第125話:あの場所で

 月曜日。約束の日。

 私はいつも通うのよりも、かなり早くに登校した。教職員駐車場に数台の車が止まっていて、他の生徒の姿も数人は見える。

 私の通う学校。少し前までは、なんのために通うのか、見失っていたのかもしれない。でも朝早いこの景色が、いつ以来でだか輝いて見える。

 音羽くんが言った時間まで、それほどの猶予はない。私の胸は、ドキドキではすまないほどに高鳴っていた。


 普段は鍵のかかっている扉も、今日は月曜日なので開いている。全校朝礼の準備のためだ。重みのある扉を開けて中に入っても、準備をしている気配は感じない。この広い建物に、数人だからだろう。もしかしたら、もう終わっているのかもしれない。

 布張りの階段を、一段。一段。感触を確かめるように、ゆっくりと上った。

 あの時の私は、なにを考えていただろうか。きっと舞い上がって、なにやら好奇心にだけ惹かれて歩いたに違いない。

 それが……。

 ううん。今はそんなこと、関係ない。あれこれ余計なことは置いて、目の前のことを考えなきゃ。


 音羽くんは、もう来ているのだろうか。言われた通りに三階まで上がったけれど、姿が見えない。

 約束した時間には一、二分の猶予がある。週末の二日間という永遠にも似た時間を待ったのだから、それくらいは。と思ったけれど、やはり待ち遠しい。

 いちばん近い扉に手をかけて、少し押してみる――開かない。でも、思い出した。


「居るの? 音羽くん、居るのかな」


 講堂の三階。広い通路の真ん中にある扉。押してみると、鍵はかかっていない。少しできた隙間から、空気が吐き出されていく。

 きっとこの向こうに、音羽くんが居る。そう思って、そう信じて、力を込めて扉を開けた。


「音羽くん――」

「おはよう、織紙」


 照明はまだ、最低限しか点けられていない。それでも布と木材に囲まれたこの場所が、とても明るく見えた。

 それはきっと、気のせいなのだろう。演壇や両際の壁の辺りなんかは、真っ暗だ。もしそこに誰かが居ても、気付くことは出来ない。私の視界に、誰かがフィルターをかけているのだ。音羽くんを示す色だけが、私に届くような。


「お、おはよう」


 あの時と同じ位置に、音羽くんが立っている。両腕を掲げてはいない。顔は私に向いている。

 最も違うのは、私は彼の、彼は私の、名前を知っている。

 ずっとその顔を見ていたいのに、頬が熱くなっていく。直視していられなくて、ちらちらと床や座席に視線を飛ばしてしまう。

 どうしていいか分からなくて、持っていたカバンを脇に置いて、時間を稼いだりしてしまう。


「ええと――今日まで待ってくれとか、ここで待ち合わせとか、意味が分からなかったかもしれないけど。来てくれて嬉しいよ、ありがとう」

「あた、当たり前だよ。音羽くんに頼まれたら」

「そ、そっか。当たり前か。そりゃ嬉しいな」


 お互いに、うまく舌が回らない。聞こえてくる心臓の音が、彼のものかと錯覚してしまうほど、緊張が伝わってくる。


「どうしてわざわざここなんだって、思うよな」


 また時間の経ったいま、やはり責任をなどとは考えなかった。音羽くんや、音羽くんの家族がそんなことを考えていないのは、よく知っている。

 でも行事などでここを訪れる度に、胸がチクリとするのは否定出来ない。それもようやく、文化祭のおかげで少しは和らいだけれど。


「どうしてかなとは。うん、思ったよ」

「だよな。それでも聞かないで、来てくれてありがとう」

「そんなにお礼を言われると、照れちゃうよ……」


 だらしなく笑ってしまいそうで、赤くなった顔も恥ずかしくて、口元を手で覆う。

 あっ。真剣にお話しているのに、こんな態度は良くない。

 そう気付いて、指を丸めて、口元からずらして、ゆっくりと手を下に下ろす。そんな些細なことも、一度にやるとなにかおかしなことになりそうな気がした。だから、ゆっくりと。

