2-5 気狂い
「私が寝ている間にずいぶんおかしなことになったようだな」
額に手を置くとお狐様は深い息を吐き出した。寝ていた所をたたき起こされたうえに、こんな妙な人間の相手をさせられていると考えると少しばかり同情してしまう。
だが、今こそ話を聞いてもらうチャンスなのではないか。
「お狐様、契約の件は少し待っては貰えませんか」
私が声を出すとお狐様が不快をあらわに私を見た。足下に転がっていた虫が突然しゃべったような嫌悪がにじんだ瞳に私はひるむ。彰が慌てて私とお狐様の間に割って入ろうとしたが、私はそれを手で制した。
「私たちがお狐様の名を借りて信仰を集めていたのは本当です。ですがそれは、覇権を奪おうとしていたのではなく、なくなっていた信仰を元に戻そうとしただけで……」
「全く戻ってないではないか」
お狐様の瞳も声もひどく冷たかった。
「娘が起きて数ヶ月はたっているな。それでも信仰はもとの半分にも満たない。娘は元々神ではないし半妖だ。だから足りるだろうが、私にはちっとも足りぬ。おやつにしてもお粗末過ぎる」
そこまでいうとお狐様はギロリと子狐様をにらみつけた。背後で小さくなっていた子狐様は身をすくませる。
「また人間は食べたくないと我が儘をいったんだろう。食べるのが手っ取り早いと教えただろう。恐怖で縛り付けるのが一番なのだ。人間はすぐ忘れる。そして頭が悪い。優しさなど何の意味もない。現に少しばかり寝ただけであっさり忘れ去られた」
「で、ですが、母上様」
「口答えするな」
そうお狐様がいうと同時、子狐様の体が吹っ飛ばされた。私には何が起こったのか分からず、唖然と壁にたたきつけられた子狐様を見る。遅れて悲鳴があがり、彰が飛び出したのが見えた。ソファから立ち上がったお狐様の冷たい目。そしてゆらゆらと揺れる9本の尾。その尾で子狐様を吹っ飛ばした。そう遅れて理解した。
「ちょっと、自分の子供に何するの!」
倒れた子狐様の体を支えながら彰はお狐様をにらみつけた。お狐様は羽虫でもみるような顔で彰と、娘である子狐様を見下ろしている。
「私の子供に私がしつけをして何が悪い。私の娘は半妖。人ではなければ、妖怪でもない。半端に生まれた弱者。弱者は強者にならなければ生き残れない。だから食べろ。隙を見せるな。なめられるな。私は何度も教えたはずだ」
冷え切った目が子狐様を見下ろした。子狐様は震えながら体を起こし、お狐様の前で頭を下げる。深里が見せた土下座と同じ姿勢。だが深里の敬愛とはまるで違う。子狐様が見せるのは恐怖だった。
「人間まで使ってこの程度。我が娘ながら情けない。私の教育が悪かったようだな。半妖だからと甘やかしすぎた」
「お前の娘にしては十分出来たやつだと思うけどな」
リンさんはそういいながらお狐様と彰の間にわってはいる。子狐様をかばったように見えるそれは、今にも飛びかかろうとしている彰を押さえつけ守るためだ。その姿にお狐様は眉を寄せた。
「……お前、いつからそんなに不抜けた」
「昔から俺はこんな感じだろ」
「そんなわけがない。人間どころか我々からも悪魔だ鬼だと恐れられたのがお前だぞ。何で人間なんかを……」
そこまで言ったところでお狐様の目が見開かれた。先ほどまで欠片も興味なさそうに視界からはずしていた彰を凝視する。それに気づいたリンさんは彰をかばうように前に出るが、それが余計にお狐様の疑惑を確信に変えたようだった。
「気配が妙だとは思っていたが……そうか、そういうことか……なるほど。人間が勝った。ということはお前も魔女も邪魔しなかった。それにより弟は死んだ。つまり兄は生き残っている」
