聞かへんよ。誰にだって、秘密とか言いとうないことくらい、あるやろ」

 転入生は、側にあったパイプ椅子を自分の隣に引き寄せ、ぽんぽんと片手で座面を叩いた。私はカウンターの内側に回り込んで、鼻の奥がツンとしみるのを我慢しながらそこに控えめに座った。

「副級長さんが言いとうなったら、言えばええやん。俺から聞くことやない」

 俺ならいつでもスタンバっとるでぇ、と力こぶを見せられる。シュッとした身体の印象よりも、筋肉のついた腕だった。

 鼻の奥の痛みの先に、佳代は綺麗なものを見つけた。渇きを潤す流れが、自分を本当に労っているからこそ出てくる優しい言葉が、本当に自分が望んでいたものであったと知る。

 カウンターに伏せて、涙を流す。涙を見せないようにするのと声を立てないようにするのは、精一杯の意地だった。

「……我慢すんなって、な?」

 頭に大きな掌が触れ、ゆっくりと撫でられる。この人の前では、16歳の女の子でいていいんだ。

 抑えきれずに溢れる佳代の嗚咽は、昼休みいっぱい続いた。

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