第112話:嗚咽
嫌われたわけじゃなかった。
そうはっきり聞いたのではないけれど、きっとそうに違いない。
そうでなかったら、私が探していたことに謝ったりしない。そうでなかったら、私なんかが抱きついてしまったら、嫌がるはず。
それどころか周りの人に見られながら、私に声が届くまでは、じっとしてくれていた。
恥ずかしかったはずなのに……。
それ以外は絶対にない、とまで確信したわけではなかった。でも少なくとも、私が話せば聞いてくれる。彼が言いたいことは、言ってくれる。それだけでも十分だと思った。
午後最初の演目で、私はまた筒井筒を演じた。結婚相手が浮気するのは嫌だけれど、どんな時にもその人の無事を祈る気持ち。それが昨日よりも強く、素直に私の中へ落ちてきた。
だから最後のセリフも、もっと気持ちを込めて言おうと思った。お芝居だけれど、お芝居じゃなく。
本当の私の気持ちそのままを乗せて、言おうと思った。
「愛している、言乃」
音羽くんはお芝居で言っている。これはセリフに過ぎない。
分かっていても、嬉しいと思う。その気持ちを、私のセリフに乗せて言おう。本心なのだから、それほどリアルなお芝居もないに違いない。
「優人さま、優人さま。私はずっと、ひと時も変わることなく、お慕いして──」
内からはちきれそうな気持ちが、言葉の一つひとつに力を与えた気がする。
でも、そこで支えた。
はちきれそう。が一瞬で、吐きそう。になった。気持ち悪くて、お腹に力を込めて息を止めないと耐えられなかった。
「──織紙?」
私だけに聞こえるくらいの小さな声で、音羽くんが心配してくれている。目と目が合ったまま、吐き気のせいで涙目になっているのも気付かれただろう。
不自然な間が数秒あって、気持ち悪さの波が遠のいた。その隙に唾を飲み込んで、吐き気もお腹の底へ押し戻す。
「お慕いしております。幼き日から、歳老いてその先までも。貴方のことを」
咄嗟に思い浮かんだ言葉を付け加えた。これでなんとか、感極まったという演出だと思ってもらえないだろうか。
これで幕だと、気が緩んだ。そこにまた吐き気が込み上げる。もう音羽くんと目を合わせている余裕はない。
顔を俯けた私を、音羽くんは抱きしめた。
大きく袖の取られた衣装が、すっぽりと私を覆い隠す。
口に手を当てて、そのまま彼の胸に体を預けることになった。余計なことをしたら、吐いた物を彼に被せてしまう。
「織紙。もう座っていいよ」
まだ小さな声で、彼が言った。言われた通りに腰を下ろすのも、彼が手を貸してくれる。
幕の向こうからは、お客さんの拍手がまだ聞こえる。もう一度幕を開けて、挨拶をしないと。
「織紙、もう下がろう。無理だよ」
「大丈夫。私は大丈夫だから」
ほんの数拍、音羽くんは黙った。私の様子を観察しているのか、じっと見ている。
するとおもむろに、彼は舞台袖に水を飲む素振りを見せた。大きな声は出せないので、水を持ってきてほしいと身振りで伝えていた。
「ほら、これ」
水を差し出してくれるのに、私は返事を出来なかった。震える手で、半ば奪い取るようにペットボトルを持つ。
三口くらいを一気に飲んで、喉の奥が急激に冷めていった。それと一緒に、激しい吐き気も治まった。
治ったとまでは言えないけれど、挨拶くらいは出来そうだ。
「みんな、ごめんなさい。もう平気」
心配して集まってくれていた、クラスメイトたちに言った。やはり大きな声は出せないので、いいよと身振りで示してくれる。
そのままなんとか無事に、挨拶を終えることが出来た。
舞台袖に下りて、そこに居た人たちに頭を下げる。
「突然ごめんなさい。みんな、ありがとう」
「えっ、いや。驚いたけどさ、仕方ないよ」
「そうよ。織紙さん、頑張ったよ」
ここまでちゃんと出来ていたのに、どうして最後がこんなことになるんだろう。自分だけのことならいいけれど、みんなで一緒に作り上げるものなのに。