弟という言葉に彰が一瞬動きを止めた。注意して見ていなければ分からないような些細な動きだったが、それでもお狐様には十分だったのだろう。目の色が変わった。それに気づいたリンさんの表情が険しくなる。彰の事情をしっている私も思わず息を止める。
お狐様は気がついた。魔女に呪われて何度も生まれ変わった双子の片割が彰であると。となればお狐様はどこまで知っているのだろう。彰が何も知らないことまで知っているのか。トキアが実はまだ生きていることまで分かっているのか。
にらみ合うリンさんとお狐様、すべての事情を知らないまま子狐様をかばう彰。緊迫した空気が流れた。
「……そこの娘、お前の提案をのもう」
「え?」
お狐様は私には一切視線をむけなかった。それでも、私に向けられた言葉であることは分かった。だからこそ理解できない。この流れでなぜ私の提案をのむ気になったのか。
「私が寝ている間に社会もこちら側もずいぶん変わったようだ。今の状況を確認してから私は今後の動きを決めることにした」
「それはつまり……」
「一週間待つ。その間に結論を出せ。どちらが私との契約を引き継ぐか。決められなかった場合や私が提案を受け入れられなかった場合は契約破棄と見なし好きにさせてもらう」
ちょっとまってくれ。それはあまりにも勝手ではないか。そう文句を言おうとした私の口はお狐様の怒気で縫い付けられたように動かなかった。
「慈悲だぞこれは。今すぐ全員食い殺しても私はかまわない。悪魔が救ってくれるとは思うなよ。この山では私の方が有利。それに彼奴は食べることは得意だが守ることは出来ない。そこの子供を抱えて逃げるのでギリギリだろう」
バカにした顔で子狐様はリンさんを見つめた。奥歯をかみしめたリンさんがお狐様を見返すが、反論しないところを見るに事実だろう。
私もリンさんが自分たちを守ってくれるなどとは思っていない。お狐様の言うとおり彰だけ抱えてさっさと逃げて、彰が傷つかないように私たちの記憶を彰から消す。後はこの町からも逃げるだろう。そうなったら彰は人としての生活はもうおくれないかもしれない。リンさんたち側、人ではない側として生きることになるかもしれない。幼い比呂君も一緒に。
そんな未来は誰も救われない。だから私はお狐様の要求をのむしかなかった。それがたとえ深里と話し合い、一週間で結論を出せという無理難題だとしても。
「では一週間後、再びお狐様に今後のご提案をする会をもうけましょう」
現状の緊迫した空気などないかのような穏やかな声で深里が言葉を発した。未だ床に正座したままだというのに、この場にいる誰よりも落ち着いて、状況を理解しているような姿にお狐様とリンさんの眉間にしわが寄る。人ではない者から困惑の視線を向けられても全く動じず深里はリンさんとお狐様の方へ体の向きを変え、微笑んだ。
「お前らで決めろと私はいったが?」
「それで気に食わない結論が出たら食べるのでしょう? であれば、両方の提案を聞いてよりよい方を選び、残った方は食べればいいではないですか」
にこやかに深里はとんでもない提案をする。さすがのお狐様もぎょっとして、リンさんは何言ってんだと声を荒げた。
「お狐様は眠っている間に力を失ったご様子。私たち羽澤はあなた方から見ると栄養価が高いと伺った事があります。お狐様が望む形で契約は継続され、力も回復させることができる。お狐様にとって素晴らしい形になるでしょう」
「……お前、自分が食われる可能性を考えていないのか?」
「考えていますよ」
おだやかに笑う深里が何を考えているのかまるで分からない。感情が読めるリンさんも眉間にしわをよせているくらいだ、読めても意味が分からない思考回路をしているのかもしれない。それとも自分が選ばれない未来などない。そう思えるほど自信があるのか。
「我が一族の事情によりお狐様にご迷惑をおかけしたこと、大変恐縮しております。ですからこれはお狐様へのせめてへの謝罪の気持ちとして受け取って頂きたいのです」
