第116話:残る記憶
デパートやオフィスビルのたくさんある辺りまで、自転車にでも乗れば数分という距離。そんな都心部の真っ只中に、お寺ばかり集まった街がある。
その中のひとつに、タクシーは止まった。私たちが降りると、すぐ前を別のタクシーで走っていたお婆ちゃんたちも降りてくる。
「司さん、お花持たせちゃってすみません」
「問題ありませんよ、こちらは二人でしたから。盆灯籠なら、難しかったですけれどね」
それは狭いですねと、うっかり笑ってしまう。お兄ちゃんの顔を盗み見ると、「うーん」なんて伸びをしながら、空を見上げていた。
さっきの話は、気にしていないみたい。
「立派なお寺ですよね。初めて入りました」
「そうだねえ。手入れもいいし、あたしもこういうところがいいのかねえ」
敷地に入って、墓地を歩いていると、音羽くんがお婆ちゃんに話しかけた。その返事は、ちょっと気になるものだ。
「お婆ちゃん、どこか悪いの?」
「ん? ああ、いやそういうことじゃないよ。あたしは、まだまだ生きるつもりだよ。でもまあ、順番ってものがあるからね」
「ダメだよ。私はこれから、お婆ちゃんとたくさん仲良くしたいのに」
後ろから駆け寄って、手を取る。お婆ちゃんは、ちょっとびっくりした顔を浮かべた。
でもすぐに笑って、優しく言ってくれる。
「大丈夫だよ。憎まれっ子はどうとか言うからね。あたしは、あと五十年は生きる気だよ」
「そんなに仲良くしてくれるの?」
五十年後。私は、六十五歳になっている。お婆ちゃんは──百三十歳くらい。今は五倍近い年齢差が、そうなったら半分くらいになる。
私はその時、お婆ちゃんの半分くらいの人間には、なれているのだろうか。
「それはあたしが聞くことだよ。いつ愛想を尽かされるかと、冷や冷やしているからね」
「そんなことないよ」
そりゃあ良かった。と、お婆ちゃんは笑ってくれた。私の掴んだ手を、ぎゅっと握り返してくれた。
それが私も嬉しくて、同じくらいの力で握り返した。
「あ──ここですね」
「そうだよ。そこが文乃と鉄人の墓さ」
水の入った桶を持って、なぜだか音羽くんが先頭を歩いていた。その足が止まって、織紙家と彫られたお墓に向いている。
お婆ちゃんと私。お兄ちゃんと司さんが追いつく間に、彼はお墓に深く頭を下げていた。
「感心だね。そんな丁寧に、挨拶してくれるなんて」
「あ──すみません。なんだかお墓を見ていたら、初めましてって言いたくなって」
どうしてそんなことをするのかと聞いたら、咎めているように聞こえるかもしれない。
そんな風に言葉を選んでいる間に、お婆ちゃんが聞いてくれた。
その返事は、私の胸を暖かくしてくれる。音羽くんは、私のお父さんとお母さんに挨拶してくれたんだ。
二人をそこに見てくれたんだ。
「さて、まずは掃除です」
司さんは持参したビニールシートを敷いて、そこに上着を置いた。私たちにも、汚したくない物はどうぞ置いてくださいと。
お盆にお参りして、まだひと月くらいしか経っていない。だから雑草もほとんど見えなかったし、落ち葉もそれほどでなかった。
ならばなおさら綺麗にしようと、まずは二人に挨拶をして、私も袖をまくり上げる。
「お父さん、お母さん。また来たよ」
掃除が終わって、お線香をあげた。みんなそれぞれ手を合わせて、しばらく拝む。
私は文化祭のこと。友だちのこと。今日一緒に来てくれた、音羽くんのこと。楽しいことがたくさんあるよ、と報告した。
「また来るよ」
とお婆ちゃんが言って、お参りが終わる。こういうところが、お墓参りってあっけないとも思う。
だからと、ずっとここに居るわけにもいかないのだけれど。
お婆ちゃんと司さん。それにお兄ちゃんは、ついでに繁華街のほうへ行ってお茶をしてくると言った。
お兄ちゃんはまだしも、二人に取って香奈ちゃんは全くの他人だ。