 私がそうしている間に、音羽くんは大きく息を吸って、吐いた。深呼吸をしたみたい。


「ちゃんと、話すから」

「うん、聞きたい」

「織紙と出会ったのは、ここだったよな。それから結構、色々あったけど、俺はすごく楽しかった」


 私だって、楽しかった。でも、そうと言えない。色々という言葉の中に、言えない理由がある。


「織紙は、俺のことも、俺の家のことも、野々宮や天海のことも。みんな助けてしまう。それがすごいなって思って。いや、すごいなんて言葉じゃ全然足りなくて」

「私はそんなに――」


 すごくなんかない。私こそ、みんなに助けてもらってばかりだ。小さく首を振って、抵抗を示す。それを音羽くんは、同じように首を横に振る。


「どうしたら織紙みたいになれるかなって思ったんだ。だから一人であれこれやってみたけど、うまくいかなかった」

「文化祭の?」


 苦笑して首肯する音羽くん。彼を探しても辿りつけなかったのは、また胸にチクリとする。

 でもね、でも違うんだよ。音羽くんは文化祭でだって、みんなを、私を、助けてくれてたんだよ。


「やっと分かったんだ」

「分かった?」

「うん。幼なじみの、香奈ちゃんだっけ。話してる織紙を見て、やっと分かった」

「なにが分かったの?」


 一緒にお墓参りに行って、たしかに私は香奈ちゃんに話しかけた。なにを言っただろう。


「俺が織紙の役に立つ方法」

「役に?」

「いや違うな。俺が織紙にしてあげられること、だな」


 役に立つなんて。それはなんだか、私が道具として人を見ているようだ。だから違うと言おうとした。しかしすぐに、彼自身が違うと言った。

 それがとても、嬉しい。そのあとに続いた言葉も、そんなおそれ多いと思いながら、やはり嬉しい。


「織紙」

「――はい」

「俺は織紙のことが、好きなんだ。だからずっと、傍に居たい」


 好き?

 好きって言ったの?

 それは私が、音羽くんを想う気持ちで。でも音羽くんが、いまその言葉を言って……。

 なにかしてくれる、という話じゃなかったのかな。なにか聞き違えたのかな。


「え――」

「織紙は、ここでのことも、香奈ちゃんのことも、いつまでも抱え続けてる。だからそれを、もういいんだって言い続ける。織紙がそうなんだって分かるまで、受け入れられるまで」

「ずっと?」

「ああ、ずっとだ」


 これって。これって。

 私、ええと。もしかして、たぶん、好きって言ってもらえた……の?


「あの、それ。えと、私、物分かりが良くなくて――つまり」

「つまり?」


 顔から蒸気が出るとかって漫画の表現があるけれど、あれは本当だったんだ。微笑む音羽くんが、揺らいで見える。

 それでもなにか言わなくちゃ。返事をしなくちゃ。

 どうにかこらえて、右手を差し出す。


「つまり、そういうことかな――」

「そういうことだよ」


 大きく頷いた音羽くんは、私の手を取った。お城の舞踏会で、結婚を申し込む王子さまみたいに。

 私は手を握ってもらおうと思ったのだけれど、そんなことをされては震えてしまう。


「ずっと、ずっと。俺の傍に居てほしい。俺の恋人になってほしい」


 ああ、言われてしまった。もう勘違いのしようもない。もしも間違いだったらと、布石する必要がない。


「私でいいの?」


 きっと私は、バカなのだ。控えめに言っても、頭が悪い。この期に及んで、最終確認をしてしまう。

 けれどそんな私を、音羽くんは温かい目で見てくれる。優しい微笑みで、語りかけてくれる。


「俺の気持ちは変わらない。あとは、言乃しだいだよ」


 私の気持ちだって決まっている。それをわざわざ、選択だと言ってくれる。こんなに迷いなく選べることがあるなんて、想像もしていなかった。


「私も、音羽くんが好きです……!」


 気持ちに任せて言うと、私はもう前を向けなかった。俯いて穴の空くほど、足元を見る。

 そうしたら、触れていなかったもう一方の手も、音羽くんが取った。私の両手を、彼は力強く握る。

 彼の足が半歩近寄って、私のおでこにコツンと。ほんの少し、彼のおでこが触れた。

 たったそれだけで、私はふわふわと空に浮かびそうになる。

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