「コトちゃん、アドリブ良かったよー。音羽もナイスー」
落ち込む私を、袖のみんなが囲む。そんな所に、祥子ちゃんがやってきた。
「あれ、どしたの?」
「いやまあ──さっきのはアドリブというか、織紙の気分が悪くなったみたいでさ」
「えっ、そうなんだ。コトちゃん、立ってていいの?」
祥子ちゃんは、数歩の距離を全速力で駆け寄ってくる。誰かが持ってきてくれた椅子を受け取って、私を座らせてくれた。
「私、これが締めくくりだと思って。一所懸命にやろうと思ったの。でもどうしてだか、気持ち悪くなって。みんなに迷惑をかけちゃった……」
「そ、そんなことないよ。うち客席のほうから見てたけど、コトちゃんは泣いた演技をしてるんだと思ったもん。お客さんも、二人の演技が良かったって、褒めてたよっ」
お客さんには、そう見えたのか。それなら少しは、気が楽になる。でもみんなをバタバタ慌てさせたのは事実で──。
「いんだよ、コト。もし本当の大失敗をしてたとしても、それはそれで笑えるいい思い出になるんだから」
「そんなことになってるとは、私は気付かなかった。全然問題なかったと思うわ」
祥子ちゃんとは遅れて続いていたのか、いつの間にか純水ちゃんも居た。その隣に、実行委員会の副委員長さんも。
「ええと織紙さん、でいいの? お芝居だって、委員会の仕事だって、最後にうまくまとまっていれば、それは成功なの。途中でなにもトラブルがないなんて、なにをやるにしてもあり得ないのよ」
さすが三年生は、言うことに説得力がある。「私が言うなって話だけどね」とおちゃらけてくれるのも、私を思いやってのことだろう。
「そうだよー。なにがあったって、うまくいったあとは棚に上げちゃっていいんだよー」
「天海さん──それは本当にごめんなさいっ。もう許してっ」
痛烈な皮肉だけれど、なんだかすごくニヤニヤしながら言った祥子ちゃん。ユーモアだと理解したみたいで、大げさな動作と言い方で謝る副委員長さん。
クスッと、笑ってしまう。
委員会があれこれしていた真相を知らない他のみんなも、意味が分からないながら笑っている。
「うまくいくなんて、当たり前よ。あなたたちのクラスは、きっと最初からうまくいってた」
「ん、どういうことです?」
「委員会なんて組織がダメだって言ったら、普通はその制限の中でどうするか考えるものよ。でもあなたたちは違った。どうしたら自分たちのやりたいことが出来るか、そればかり考えていたでしょ?」
それはその通りだと思う。でもどうして知っているのだろう。副委員長さんの視線は、なぜだか音羽くんへと向いた。
するとこれもなぜだか、音羽くんはあさってのほうへ顔を向けている。
「彼なんて、全部のクラスと全部の部活を回っていたもの。貸してもらえる場所はないかって、とても真剣で必死になっているのが分かった」
「そちらのクラスにも行ったってことですか?」
「ええ、そう。私はどんな顔をして聞いていればいいのか、自分が恥ずかしくてたまらなかったわね」
そうなんだ……。
それはきっと、私が音羽くんを探した時のことだろう。どこに居るのか言わないよう、早瀬くんに言って。
音羽くんは、そんなことをしていたんだ。
「そこまでしてくれてたんだ。ありがとう、音羽」
「いや……結局、成果はなかったし。こうしてバレたら、恥ずかしいし」
両手で顔をごしごしと、音羽くんは顔を隠した。
良かった。私を避けるためじゃなかったんだ。
お化け屋敷での言葉で、そうだと信じられはした。でもやっぱり、こういうことだったんだとはっきり知れるのは安心する。
「そんなことより織紙。保健室に行くぞ」
「えっ、平気だよ」
「ダメだよ。少し休憩させてもらわないと」
純水ちゃんも、「そうしておいで」と言った。私はおずおずとして「はい」と、小さく返事するほかなかった。
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