「謝罪のために自らの命を差し出すと?」
「生贄なんてよくある話でしょう。とくに羽澤家では珍しいことではない」
笑みを形作った口元、細められた青い瞳。リンさんやお狐様よりもよほど人間離れした雰囲気で深里は笑う。
「知っているでしょう。羽澤家は多くの犠牲を払って今の地位を築き上げました。その犠牲には身内も含まれる。今更の話です。羽澤家に生まれた者はみな身内に裏切られ、たたり殺され、捧げられる覚悟が出来ていますよ。本家の人間は特に」
彰が困惑した顔で深里を見ている。それが本音なのか探るような彰の視線に深里は一切表情を動かさなかった。リンさんは眉間にしわをよせ、お狐様は嫌悪のにじんだ顔で深里を見た。
「……一週間後の夕刻。日が沈む前に祠の前に集まれ。そこで私が納得いく提案をしてみせろ。それまでは貴様らの茶番に付き合ってやる」
お狐様はギロリと部屋にいる人間を睨みつけると9本の尾を引っ込めた。耳も尾も消えたお狐様は着物姿の美女だが、とてもじゃないが親しみを抱けるような相手ではなかった。
「いつまでそこにいる。子狐、帰るぞ」
ドアへと歩き始めたお狐様は振り返りもせずに子狐様を呼ぶ。ついてくるのが同然だ。そんな態度に私は眉を寄せたが、彰に支えられていた子狐様はのろのろと起き上がった。彰が止めるがそれに弱々しい笑みを返し、お狐様の後ろに付き従う。それは母と娘というよりは主人と従者のようだった。
「では君たちも授業に戻った方がいい。私は理事長とお話がありますので」
立ち上がった深里は軽くスーツを払うとにこやかに理事長へ笑いかけた。それに対する理事長の表情は明らかに引きつっている。それでも深里が羽澤家であり、理事長が関本家である以上逃げるわけにはいかない。こちらの力関係が出来上がっている。
「学生の本分は学業ですよ。大人の話に首を突っ込むのはやめて学びなさい」
「……それはつまり、黙って彰を生贄に差し出せっていっているんですか」
私の言葉に深里は微笑んだ。笑顔だけは宗教画のように美しい。だからこそ気味が悪かった。
「……そんなこと、絶対にさせません」
香奈が震える声でそういうと未だ子狐様を支えていた形でしゃがみこんだままの彰へと駆け寄った。その手をとって立ち上がらせた香奈は泣きそうな顔で深里をにらみつける。
「子供相手に羽澤様はずいぶんと大人げない。私も今回の件は了承しかねます」
「大人としてあり得ない」
「私も彰の保護者として断固として拒否させて頂きます」
千鳥屋先輩、小野先輩、百合先生が険しい顔で深里をにらみつけた。強制的に深里側に立たせられた理事長が泣きそうな顔で深里と私たちを見比べている。
もはやこの部屋に深里の仲間はいない。それでも深里は余裕の表情を崩さなかった。
「世の中には覆せない絶対があるんですよ」
羽澤の名を背負った男は優雅に微笑む。この名には誰も勝てないだろうと力業で私たちを黙らせようとしている。
「……深里、本気か」
静かに状況を見守っていたリンさんが口を開いた。リンさんらしからぬ険しい顔。それを見て深里はなぜか嬉しそうに微笑んだ。
「えぇ。本気ですよ。私は貴方様に見て頂けるのであれば何でもいたしましょう。それで貴方様に憎まれようとも本望でございます」
恋を覚えた少女のような顔で深里は微笑んだ。それを見てリンさんの顔がどれほど歪もうと、のぼせ上がったような深里の態度は変わらない。
気が狂っている。
そんな言葉がここまで似合う人間を私は初めて見た。そしてその男が敵だという事実に奥歯をかみしめた。
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