第2話

 ある日の話。不注意とか無防備とかそういう話以前の……要するに、偶然が起こした話。

 休日の街の中、佳代の焦点はある一人の人物に結びついた。周りの気圧が下がったかのように、心臓は内部からかなりの圧力を上げている。

「功輔さん……」

「佳代……? どうして」

 どうしてこんなところにいるかとか、どうして今名前を呼んでしまったのかとか、元カレなんかに問われる筋合いはない。呼吸が苦しい。これ以上会話を続けることはあまりにも危険だと判断した。踵を返し、何よりもまず物理的な距離を取ることを考える。

「ちょ、ちょっと待って」

 佳代のそんな小さな抵抗も虚しく、彼は佳代に追いつき、駆け寄って、手を取った。振りほどこうと思えば、振りほどける力加減。変わらない、ずるい男だと思った。どうにかして温度を下げて無理やりに固めていた冷たい思いに、熱いドライヤーを吹きかけられているようで、佳代は涙をこらえるのがやっとだった。

「……少しだけ、話そうよ」

 彼の言葉は、どこか躊躇いがちだった。「少しだけ」という言葉を信じて、言葉もなく頷いた。路地に入り、低いブロック塀に腰掛ける。

「元気、してた?」

 この日二言目の佳代の言葉。事実だけ見れば感動の再会であるこのシチュエーションに、つまらないけど悪くないと思った。

「ああ、まあそれなりに」

 長い会話が続かない。懐かしい、けれど昔とは確実に違うということを思い知らされた。

「彼女いるの?」

 そうして、一番聞きづらいことが口をついた。私はもう、他人なのに。だから——

「ああ……まあな」

 ——こんな質問で傷つくなんて、フェアじゃない。

「ごめんね、辛い思いさせて」

 薄い眉を下げ、彼は謝った。頼りない印象を与えるからコンプレックスなんだと笑っていたその眉は、優しげで好きだった。

「佳代に夢中だったよ。俺のわがままにたくさん付き合ってくれたのに、突然連絡を絶ってしまったりして。佳代の大切な時間を俺のために奪い続けることはしたくなかったんだ。

 ずっと、謝りたかった。本当に、ごめんね」

 会えて嬉しいよ、と彼は最後に付け足した。本当はそんなこと思ってないくせに、と思いたかった。彼の言葉は佳代の心にまっすぐ刺さり、切っ先からじわじわとしみてゆく。魔法のような、薬のようなものだった。佳代、と彼が懐かしい声で呼ぶので、彼が気に入っていた控えめな上目遣いで振り返る。

「綺麗になったな、すごく綺麗だ。やっぱり、二年って長いな」

 慈しむような眼差し、佳代はその奥をじっと見つめる。

「もう、大丈夫だから。忘れましょうよ」

 燃えるような溶けるような、絶対に自分しか見えていないんだと確信できるものが、あの頃の彼の瞳にはあった。それを探るように佳代は彼の瞳を見つめ続けたけれど、

「昔のことでしょう?」

 あの頃あれほどに心惹かれていたそれは、そこにはないと感じた。もしかしたら今再び燃え始めているのかもしれないけれど、少なくとも今の佳代には反応するものがなかった。

 今までずっと、心の温度を下げることばかり考えてきた。少しずつゆっくりと時間をかけて、いつかこの気持ちが、小ぢんまりと固まってくれたらそれでいいと思って過ごしてきた。余計に綺麗な結晶なんか作らせまいと、湿度も下げてあげて管理してきたと思っていた。

 日中でも日陰に隠れるこの場所で、ブロック塀はひんやりとしている。もう話はこれまでと切り出すつもりで立ち上がり砂を払うと、倒れそうになるくらいの勢いで彼の身体に包み込まれた。身体を捕らえる力強い腕は苦しくてすごく温かくて、佳代は悔しいと思った。

「この三年間、味気ない時間だったよ。楽しかったこと、佳代との時間を考えるだけで……」

 失った時間を取り戻すかのように、彼は佳代の首筋のあたりで呼吸をする。このままだと、私が私でなくなってしまう……佳代は焦った。今のかよに取ってそれは、大きな問題であった。

「また、俺の勝手で申し訳ない」

 どうしてこんなにも乾燥した私になったの? 誰が私をこんなにパサついた人間にしたの?

「やり直そうよ、佳代」

 あなたじゃない。

 私はいつだって、あなただけを見ていたのに。

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