第113話:与謝野晶代
気持ちいい弾力のマットレスに、柔らかい敷布団。それと同じく白いシーツの付いた毛布。真っ白に包まれるのは、これで二度目。
「私が居るから、あなたは戻ってていいわ。頑張ってね」
「はい。よろしくお願いします」
お芝居の最中に、急に吐き気を催したこと。音羽くんが説明してくれて、頭を打ったり寝不足だったり、心当たりを聞かれた。けれど私にもそういうものはなにもなくて、とりあえずしばらく休んで様子を見ようとなった。
だから音羽くんは、教室に戻っていく。
ベッドを仕切るカーテンに手をかけたまま、与謝野先生は彼を見送っていた。扉が閉まってしばらくそのままだったので、「先生?」と呼んでみる。
「ん、なあに?」
「いえ、どうかしたのかと思って」
「どうか? してるのは織紙さんじゃないの?」
ふふっと笑って、先生は言う。
私が? どうかは、しているかもしれないけど。それとこれとは関係ないと思う……。
「誰にも言わないから。もし言いたいことがあるなら、言ってしまっていいのよ。それはすごく嬉しい気持ちだけど、溜め込みすぎるのは良くないわ」
「え、ええ?」
気付かれているのだろうか。そうだとしたら、どうして。前にも先生は、私のことをちゃんと知ってくれていた。それと同じなのだろうか。
「いや分かるわよ。ここへ来た時、織紙さんは手を引かれながら、恥ずかしそうに彼を見てた。どうしてこの子たちは、デートでこんなところに来ちゃったんだろうって思ったもの」
「でっ、で、ででで、デート⁉」
「あら、織紙さんも慌てることがあるのね」
また、くすっと笑われた。
先生は微笑みを残して、ベッドの端、私の足元のほうに腰をかける。
「あなたとテツくんは、よく似てる。でも一つ違うのは、どうしてもこれっていうことを彼は我慢出来ない。あなたは我慢しちゃうのね」
「我慢出来ない?」
「まあなんだか今はそれが拗れて、あなたのためになるだろうってことを、優先しすぎてるみたいね」
お婆ちゃんが来た時のこと。それからケイ出版でのお仕事のこと。お兄ちゃんは、私をどうしたいのか、私の兄としてどうあるべきなのか、そんなことばかりで悩んでいたみたいだ。
先生が言ったのは、当たっている。
「彼と夫婦役をしていて気分が悪くなったんでしょ? 実際には言えないのに、それで気持ちがぐちゃぐちゃになったのかなって思ったんだけど」
「そう、なんでしょうか──」
そうかもしれない。でも、間違いなくそうだとも思えない。
音羽くんへの気持ちは間違いないと思うけれど、それならどうしてと思う。彼に伝えれば楽になるんだろうか。
だからと、それならすぐにでもとも思えない。
「うーん……」
私が言葉に詰まると、先生もなにか考え込んだ。記憶を探っているような、なにか迷っているような素振りのあと、声を潜めて言う。
「ねえ、内緒にしてくれる?」
「え? ええ──」
「あのね。実は私、ここの生徒から結婚を申し込まれたことがあるの。ずっと若いころにね」
「そ、そうなんですか」
先生の若いころと言ったって、遥か何十年も前ということはない。どれだけ遡っても、十数年くらいだと思う。
そのころ先生と生徒での恋愛は、どう見られたのだろう。今は想いが純粋でも、すぐにニュースとかになるみたいだけれど。
「でもすぐ振られたの」
「お付き合いしてたんですか」
「ううん。告白と同時に結婚を申し込まれて、すぐ振られたわ」
「え──移り気ですね」
そんな無茶苦茶なと思ったけれど、なんとか移り気という言葉で、オブラートに包んだ。
勢いで告白とプロポーズが同時はまだしも、数日とか数週間とかで「なしで」とでも言ったなら、その生徒の人格を疑う。
「移り気っていうか、真っ直ぐだったのね。すぐって、本当にすぐだった。具体的には、結婚を申し込んだ直後」
「直後ですか?」
「ええ。数秒後くらいかな?」
わけが分からない。それはもう、イタズラでしかない気がする。しかし先生は、それで腹が立ったとか、からかわれたという話し方でないように見える。
とても大切な思い出を、するり、するりと、私の前に紐解いてくれているような。
「『先生が好きなんです。卒業したら、結婚していただきたいと思ってます』その子は、まずそう言ったの」
