第115話:織紙綴葉
「結婚とか、考えないの?」
「えっ、いや──突然どうした?」
月曜日は、振り替えでお休みだった。音羽くんと約束していた、お墓参り。早速実行となって、タクシーに乗った。
三十分も乗っているだろうか。その間ずっと黙っているのも変だし、昨日の話でそういえばと思ったことを聞いてみた。
「三島先生が結婚するみたいだし、他にもするとかしないとかって続けて聞いたから。お兄ちゃんは、どうなのかなって」
「ああ──そうなんだ。でも、考えないのかって聞かれてもね。相手がね」
力なさげに装って、お兄ちゃんは乾いた笑いをこぼす。
「他に結婚するとかしないとかって、誰? ていうか、するとかしないとかって何?」
「ん? それはね、内緒って言われたから言えないの」
「へえ。誰だろうな」
私の隣には、お兄ちゃん。助手席には、音羽くんが乗っている。お墓参りの話をしたら、お父さんとお母さんのお墓にも行こうということになったのだ。
市街地の真ん中に近い、大きなお寺が集まっている町。そこに両親のお墓があって、その近くの別のお寺に、香奈ちゃんのお墓もあるらしい。
「その歳まで、好きな人は一人も居なかったの?」
「なんだ、今日は手厳しいね」
「あ、ごめんなさい。そんなつもりはないんだけど」
「いや。まあ言われても仕方ないな、とは思ってるよ」
二十九歳と言えば良かったのだろうか。なんだか大仰な言い方になる気がして、避けたのだけれど。かえって「そんな歳になるまで」みたいな、嘲る言い方に聞こえたかもしれない。
「そんなつもりじゃないって言ってるのにぃ……」
「あはは。分かってるよ」
「もう」
お兄ちゃんは連載の原稿を、書き始めている。お婆ちゃんの会社で書いていた連載の、正式な続編として書くようだ。
これでいいんだろうかと、常に自意識と戦っていた以前より、筆が随分とスムーズらしい。
そのおかげでか、一昨日より昨日。昨日より今日と、表情がどんどん明るくなる。
「結婚したい──と、思った人は居たんだ」
その言葉で、ぎゅっと空気を握るように。でも微笑んだままのお兄ちゃんは、ぼそりと言った。
「……そうなんだ。知らなかった」
「かなり前のことだしね」
「私が居るから?」
お付き合いしていた人が居ても、私を養っている身では難しいのかもしれない。いわゆるバツイチみたいに、思われるのかもしれない。
「いやいや、全然無関係だよ。言乃の姉になれるだけなら、みんな喜んでくれるはずだよ。でももれなく僕が付いてくるから、来てくれない」
「真面目に聞いて損した」
また笑った。今度はかなり嘘っぽい。乾いているはずなのに、どことなく引っかかる。
「自信を持って結婚してほしいと言えるまで、頑張ろうと思ったんだ。何年も、何年もかかるから、待ってくれとも言わなかった」
「頑張って──どうなったの?」
「頑張れなかった」
ぷぷっと、笑い声と一緒に出された言葉なのに、どうしてこんなに悲しく響くのだろう。
苦笑いで頭を掻いて、おどけるような仕草が白々しい。
「どうして? 諦めちゃったの?」
「頑張ろうと思ったよ。誰よりも立派になろうと思って、誰よりも真面目に勉強していた。でも例の、事故があったから」
両親が亡くなった、交通事故。例の、なんて言われれば、それしかない。
その時お兄ちゃんは大学に通っていて、私を養うために辞めた。お婆ちゃんを頼って、お仕事を始めて。それからずっと、私を育ててくれた。
「私の……」
「違うよ、誰のせいでもない。どうしても誰かって言ったら、ひき逃げした犯人のせいだ」
たまに聞こえる、お兄ちゃんの男らしい声。お兄ちゃんはこれまで、ただの一回も私に嘘をついたことがない。
誰がなんと言おうと、一回もだ。
そんなお兄ちゃんの言葉の中でも、この声は特に信用出来る。お兄ちゃんが自分で確信を持っていることは、自然とこの声になったのだろう。
それは必ず、実現した。
「うん、そうだね。でも……」
「待ってくれって言わなくて、良かったと思ったよ。そこから自分の思うような申込みをしようと思ったら、何年かかったことか」
自分の思うような申込み。お兄ちゃんが好きだった人を、幸せにするために? 立派な人でないと、申込みも出来ないと思ったの?
「その人は、お兄ちゃんの気持ちを知ってるの?」
食いつくなあ。なんて、またお兄ちゃんはおどける。私はじっと見つめているのに、お兄ちゃんの目は泳ぎ続ける。
その中の一瞬、目が合った。
お兄ちゃんの目は伏せられて、参ったなという風にため息だけが置かれていった。
「……知らないよ。言えるわけないだろう? そんなこと」
「そうなんだ──」
好きな人に好きとも伝えず、一人で頑張ろうと思ったお兄ちゃん。その覚悟は、ちょっと格好いいとは思う。
でも、もしそれをその人が知っていたら。
いくらでも待つと、言ったかもしれない。一緒に頑張りたいと、言ったかもしれない。
そう思うと、やるせない。
「だからね音羽くん」
「えっ! あっ、はい!」
急にもほどがある。
音羽くんは、自分が聞いてもいい話なのかと思ったのだろう。窓の外をじっと見て、気配をなくしているところだった。
そこへ突然に呼びかけたものだから、驚いて飛び上がるというのを、私は初めて目にすることになった。
「いくら頑張っても、計画しても、その通りにならないことなんて、いくらでもあるんだよ」
「青天の
「それもあるけど、やっぱりタイミングってあると思うんだ」
タイミング? ここでその言葉が出てくる意味が、私はいまいち分からなかった。音羽くんも、怪訝な顔で振り返るばかりだ。
「例えばね。平安時代の人が空を飛びたいと願ったって、それは無理だ。逆に僕が、オードリーヘプバーンと結婚したいと思っても無理だ」
「それはまあ……」
「僕が有名人でもイケメンでもないからとか、そういうことじゃなくてね。出会うことが出来なきゃ、どうしようもないんだよ」
なにを言いたいのか、はっきり言うのが照れくさいのだろう。ぼんやりした理解しか、出来なかった。
けれども分かるのは、お兄ちゃんは本当にその人が好きだったんだなということ。もしかしたら、今も想い続けているのかもしれないこと。
「だからね。これはやれるってチャンスがあったら、やったほうがいい。見逃すなら、それを上回るなにかのためだけにしたほうがいい」
「──分かりました」
音羽くんが所在をなくしていたのを、かわいそうに思ったのだろうか。それともなにか、私に直接言うのがはばかられる理由があったのだろうか。
ともかくお兄ちゃんは、もうこのことについてそれ以上を教えてくれなかった。もうなにもかも言った、と。
「お兄ちゃん。今日の晩ごはん、なにがいい?」
「そんなことで、機嫌を取ろうとしないでくれよ」
そう言いつつもお兄ちゃんは、クワイの煮物がいいと希望を言った。
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