第106話:つついつつ

 講堂の三階ロビー。広いだけに、三階まで上がってきたとしても、その端にまで目が向かないかもしれない。

 講堂の中も外も、ステージで行う催しのお知らせが目立つようにしてある。そこに私たちの広告を少しばかり出しても、埋もれてしまうだろう。


 それでは営業していても、お客さんに来てもらえない。その問題に音羽くんが示した対策は、それほど練習も必要なく、難易度は高くない。

 むしろみんな、「目立って面白いから、何度でもやりたいくらいだな」と喜んでいた。

 私としては恥ずかしいけれど、みんなと一緒にやるならなんとかなる。


 少し問題があったとすれば、これまでになかった役目が増えた。それも、あることが出来ないと、役目を果たせない。

 幸いにそういう技能を持った人がクラスに何人か居たし、足りない人数は祥子ちゃんがお友だちに頼んでくれた。

 その諸々の手配が済んだのは、木曜日の授業が終わってすぐ。金曜日を残して、順調と言えた。

 でも──。

 また別の問題が起きたことを、私たちはその日の朝に聞いていた。


「なんでお腹壊すまで食べちゃうかなー」

「それはそれほどでもないみたいだけどね」

「明日中に治るかな──でも病気だったら、無理は言えないし。困ったね……」


 私がお芝居をする、伊勢物語。その相手役の男の子が、アイスの食べ過ぎで学校を休んだ。

 それだけなら次の日には来れたかもしれないけれど、風邪をひいて高熱を出しているという続報があった。

 今日と明日。二日間で治るものか。治ったとしても、ちゃんとお芝居を覚えているか。不安が募る。


 それ以外の準備は、滞りなく進む。金曜日の午前中には、小道具も全部作り終わった。それならと、もう完成している大道具をさらにいい物に手直しを始めたほどだ。

 そんな中、お昼ごはんの時間に、三島先生が教室へやってきた。


「野々宮、ちょっといいか」


 純水ちゃんだけを教卓の脇に呼んで、短く話した。その途中、純水ちゃんが渋い顔を浮かべたので、なんとなく察しはついてしまう。


「明日も来れないの?」

「そうみたい──どうしよう、今からセリフ覚えられるやつなんて居ないよね」

「それはきついねえ。今の時点で、二役とか三役をしてくれてる人も多いし」


 こうなると、昨日から考えておけば良かったとも思う。でもムダになるかもしれないけれどセリフを覚えておいてなんて、そこまで余裕がある人なんて居ない。


「やばいよ、どうしよう。最悪、伊勢物語は中止ってことに──でもそうすると、主役のコトに申しわけないし」

「私はいいよ。こういう事情なら、仕方ないし」


 悩む純水ちゃんと、慰める私。それを祥子ちゃんは、なぜだかきょとんとした目で見ている。


「ねえ、そんなに悩むこと?」

「悩むに決まってるよ。祥子はコトのお芝居、見たくないの?」

「見たいよ」

「じゃあ──」


 演技の良し悪しを置いたとしても、セリフくらいは暗記していないと、お芝居が出来ない。それを今からというのはきついと、祥子ちゃん自身がさっき言った。

 純水ちゃんは祥子ちゃんに、焦りを滲ませながらも優しく説明する。


「分かってるよー。でもさ、そんなの必要ないよ」

「ええ、どういうこと?」


 驚いた純水ちゃんと同じく、祥子ちゃんがなにを言っているのか、私も分からない。演目を取りやめる、と言っているのではないようなのだけれど。


「いや、だから。覚えてる人、居るじゃん」

「え?」


 言って祥子ちゃんが指さしたのは、純水ちゃんも私も納得の人だった。

 そんなこともありながら、金曜日は作った物の点検とお芝居の稽古をして、万全の態勢で文化祭の当日を迎えた。

 お客さんの入場開始は、午前九時。私たちはその時間に、クラス全員で教室に円を作って並んだ。


「みんな準備はいいね!」

「いいぞ!」

「みんな今日までよく頑張ったよ!」

「頑張った!」

「あたしたちが一番を取るよ!」

「おうっ‼」


 純水ちゃんが声を上げて、みんなが答える。名作カフェの、営業開始だ。

 と言っても、来場してすぐにお茶を飲もうという人も少ないだろう。まずは九時半からの、お芝居の初演を成功させないと。

 その初演は、私。

 最初なんて畏れ多いと言ったのだけれど、クラスのみんながそうしてくれと言った。「監督が先陣を切ってくれないと、こっちが畏れ多いよ」とかなんとか。

 そうまで言ってもらえるなら、私も覚悟を決める。祥子ちゃんにお化粧をしてもらって、雅な和服の衣装を着て。


「どうかな、変じゃないかな」

「……いや」

「えっ、そんなにおかしい⁉」


 そういえば着替えは女の子だけでやっていたから、男の子に見せるのは初めてだ。

 絶句させてしまうほどとは、着付けでも間違えただろうか。何度もやり方は習ったのだけれど、私はいつも肝心な時に失敗するのだ。


「ちゃんと褒めてあげなよ」

「照れてないでー。早くしないと、時間がないよ」

「いや、ええと……すごく」


 照れているの? そんなことを言われたら、私のほうが恥ずかしくなってしまう。傍で見ている祥子ちゃんたちは、なんだか笑うのを堪えているみたいだし。


「すごく……綺麗だ。と、思う」

「──あ、ありがとう」


 急遽、相手役を交代してくれた音羽くん。真っ赤になって、そういうお化粧をしているみたい。