「告白して、申し込み──ですね」
「どう見ても、卒業前に女の先生をからかってやろうとか。そういうのじゃなかった。真剣に、私の目を見て言ってくれた」
真剣だと、分かるものなんだ。きっとその時以外に、その生徒以外に、同じようなことを言った生徒は居たのだろう。
その中で、先生はそうだと分かったんだ。
「もともと、よく知ってる子だった。なんて答えたらいいんだろうって、悩んだわ。これだけ真剣に言ってくれるなら、しかも卒業してからって言うなら、考える余地くらいはあるのかもとも思った」
「そう言ったんですか──?」
先生は、優しく首を横に振る。
「でもそんなこと、すぐに返事をしちゃダメだと思って。何日か待ってくれるように、言おうとしたの。でも言わせてもらえなかった」
「告白したのに……」
「ええ。彼は私が喋ろうとするのを『待ってください』と止めたの。それから、『僕が卒業してすぐに、先生を支えられるわけがない。大学を出て、就職して、一人前になるまで先生を待たせるなんて、許されるはずがない』」
「だから結婚はしてくれなくていい、ってことですか」
まさかと思いながら聞くと、そのまさかだった。先生は苦笑して頷く。
なんて自分勝手な話だろう。一瞬、そう思った。でもそうまでして言っておきたいと思う気持ちも、分かる気がしてきた。
「そうなの。『先生の中で、僕がたくさんの生徒の中の一人として埋もれるのは悲しかった。僕が先生を本気で好きだって、知っておいてほしかった。これも先生を困らせる我がままだと分かっているけど、我慢出来なくてすみません』ってね」
「我がまま……先生は、どう思ったんですか」
その気持ちは、痛いほど分かる。好きな人に出会えて、結婚したいとまで思ったのに、自分が叶えることは出来ない。
なんとかなるかもしれないよ。と、言うことは出来るだろうけれど、その生徒はそう判断したんだ。まだ十七か十八かの年齢で。
その判断が間違っていたとしても、おかしいと責められる話ではないと思う。
そこまできちんと考えたのに、それが我がままだとまで思ったんだ。それは、我がままになってしまうんだ。
人に好きだと伝えることが。
「どうかしらね。考える前に振られちゃったから、私もその先のことは考えられなかった。でもその子のことは、とても好きになった。人間的にね」
「今も、ですか」
「ええ。まれにだけど、最近でも話すことがあるわ」
その生徒の願いは、叶えられた。でもそれで良かったと、今も思っているのだろうか。そんな強い想いをぶつけられて、考えることさえ出来なかった先生はどうなのだろう。
「先生。とてもぶしつけなことを、聞いてもいいですか」
「いいわよ?」
「ご結婚は、されていましたっけ」
先生の目が、一度逸れた。すぐに戻ってきて、また苦笑が漏れる。
「したけど、別れたの。だから与謝野は元の苗字よ」
「あ、ああ。そうなんですね、すみません。変なことを聞いてしまいました」
いいのよ。と先生は言って、ベッドから腰を上げる。
あれ。結局どうして、この話になったんだろう。
「彼は我がままだって言ったけど」
「え?」
「やっぱり、言ってもらえなきゃ気が付かなかった。待てって言われなかったら、他の結果があったかもしれない」
ゆっくりと、カーテンが閉められていく。先生は私を見ずに、カーテンレールなのだか、天井だか、上のほうばかりを見ていた。
「だから。伝えることを、ためらわないほうがいいと思う。伝えたら、相手の気持ちを待ってあげないとダメだと思う」
「……やっぱりその人は、我がままということですね」
「そうね。もしその子と会うことがあったら、言っておいて」
カーテンが最後まで引かれて、先生は自分の机に戻ったらしい。私は毛布を鼻まで上げて、天井を眺める。
その子と会ったらって、名前も年齢も分からないのに。もちろん本当に伝わるとは、思っていないのだろうけれど。
「伝えることを、ためらわない。相手の気持ちを、待ってあげる」
そうすれば、我がままじゃない。
私は何度も、その言葉を呟いた。
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