第2話

 山を登るにつれて、気温は下がっていく。

 彼もまた、冬に逆戻りしたかのような寒さに耐えかねて、デュッケルクを出た時に着ていた薄手のコートの代わりに黒の厚手のコートを着ていた。


「……酷い霧だ、これは」


 彼は、目を細めて改めて周りを見渡す。しかし、十メートル先がやっと、という状況には変わりはなかった。


「こういう日は、できれば動きたくはないのだけど」


 彼は小さく溜め息をついてから歩き出した。


「……約束は守らないと」


 ダートに見せられた競技祭の案内によれば、初戦から観戦するためには今日を含めて2日でアプダスレアまで着かなければならなかった。

 しかし、彼の今いる場所からスレイピアまでに二時間弱かかり、更にそこからアプダスレアまではおよそ一日かかるので、夜の移動を出来るだけ避け、さらに荷物の積み下ろし等を考えたら休む時間はあまり無かった。


「……やれやれ」


 彼は、ショルダーバッグの中から魔導ランプを取り出し、前を照らそうとした。しかし、霧がその光を反射するようにして、かえって見通しが悪くなった。


「……いい考えだと思ったんだけど」


 呟きながら彼は魔導ランプを切り、ショルダーバッグの中に戻した。


「しかし、こうも見通しが悪いとは」


 彼が確認できている限りでは右側は崖であった。その崖を避けるように、彼は出来る限り道の左側の茂みに沿って歩いていた。その時であった。


「キキッ!」

「……うわぁっ!」


 道の左側に並ぶ木々の中から、突然一匹の猿が彼に向かって飛び出してきた。 咄嗟に彼は右側のホルスターから魔法銃L-231を引き抜いた。しかし既に、その猿はショルダーバッグに手を掛けていた。


「……おりゃっ!」


 ショルダーバッグを振り回して猿を引き離してから、彼はそのバッグを背中の方へやった。

 しかしその猿は器用にも風魔法を使って着地の勢いを殺し、再び彼の方へ飛び付いてくる。その僅かな間に銃を構え直した彼は、猿(魔獣扱いされてウィンドモンキーとでも言うべきであろう)を狙って二発撃った。

 しかし、その猿は、風魔法を使って器用にその二発の球を避けた。


「「「キキッ!」」」


 甲高い鳴き声とともに、突然森に潜んでいた猿が一斉に顔を出す。

 恐らく彼の撃った弾が当たったようにでも見えたのだろうか。危険な状態にあった仲間を守ろうとでも言うかのように、それらは彼に飛びつかんとしていた。


「……きりがない」


 彼は、L-154に持ち替えて森の方へ向けて空砲を放った。

 ダートらの前で撃った時よりか弱めに調整してあったものの、鼓膜を引き裂くような轟音(恐らくその時に使った大規模な風魔法のせいもあるだろう)のために、森にいた猿は一目散に逃げ去った。それを見た、彼に飛び掛かろうとしていた猿も、仲間の後を追うようにして森の方へと逃げ去っていった。


「……ここからさっさと立ち去った方が良さそうだな」


 呟きながら、彼は二丁の魔法銃をホルスターに戻した。


「これじゃあ、景色を楽しむこともできない」


 手汗をコートの端で拭き取り、長い溜め息を一つついた。


 一息ついた、まさにその時であった。


「……す……けて」


 女の声のような、高くて掠れたような声が、微かに彼の耳に届いた。


「助……けて……!」


 咄嗟に彼は辺りを見回す。しかし、声の主は見当たらなかった。


「どこに居ますか、今助けますから!」


「ガケ……下……」


 木霊のように遅れてくる声を聞いた彼は、恐る恐る崖の側に近づき、下を覗き込んだ。しかし、濃い霧のせいで下までは見通すことが出来なかった。


「……降りるしか、ないか」


 ショルダーバッグから長めのロープを取り出した彼は、道の反対側に生えていた木にそれを縛り付ける。引っ張って強度を確認した彼は、そのロープを崖の下へと垂らした。


「念のため、……ブースト!」


 身体強化魔法をかけた彼は、ロープを伝って下に降りた。

 崖の底に着いた彼は、崖の上と比べて辛うじて霧が薄くなっていた周辺を見回す。


「……こっち、こっちよ」


 彼は、声のする方を向いた。そこには、一人の女が横たわっていた。

 恐らくあの崖から落ちてしまい、咄嗟に身体強化魔法を使ったか、もしくは近くの茂みの上に運良く落ちて助かったのだろうか。しかし、その女性の足はあらぬ方向を向いてしまっていた。


「……取り敢えず、応急処置を!」


 ショルダーバッグを投げ置いた彼は、中から包帯と二冊の魔法書を取り出す。近くから添え木となる枝を拾い、患部に沿わせるようにして包帯で固定した。そして、二冊の魔法書を開いて目当てのページを開け、それらを女の下に敷いた。


「……始めますよ!」


 彼は魔法書に手をかざす。開かれたページに描かれた魔法陣が少しずつ光り出し、やがて強い光を放ち出す。

 苦しげに唸っていた女は、彼の使った回復魔法が効いたのか、全身から力が抜けていった。


「……はぁ、ありがとぅ……、ございますっ…」

「いえ、こんなんでよければ」


 女のこわばった表情は、徐々に柔らかくなっていった。代わりに、どこか申し訳なさそうな顔を見せた。


「ありがとうございます、本当に……」


 二冊の魔法書を左手で抑えながら、彼は額の汗を拭った。


「……いえ、回復魔法と僅かに蘇生魔法を使った、ただの応急処置なので。取り敢えずある程度動けるようになったら……、最悪おぶって行きますが、そうしたら一番近いスレイピアの医者を頼るのが……」

「そっ、それは……」

「……問題でも?」

「いえ、別に……」


 そう言いながら、その女は首輪にそっと手を当てた。

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