 でもたぶん、それは私も同じだろう。どこを向いていいか分からなくなって、俯くしかなかった。


「よし、時間だよ。並んで出発して!」

「い、行こう。織紙」

「──うん、音羽くん」


 一般棟の三階に、私たちの教室はある。お芝居の衣装に身を包んだ私たちは、そこを歩いて出ていく。

 出演者の行列の前後には、和楽器を持った人が二人ずつ。鈴の音と、しょう。横笛につづみを鳴らして、ゆっくり、ゆっくりと進む。


 三階の廊下を進んで、階段から二階へ。二階を終えたら、一階へ。

 そこまでを進むと、他のクラスの人たちも、お客さんたちも、私たちに注目の視線を向けてくれる。


「なにあれ、能でもやるの?」

「すごいね、凝ってる」


 そんな声が聞こえて、嬉しくなった。

 これを考えたのはね、音羽くんなんだよ。すごいでしょう? と自慢したくなる。

 見られているのが自分だと、恥ずかしい気持ちはどこかに行ってしまった。そのまま中庭の真ん中を歩いて、講堂に辿り着く。私たちの後ろには、ハーメルンの笛吹きのように、人が連なる。

 それが残らず、とはいかなかったけれど、たくさんの人が三階まで来てくれた。用意した席は半分以上も埋まって、最初から予想以上だ。

 いける。これならお芝居もカフェも、うまくいくよ。


 ──伊勢物語は、短い物語を百二十五段も連ねて語られる。私がここで演じるのは、その中の第二十三段。

 筒井筒つついつつ

 昔々の日本。今の奈良県の田舎のほうに住む、男の子と女の子のお話だ。いつも一緒に遊んでいた、幼馴染の二人に纏わる物語。


「昔々、大和やまとの森深き辺り。湧き水を井戸のような木枠で囲った、筒井筒のほとり。そこに遊ぶ、二人のわらしが居りました」


 ナレーションは、祥子ちゃん。感情たっぷりのいい演技だ。

 私たちは、急いで着替えた。ここまで着てきた衣装は、もう少しあとの場面。最初は子どもらしい着物姿になる。


「背比べをしましょう。今日も私のほうが高いに違いないわ」

「前に測ってから、どれだけ経ったと思っているんだ? 今日は僕のほうが高いに決まっている」


 毎年、同じくらいの季節。筒井筒に傷を付けて、背の高さを競い合う。男も女もなく、他の子どもたちと、無邪気に笑い合う。

 そんな毎日が積み重なって、幼い子どもも育っていく。いつしか二人は無邪気に遊ぶ時間もなくなり、年ごろを迎える。

 立派に役所の仕事をこなすようになっている男性は、昔を懐かしんだ手紙を女性へと送った。


「あの井筒に、印を付けて測っていた僕の背丈。きっともう、言乃を越してしまったことだろう。ずっとお会いできない間に」


 音羽くんは手紙の文面を、切なく詠み上げる。とても上手で、一日しか稽古をしていないとはとても思えない。

 相手の女性。つまり私も、お返事を送る。その中身を、私も詠んだ。

 気持ちを乗せて、想いを込めて。


「幼かった私の、振分け髪。それも肩を過ぎるほどに長くなりました。優人さま以外の誰のために、私はこの髪を結い上げれば良いのでしょうか」


 男性が女性に、会いたいと文を送るのは結婚の申し込み。それに対して私は、あなたのために髪を結い上げたいと返した。

 既婚女性の証である結い上げ髪。つまりは結婚をお受けしますと、そういうことだ。


 二人は夫婦となって、幸せな時間が過ぎていく。けれどもいつしか、男性のほうに魔が差してしまう。

 妻のところに夫が通う、当時の夫婦。男性はその回数を減らして、他に通う女性を見つけてしまった。


「ああ、優人さま。龍田山たつたやまで風が吹けば、海の嵐もかくやというほどと聞きます。そんな場所を夜も遅くに、たった一人で越えるのでしょうか。ご無事でいらっしゃれば良いのですが……」


 もう一人の女性が住む方角を見ながら、私は一人で歌を詠んだ。愛する夫がなにをしていようと、ただ無事でさえ居てくれればいいと。

 妻は気付いていなかったけれど、これを夫は庭で覗いていた。

 浮気はばれているはずなのに、妻はなにも言ってこない。もしかすると、妻も浮気をしているのではと疑ったから。

 けれども妻は、心の底から愛してくれている。それを骨身にしみて理解した夫は、二度と他の女性になど会いに行かなかった。


「貴方がいらっしゃる方角の山を、ずっと眺めていましょう。雲が貴方との間を隔ててしまわないように。雨が貴方の脚を鈍らせないように祈りながら」


 その女性も、そんな歌を詠んで待ち続ける。しかしいつしか、その気持ちは諦めに変わった。

 一方、夫婦は互いの気持ちを確かめ合う。


「僕は君の愛の深さを知った。筒井筒の傷が消えるほど経っても、ずっと想いは変わらない。愛している、言乃」

「優人さま。優人さま。私はずっと、ひと時も変わることなく、お慕いしております。幼き日から、歳老いてその先までも」


 二人はその後、幸せな夫婦であり続けた。

 原作に登場人物の名前はなくて、シナリオにする時にも悩んだ。それを私の名前と、相手役の男の子の名前。そのままでいいと言ったのは、音羽くんだ。

 それが今、こんなセリフになってしまうなんて。たくさんの人の前で言ってしまうなんて。

 恥ずかしくて、照れくさくて……嬉しい。

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