第124話:自由の女神

「あのね」

「ん?」

「音羽くんに、伝えたいことがあるの。私」


 さっきの男の子に影響されたのかと言われたら、否定は出来ない。ちょっといい言い方をすれば、あの子に勇気をもらったのだと表現したい。


「言いたいこと? 遅れたお叱りとか」


 自分が深刻な顔をしていないのは、分かっていた。思い詰めて、無理に吐き出すような感じには、出来ればしたくなかった。

 だから笑って、それでいて潤んでしまう目で音羽くんを見る。

 そんな私が、彼にはどう見えているだろう。


「――じゃあ、ないみたいだな」


 顔を引き締めて、真面目に言う彼に「うん」と頷く。


「わたし――私ね。何度も、何度も、音羽くんに迷惑をかけたと思ったの」

「そんなことはない」

「そう。音羽くんは、いつもそう言って助けてくれる。どうしたら恩返し出来るんだろうって、逆に私が助けてあげることは出来ないかなって、ずっと考えてた」


 小さく苦笑して、彼は首を横に振る。その優しさが、また私の心を惹き付ける。


「なにか、思いついた?」

「ううん。なにも思い付かなくて、ずっと困ってる」

「そりゃあ困った」


 その言葉通りに、困った顔を浮かべて「ははっ」と笑った。私の言いたいことを、もう察しているのだろうか。それでそんな、困った表情になったのだろうか。


「でもそうしていたら、気付いたことがあったの」

「気付いたこと?」

「音羽くんの迷惑にならないように、お世話をかけないようにしているのに――いつの間にかまた、音羽くんを頼りにしてるなって。困ったことがあると、心の中で音羽くんを呼んでしまっているなって」


 言ってしまって、こんなことを聞かせては面倒に思われるかもしれないと気付いた。でももう言ったことは取り消せない。嘘を言ったわけでもない。

 これで最後の、覚悟が決まったかもしれない。


「それは嬉しいけど。心の中だけじゃなくて、実際に呼んでくれよ。じゃないと気付けなかったら悪いから」

「あふ……」


 次の言葉を言おうとしたのに、不意打ちだった。

 ずるいよ。そんなのは反則だよ。

 もうダメ。笑っていたいのに、気持ちに圧倒されそうだ。伝えたいことを、伝えなくちゃ。


「それはね、私が──」

「ごめん、織紙。ちょっとストップ」

「えっ」


 いよいよというところで、彼は私の手を取って歩き出した。やはり意図を察して、話を遮ったのかと落ち込みかける。

 でも私たちの後ろを、誰か数人が着いてくるのにも気付いた。

 そうか。ここは単に通路で、他のお客さんがいつ通ってもおかしくないのだった。

 着いてきていた人たちは、空いている個室の一つに入っていく。音羽くんはそのまま進んで、クラスのみんなが居る部屋も通り過ぎる。


「ここなら、まあいいかな」

「う、うん。ごめんね」


 彼が足を止めたのは、カラオケスペースの上下移動に使う階段。綺麗な壁紙とガラスで覆われた照明がおしゃれな空間だけれど、人が来る気配はない。他にエレベーターもエスカレーターもあるので、わざわざ階段を使う人は少ないのだろう。


「ええと……」

「織紙。話したいことがあるのに、遮ってごめん。でもこれだけ先に言わせてよ」

「う、うん」

「俺が美術館で言ったこと、覚えてる?」


◇◇◇


 みんなでお墓参りに行って、音羽くんと香奈ちゃんのお墓にも参ったあとのこと。私たちは美術館に行った。

 行きたいと言ったのは、音羽くんだ。私も興味があったし、見てみると楽しかった。その中で音羽くんは、一つの絵の前で立ち止まった。


「ドラクロワの、民衆を導く自由の女神。レプリカだけどね」

「教科書で見たことあるけど、この絵が好きなの?」

「ああ。俺も好きだし、爺ちゃんが好きだった絵なんだ」

「お爺さんが? へえ──」


 映画だけでなく、色々と連れていってくれたと聞いたことがある。だから幼い音羽くんは、ここへも何度も来たのだろう。

 そう思うと、とても感慨深くて、小さな音羽くんがそこに見えるようで。笑ってしまう。


「実はこの絵の原題に、自由の女神とは付いてないんだ」

「えっ、そうなの?」

「うん。人々を導く自由、っていうのが正確な直訳かな。人々、を民衆と言い換えるのはともかく、女神って付けたのはたぶん日本人なんだよ」

「へえ、すごいねー。そんなこと、よく知ってるね」


 いやいや。と照れて、音羽くんはお爺さんの受け売りだと言った。


「これが神さまでも人間でも、女でも男でもいい。でも俺やお前は、ここに立てる奴にならねえとな。って、何度聞いたことか」

「リーダーになれってこと?」

「うーん、たぶん違うと思うんだ。もう進み始めてることなんか、やりたい奴に任せりゃいいんだとも言ってたから」


 その区別は少し分かりにくかったけれど、聞いたことのあるお爺さんの話からすると、納得も出来た。

 やるべきことを最初に始める人になれ、ということなのだろう。


「うまくいくか、得になるか、誰かが認めてくれるか。そんなことは関係ない。自分がやらなきゃ、世界は動かないと思え」

「そう言われたの?」

「いや。俺の解釈」


 いつもそんな風に出来るなら、その人はきっと素晴らしい。歴史上の英雄みたいな人たちが、もしかするとそうだったのかもしれない。


「なかなか難しいんだよ、これが。でも完璧じゃないにしても、そんな人を見つけたんだ」

「そうなの?」

「そうなんだよ。最初は、印象が似てるなって思っただけなんだけど。見てるとなんだか、そのまんまじゃないか? って」


 音羽くんが言うなら、本当に居るのだろう。すごい人が居るものだと思う。私には、とても真似が出来ない。


「俺もその人みたいになりたくて、その人を助けられるくらいになりたくて。でもまだ、うまくいかないんだ」

「うん……」

「でもさ。これが女神に限った話じゃないなら、俺だっていいはずなんだよ」


 そう聞いて、身近な話なのだと分かった。それがまたうまくいってないとなると、なんと答えていいか思い付かない。

 と思ったら、彼は絵の中心に居る女性を指して、気を吐いた。


「う、うん。そうだね」

「ああ、ごめん。だから俺、自分のやりたいことは、自分からそう言おうと思うって話」

「いいと思う。すごくいいと思うよ」


 伝えることを、ためらわない。与謝野先生から、教わったばかり。思わず息を呑んでしまうほど、強く意識しているその想いを、私はとてもいいことだと思った。


◇◇◇


 音羽くんが美術館で言ったことは、ほとんど漏れなく覚えている。でもいま話そうとしていたのは、私だ。

 彼は彼の意思を強く持っていたいと言ったのであって、私が私の気持ちを言うこととは関係がない。


「覚えてるよ。覚えてるけど……」


 言いかけて思い出した。与謝野先生は、もう一つ言っていたと。

 相手の気持ちを待ってあげる。なにもそれは、自分の伝えたいことを言ったあととは限らない。


「ええと──私はどうすればいいの?」

「月曜日。月曜日の朝まで、待ってくれよ。その時に俺の言いたいことを言う。そうしたら、織紙の言いかけたことも聞く」


 勇気を出したのに、週末を挟むなんて拷問かなとも思った。でも、そうしてほしいと頼まれて、そんなのは嫌だなんて言えるはずがなかった。

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