そんなのが大勢で、ずかずかと押し寄せるものじゃないよ。と言ったのは、お婆ちゃん。
それなら音羽くんは。と思ったけれど、彼のほうから、「俺が言い出したんだよ?」と言ってくれた。
すぐ近くにある別のお寺なので、私たちは歩いて向かった。お花やお線香も、その分は別に分けてある。
「──あれ」
「二人とも、よく来てくれたわね」
そのお寺の門をくぐると、中に入ってすぐのベンチに一人の女性が居た。それは樋本さんで、その場に立って、お辞儀をしている。
私も慌てつつお辞儀を返すと、音羽くんは「俺が連絡したんだ」と言った。
「本当は自由に来てもらえばいいんだけど……ごめんなさいね」
「ええ? 謝っていただくことじゃないです」
樋本さんは苦笑しながら、ありがとう、と。それから続けて
「香奈に、いい格好がしたかったの。言乃ちゃんに来てもらったって、私の手柄にしたかったの」
と言った。
それはなんだか、とても子どもじみた言いかたで、痛々しく思う。
どうしてそんな風になるのかと考えたら、樋本さんが香奈ちゃんのことを考える時、それは五歳の子を相手にしているからだと気が付いた。
樋本さんの中で、香奈ちゃんはずっと五歳のままなんだ。だからその小さな子に、「お母さんはすごいんだぞ」と自慢したいんだ。
そう思うと、胸が苦しくて。なにを言えばいいのか、分からなくなった。
「……香奈ちゃん。喜んでくれればいいです」
やっとそんなありきたりの言葉を絞り出して、それなのに樋本さんは「そうね、ありがとう」とお礼を言ってくれる。
なにか申しわけないような気持ちを抱えて、樋本さんの案内に着いていった。
「香奈。言乃ちゃん、来てくれたわよ」
樋本家のお墓は、想像していたよりももっと新しく見えた。掃除が行き届いているのはもちろんだけれど、傷ひとつなくて、去年建てたと言われたら信じそうだ。
側面には、香奈ちゃんの名前しか彫られていない。それがまた、切なさに拍車をかける。
「香奈ちゃん、久しぶりだね」
香奈ちゃんのこと、聞いたよ。私ともっと、仲良くなりたいと思ってくれてたんでしょう? ぬいぐるみを選んでくれたんでしょう?
大事にしているからね。と最後に言うと、どこかから小さな子の笑い声が聞こえた。
でもこれは、お化けじゃない。私の記憶の中の、香奈ちゃんが笑ったんだ。
ずっと。思い出そうとしても、思い出せなかった。香奈ちゃんと遊んで、私も笑っていた。ケンカをして、お互いに泣いた。
きっと思い出せなかったのではなく、思い出したくなかったのだろう。
香奈ちゃんは、私の物をなんでも欲しがった。最後には、お父さんとお母さんまで連れていった。
そう思い込んでいたのだろう。
あの事故で、私だけがつらいんだと考えていたのだと思う。でも樋本さんは、今も悲しみを引きずっている。
私には、辿る記憶が乏しい。それでも悲しいとか寂しいとかいう印象だけは、強烈に残っている。
けれどもそれは、最近の日々の楽しさで十分に薄めることが出来る。それは子どもだった私の、特権なのかもしれない。
大人だった樋本さんは、その記憶と体験を鮮明なまま持ち続けている。すくすくと育つはずだった、我が子の未来を想像するしか出来なくなっている。
香奈ちゃんだって、学校に行ってみたかっただろうに。
「またお参りさせてもらいますね」
「ええ。そうしてくれると嬉しいわ」
樋本さんの気持ちをどうにかしてあげることは、私には出来ない。だからせめて、お手柄になるらしい私のお参りを、続けると約束した。
でもそれは、樋本さんへの憐れみとかではなかった。
私は香奈ちゃんとの記憶を、少し思い出した。その場には必ず、私のお母さんが居る。
彼女は私に、またそんなプレゼントをくれた。だから私も香奈ちゃんに、お礼をしたくなったのだ。
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