第110話:怒声
ある会社で、文芸誌の編集長をしている。それがその男性の自己紹介だった。肩書きだけで、名前も言わなかった。
「こういう話は、おおっぴらにして良いわけでもないですから。最後になかったことにする場合、私が誰だか知らないほうがお互いにいいでしょう」
そんな風に言われると、なんだか犯罪にでも巻き込まれそうにさえ思ってしまう。不安の目をお婆ちゃんに向けると、「大丈夫だよ」とだけ言われた。
「まあ。こんなことをしても、察しは付くでしょうがね」
自嘲気味な笑い。それはわざと演出っぽく作られた表情で、首がちょっと傾げられた。
その表情や言葉は、むしろそうすることで察しを付けさせようとしているように見える。
お兄ちゃんならば、心当たりがいくつかあるのかもしれない。でも私にもそういう態度を向けてくるということは、私にも心当たりがあると知られている。
それはつまり、ケイ出版。日本で屈指の、きっと一番か二番の大きな出版社。祥子ちゃんがお父さんを通じて、お兄ちゃんを紹介してくれたところだ。
「料理はおいしく食べたほうがいい。だから出てくる前に本題といきますが──綴葉さん、どうされます?」
「はあ……」
私たちの席は、床から天井まで大きく開口された窓のすぐ近くだ。お店に入る前に思った通り、夜景がよく見える。
でもこんな怪しげな雰囲気では、「わあ綺麗」と考えるような気持ちにはならない。
自己紹介が終わったあと、お兄ちゃんはずっと、その景色に目を向けていた。前を向きかけて、顔を俯ける。それは家を出る前から同じだ。
「綴葉。さっき言った通り、権利関係は解決しているよ。あとは自分の気持ち次第さ」
お婆ちゃんが言ったのは、お兄ちゃんになにかを促すためというよりも、この編集長と名乗る人に聞かせたのだろう。もうそこのところは、説明済みだと。
お兄ちゃんは、これにも浮かない表情を返すばかりだ。
「うちの会社じゃ、もう新しく書くってことは出来ないんだよ。迷う理由はないと思うけれどね。なにが気に入らないんだい?」
「こちらも、これという特別待遇が出来るわけではありません。しかしこれまでの時間をお待ちして、私がここまで出向いている。ある意味でこれは、相当の特別待遇なんですよ」
作家のお仕事は、好きに文章を書いて終わりということはない。難しいことは分からないけれど、大人の事情というのがいくつもあるだろう。
でもどうやら、それは二人が解決してくれているらしい。そうなるとやはり、お兄ちゃんの気持ち次第というお婆ちゃんの言葉通りだ。
なにを迷っているんだろう。なにに困っているんだろう。私が助けてあげられることは──なにか。なにかないのかな。
「お兄ちゃん……」
「僕は」
なにをするとも思いつかないままに、お兄ちゃんを呼びかけた。するとお兄ちゃんは、後ろから蹴り上げられたような勢いで言葉を放り出した。
「恥じているんです」
「恥ずかしい? なにがです?」
「祖母のおかげで仕事をさせてもらっていたのに、妹には大きな顔をしていた。終いにはその友だちに、高校生に、仕事を世話してもらう体たらくです」
大きな独り言のような、お兄ちゃんの言葉。やっぱり、そのことで悩んでいたんだ。
前回お婆ちゃんが来た時から、お兄ちゃんは沈んでいた。
私に嘘をついていたと、土下座みたいに頭を下げて。それからずっと悔いていた。
「だからって、他になにが出来るでもない。食うためにはなにかしなきゃいけないのに、踏ん切りがつかない。生きてなきゃいけない。
それがここ数週間で、嫌というほど分かった。浅ましい男なんですよ、僕は……」
痛ましいものを見るような、お婆ちゃんと司さん。どんな顔をすればいいのか、困った表情の編集長さん。
ダメだよ、お兄ちゃん。そんなこと、ダメなんだよ。
「お兄ちゃん」
「──え?」
私は気付かないうちに椅子を立って、気付かないうちに声を発していた。
「そんなことで悩み続けてたの? そんなことで、せっかくのお話もダメにしちゃうの?」
「言乃。いや、うん。お断りを──」
「お婆ちゃんが、お仕事させてくれたって。最初はそうだったかもしれないよ。でも、お兄ちゃんの本を買ってくれた人は居るじゃない。ファンレターだって、少しだけど来るじゃない」
お兄ちゃんに対して、初めての感情。これはなんだろう。怒りなんだろうか。それとは違う気がするけれど。
「祥子ちゃんも純水ちゃんも、お兄ちゃんの本を持ってるよ。音羽くんの部屋にもあったよ。早瀬くんなんか、サインが欲しいって言ってたよ。
みんなお兄ちゃんの本が面白いって言ってたよ。それも誰かが仕組んでくれてるって思うの?」
「いや……」
「私だって──」
映画のバイオレンスシーンで、殴り続けられる人。だんだんと生気のなくなっていく様を、見ているようだった。
これを私がやっている。大好きなお兄ちゃんを、私は痛めつけている。
でもこのままじゃダメなんだ。言わないわけにはいかないんだ。
「私だって、お兄ちゃんが居なかったらどうなってたか分からないよ。どんな手を使ってだって、見放されるよりそのほうがいいに決まってるよ」
「言乃さん──」
私の声は、徐々に大きくなっていた。自分でも気付いている。でもお兄ちゃんは、それでも無理なんだよと首を横に振る。
傍まで来て声をかけてくれた、司さんには悪いけれど。言わなきゃ。
「私のお兄ちゃんは、すごい人なの! お兄ちゃんの悪口を言うなんて、お兄ちゃんでも許さない!」
天井の高い広い店内が、その一瞬だけ静まりかえった。BGMのピアノだけが、白々しく流れ続ける。
少しの間のあと、また元のざわめきが戻った。司さんが周りに頭を下げて、駆け寄りかけた店員さんも戻っていく。
「ごめんなさい……」
「熱烈なファンだね。あたしも長いこと見てきたけど、ここまでの子は見たことがないよ」
半笑いのお婆ちゃんが、皮肉めいて言う。騒がせてしまったことは謝ったけれど、その言葉には当たり前だと思う。
血の繋がった兄妹で、親子のようでもあって、そんな私が織紙綴葉に向ける気持ち。それが他のファンになんて、負けるはずがない。
「さて……」
まだ迷っているのかは分からない。お兄ちゃんは、私の声に驚いて目を見張ったままだから。
そこに話しかけたのは、編集長さん。懐からなにかケースを出して、そこから白いカードを一枚取る。
「私が説得する必要は、なくなったようだ。この名刺を受け取るか、料理が来るまでには決めていただけますか?」
お兄ちゃんと対面に座っている編集長さんは、テーブルの真ん中に名刺を置いた。裏返してあるので、なにが書かれているのかは分からない。
お兄ちゃんは大きく深呼吸をして、「はい」と言った。テーブルの上に右手が出されて、握ったり開いたりしている。
「──あの、間もなくですが。お料理をお運びしてもよろしいでしょうか」
「先ほどは失礼しました。お願いします」
そっと近付いた店員さんが、確認を取る。司さんも迷わずに答えて、時間制限は定まってしまった。
「──そういえば、私も綴葉さんのファンを知っていますよ」
「え、あ。そう、ですか」
ゆっくりとだけれど、もう手を伸ばしかけていたのに。編集長さんは、間の悪い後押しを言った。
伸ばそうとしたのと同じ速度で、お兄ちゃんの手は引っ込められていく。
「あなたが高校生に紹介してもらったと恥じるなら、こちらは高校生に乗せられたと恥じなければならない。
幸せは、譲ることも譲られることも出来ない──のではなかったですか?
私のデスクにも、あなたの本がありますよ」
「あ、あ……」
「あなたの人生は、あなたの書いた文章の通りらしい。あなたの妹さんを、あなたの見張りに雇いたいくらいだ」
にこっ、と。渋いおじさんが笑っても、可愛くはなかった。でもなんだか、いい人そうだなとは思った。
そのせいではないだろうけれど、お兄ちゃんはのろのろと椅子を立つ。両手で手を伸ばして、名刺を取った。
名刺の表を読んで、覚悟を決めるためにか、また大きく息を吸う。
「お世話になります」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
編集長さんとお兄ちゃんは、硬く手を握り合う。お婆ちゃんは、ほっとしたような呆れたような顔で、鼻から息を吐く。
二人が手を離して座るとすぐ、たくさんの料理がテーブルに並び始めた。
「さあさあ、綴葉先生の連載開始のお祝いです。遠慮なく食べてください」
「えっ、いきなり連載ですか」
「そうです。まあ掲載は、四ヶ月先ですがね」
良かったね。またこれからは、気持ちよくお仕事が出来るね。
そう言ってあげたかったけれど、このあと私はほとんどなにも喋らなかった。思い出すと、さっきの大声が恥ずかしくて、なにも言えなかった。
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