第114話:終わりの時
一時間ともう少しくらい。保健室のベッドで寝ていると、気持ち悪さはほとんどなくなった。
クラス委員の女の子が様子を見に来てくれて、みんなのところへ戻ることにした。
「織紙さん、無理しすぎじゃないの? 終わるまで寝ててもいいんだよ。まあそれじゃあ、つまらないのも分かるけど」
「ありがとう。たぶん場に酔ったとか、そういうのだと思うから」
「そうなんだ、良かった」
私はこの子の名前を、呼んだことがあっただろうか。いやもちろん、ホームルームなんかで進行役になったりする機会は多いから、そういう時は名前を言う。
でもそうではなくて。
自分から呼びかけようとして。この子の名詞としてでなく、感動詞として口にしたことがあっただろうか。
──たぶん、ない。
「えっと……」
「あ、野々宮さんと天海さん? カフェが忙しくて、全然抜けられそうにないの。だから暇な私が来たの」
「暇なんてそんなこと。午前中、頑張ってたの見てたよ」
あははと軽快に笑って「見られてたかー」と照れる。こんなに話しやすい人と、どうして私は、今まで話してこなかったんだろう。
でもそんなことを悔やんでも、やり直すことは出来ない。この子の記憶にある、たくさんの人たち。私はきっと、そこに埋もれていく。
「えと、あのね」
「うん?」
「下の名前──なんだったかな」
私が知らなかったことを、その子は責めなかった。どうして聞くのか、とも聞かなかった。快く、教えてくれた。
「織紙さんは──ごめん、なんだっけ。コトまでは分かるんだけど」
「私の名前はね、言乃っていうんだよ」
そうだったね、なんて。たぶん忘れてなんか、いなかったのだろう。私に罪悪感を与えないように、気を遣ってくれたんだろう。
この子も、すごくいい人だ。
「あの……もし、嫌じゃなかったら。で、いいんだけど……」
「うん、なあに?」
「名前で呼ばせてもらっても──いい、ですか」
気付いたら、そう言っていた。途中で正気に戻って、敬語になってしまうほど驚いた。
「なんで最後、敬語になったの? 面白いね、織紙さんって。もちろんいいよ」
「ありがとう。私のことも──」
「コトちゃんって、呼んでいいかな?」
どれほどぎこちないんだと、呆れそうになる。それはもちろん、私のせいだ。
なんだかおかしくなって、笑いが止まらなくなった。詩織さんみたいに。
でも最初に顔が緩んだのは、そのせいではなかった。また一人、お友だちが出来たのかなと思えたからだ。
カフェに戻ると、聞いていた通りにお客さんがたくさん入っていた。用意している椅子が、片手で数えるほどしか空いていない。
「コトちゃんお帰り! これ出してくるから、待っててね!」
制服にチーフを巻いて、エプロンをかけて。祥子ちゃんがバタバタと、奥の席に向かっていった。
「迎えに行ってくれてありがと。だいじょぶって?」
「問題ないみたいよ。先生はなにも言わなかったし、コトちゃんも平気だって」
「へえ──? 良かった。でも今、見ての通りなの。あとでね」
クラス委員の子は、別のお友だちとどこかに行くらしい。手を振って去っていった。
祥子ちゃんと同じく、お仕事中の純水ちゃんも、長い脚をさっさっと動かして調理スペースに消えた。
「言乃」
「えっ、あっ。お兄ちゃん」
後ろから声をかけられて、びくっとした。でも声でもう分かっていた。向きを変えると、すぐそこにお兄ちゃんが立っている。
その手が指す先には、お婆ちゃんと司さんも。
「みんなで来てくれたの? すごく嬉しいけど、私の出番は終わっちゃったの……」
「知っています。この通り」
三人のテーブルには、ビデオカメラらしき物が載っている。そこには今の映像でなく、撮影したものが映し出されているようだ。
「え、これ。筒井筒」
「そうだよ。司が撮りたいと言うからね、今日も来たんだよ」
「はい。このカメラは、昨日奥さまに言われて購入しました」
そのやりとりにお兄ちゃんが、ぷっと笑う。お兄ちゃんの笑顔を見たのは、久しぶりだ。
「気持ち悪くなったのも聞いたけど、保健室で休んでいるし、それで治るだろうって聞いたから。待ってたんだよ」
「そうだったんだ。でも私、まだ帰れないよ」
聞いてみると、三人で近場の観光地に行く計画だったようだ。でもまだもう数日は滞在するので、今日はここでお茶をして過ごすと決めたらしい。
「コトちゃーん、もうだいじょぶ?」
「うん、心配かけてごめんね。すぐ私もやるから」
「いいよ、無理しないんだよ」
私が店員をする時間帯は、もう終わっていた。まだカーミラの上演の時間が残っているけれど、それでは気がすまない。
「つらかったら休ませてもらうから。せっかくの文化祭なのに、ずっと見てるだけなのは、ね」
「そうだねえ──無理しちゃダメだよ?」
「うんっ」
それから一時間ほど、注文を聞いたり商品を出したり。調子を崩すことはなかった。
少し休憩をして、カーミラが演じられる前後、また一時間とちょっと。
スピーカーから、ジーっとノイズ音が聞こえ始めた。
「この時間を以て、文化祭の全てのプログラムを終了とします。生徒のみなさんは、来場された方のお見送りをしてください」
クラスメイトだったのか、お客さんだったのか、誰かが拍手をした。それを聞いて、私も手を叩く。みんなも手を叩く。
祥子ちゃんも純水ちゃんも、お婆ちゃんも司さんも。お兄ちゃんも。
早瀬くんと音羽くんは、調理スペースから出てきた。やはり手を叩いている。
学校中が全部。拍手の雨音に包まれた。
「終わった……ね」
「終わったよ。あたしたちの文化祭」
「楽しかったねー。またやりたいね、みんなで」
また。
もう一度やることは出来る。私たちの学校では、進級してもクラス替えがない。だからよほどのことがない限り、同じメンバーで文化祭が出来る。
もちろん文化祭だけじゃなく、他のどんな行事だって。
「う……」
それなのに、寂しくなった。
もう一度やることが出来て、その次もある。でも、またその次はない。
三回しかない機会の、一回目が終わってしまった。高校で最初の文化祭と銘打つなら、もう二度とやることは出来ない。
そんなことが、どんどん頭に浮かんでくる。そうしたら、うっすら涙が溢れてくる。
「寂しいね。でも、あたしたちはずっと一緒だから」
「そうだね。寂しいなんて、思う暇もないくらいに遊ばないとねー」
両手を握られた私は、涙を拭うことが出来なかった。ほっぺや鼻が、くすぐったい。
それを正面に立ったお婆ちゃんが、拭いてくれる。お香の匂いのする、ピンク色のハンカチで。
「みんな。不器用な孫だけれど、どうか仲良くしてやっておくれね」
「言われるまでもないですよ」
「冬休みに、お婆ちゃんのとこへ行ってもいい?」
そんな相談なんてしていないのに、祥子ちゃんが言った。みんなの都合がいいなら、私は嬉しいけれど。
「ああいいよ。歓迎させてもらうよ」
「もう、祥子。勝手に決めないの」
「あれ、あーちゃんは行きたくないの?」
「行くに決まってるでしょ!」
「僕も引率で行こうかな」
みんなで笑って、いい文化祭だと思った。
私の高校生活は、まだ二年以上も残っている。寂しがっている場合じゃないんだなって、そう思えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます