第109話:予想外
「ダメだよ」
そう言われて、舞い上がりかけた気持ちが萎んでいった。
「お婆ちゃんと、ご飯を一緒に食べるって言ってたでしょ。もう忘れたの?」
純水ちゃんが言っているのは、音羽くんにだ。私にじゃない。
ああ──そうだった。今日は行けないや。
そう感じたと同時に、ほっとする自分に気付く。
なにかは分からないけれど、なにか用事に誘われた。私に一緒に来てほしいと。
それを私は喜んでいたはず。二人だけと言われて、デートみたいだと思ったのは否定出来ない。
なのに、ほっとした。
「あっ、そうだった。ごめん、織紙。俺はまたでいいから、気にしないでくれ」
「う、うん。ごめんね」
胸がドキドキ。さっきの切なさとは違う。ただ苦しくて、気持ち悪い。どうしてこんな風になったんだろう。自分でも、なにがなにやら。
一つ確かなのは、音羽くんに誘われたまま一緒に行っていたら、彼に迷惑をかけたということ。
この気持ち悪さはひどい。今はまだ大丈夫だけれど、無理をしたら嘔吐してもおかしくない。
幸い、誰も私の体調に言及しなかった。私たちはまた、講堂のロビーや自分たちの教室であれこれ忙しく動き回った。
文化祭の一日目が終わったころには、みんな疲れきっている。でもどう考えたって名作カフェは大成功で、清々しい疲れだった。
私もお昼休みに気分が悪くなったのは、忘れかけたくらいに。
「じゃあね、コトちゃん」
「コト、無理しないで休むんだよ」
「あ、うん。そうだね」
二人が目配せで、体調を気遣ってくれる。そうだった、彼女たちは三日前に私が休んだ理由を知っている。
その時の理由──音羽くんへの気持ちではないほう。それはもう平気だった。
でもそうだと思っているのなら、そうして置こうと思う。内緒にしたいわけではないけれど、どうしたのかと聞かれてもなにも説明が出来ない。
またどうしようもなくなりそうだったら必ず相談するから。心の中でそう言いわけして、みんなと別れた。
──家に帰ると、ダイニングでお婆ちゃんと司さんがお茶を飲んでいた。「お帰り」「お帰りなさい」と言われて、「ただいま」と言う。
にこやかな空気だけれど、なにか不自然な気もした。
「少し休んでからにするかい?」
「ううん、平気」
「そうかい、それじゃあ着替えておいで。大して気張ったところじゃないから、適当にね」
柔らかく笑いながら、お婆ちゃんは言った。予定通りに、食事に行くようだ。私が感じたのは、どうも気のせいらしい。
気張ったところではないと言われたけれど、逆に言えばファミレスとかでもないということだ。
ちょっと悩んで、そうだと思いだした。
カバーをかけてしまっていた、黒っぽいチュールのワンピースを手に取る。これなら、たいていのところへ行っても恥ずかしくない。
「可愛いじゃないか」
「ありがとう、お婆ちゃん。似合うか心配だったんだけど」
「よくお似合いですよ」
この服は東京に作られた、私の部屋に用意された物だ。せっかくだから着るようにと、送ってもらっていた。
自分では到底買えないようなブランドの服ばかりだったので、なかなか袖を通せずにいたのだ。
「お兄ちゃんも行くんですよね?」
「ええ。さっき少し顔を出されて、言乃さんが帰ったのを確認されました。着替えているはずですよ」
司さんが言ってすぐ、お兄ちゃんが部屋から出てきた。
はつらつと元気いっぱい。という姿を見ることは、普段からない。でもなんだか、いつもよりも元気がない。
お婆ちゃんと話したのが、良くない話だったのだろうか。
「さ、行くよ」
ダイニングの壁に掛けてある時計をちらりと見て、お婆ちゃんはさっと席を立った。司さんは、なんだかタブレット端末を操作していたけれど、すぐにそのあとを追う。
戸締まりをして、幹線道路まで歩いて出て、タクシーを止めた。四人だと狭いかと思ったけれど、中型車両だったのでなんとかなった。
行き先は司さんがタブレット端末を見せて「ここへ」と短く伝える。運転手さんもすぐに「かしこまりました」と応じた。
四十分ほども走って、着いたのは高台にあるイタリアンのお店。そういうお店があると聞いたことはあったけれど、来たのは初めてだ。
お店の下は斜面になっていて、客席からはきっと夜の街が一望出来る。
「予約していた須能です」
「お待ちしておりました、須能さま。お連れのお客さまは、既に到着されております」
お連れ?
ホテルのフロント係の人みたいに、とても丁寧な応対をする店員さん。そんな接客のお店で、お客さんを取り違えるのは考えにくい。だいいち、須能と名を呼んでいた。
お婆ちゃんと初めて一緒に食事をする場に、誰が来ているのだろう。
「やあ、お手間を取らせますね」
「いえいえ、こちらこそ。私も上から責付かれるもので、無理を申しました」
案内された席に待っていたのは、濃い紺のスーツを着た男性。四十歳くらいだろうか。お婆ちゃんと挨拶を交わして、お兄ちゃんと私にも握手を求める。
「須能さんに、こんな可愛いお孫さんがいらっしゃったとは。今日はお邪魔をして、申しわけない。けれども来て良かった」
「は、はあ……ありがとうございます」
私が可愛いなんて、社交辞令もいいところだと思う。でも嘘っぽい言い方ではなくて、そういうのに慣れているのかなという気がした。
いったい、この人は誰……?
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