第104話:かえでのもみじ
午後六時を過ぎて、階段の小さな窓からは夜の気配が忍び込み始める。あまり戻りが遅いと、心配をかけるかもしれない。とりあえず、教室へと戻った。
「あれ。コトの旦那が帰っていく」
「えっ、音羽くん?」
「違うよ。あれ」
やれやれといった風の純水ちゃんは、後ろの出入り口を指し示す。そこに見えたのは、伊勢物語で相手役の男の子。
「なあなあ。ニャオンに行って、アイス食わねえ?」
その男の子は、帰りにお友だちと買い食いをするらしい。大きなショッピングモールの、カラフルなアイスクリームを。
それに対して、ぼそっと祥子ちゃんのツッコミが入った。
「女子か」
「今日、暑いからさあ。俺、腹いっぱい食うんだー」
「小学生かっ」
普通の音量で言っているけれど、離れているので自分のこととは聞こえなかったようだ。そのまま帰っていった。
「ていうか今日は早いね。もう、ほとんど残ってないじゃん」
「ああ、今週はずっと遅くなってただろ? 天海のおかげで余裕が出来たし、今日は早めに帰ろうってことになったんだ」
「お──音羽くん」
音羽くんと早瀬くんは、まだ残っていた。窓際から、連れ立ってこちらにやって来る。
居ると分かって戻ってきたはずなのに、やはり実物を目の前にすると違う。胸がドクンと脈打って、一瞬前が嘘のような速いリズムで動悸が続く。
音羽くんが優しい顔をして見えるのは、私の気持ちのせいだろうか。凛々しい目が、少し困ったように見えるのも。
「お疲れさん。めぼしい場所、あったか?」
「ううん、ない……ごめん、見つけられなかった」
「少しだけでも譲ってもらえないか、頼んだんだけどね。ダメだったよー」
「そうか、どうするかな……」
聞いた早瀬くんも、自分の顎と口を揉むようにして悩み始める。
五人も顔を突き合わせて、しばらく言葉がなかった。みんなそれぞれ、なにを考えているのか。
もちろん名作カフェの営業を、どうするかだろう。けれどもそれは、どうしたら場所を確保出来るかということと、確保出来ない場合にどうするかの二種類あると思う。
私は、どうしてでも場所を確保したいと考えた。みんながここまで頑張ったのだから、そのまま形を変えずにやりきりたい。
「浩太、終わったの?」
廊下から、ひょいっと顔を覗かせたのは、詩織さん。黙って突っ立っている私たちは、どういう風に見えただろう。
「まだだよ。例の件が難しいんだ」
「そか──優人も頼んでたのにね」
「音羽が?」
「あ──いや。詩織」
音羽くんも営業場所を確保するために、誰かに頼んでいた?
昨日はずっと教室に居たと、純水ちゃんは言っていた。今日もそうだ。となると、一昨日のことだろうか。
純水ちゃんが頼んだのとは、別の行動をしていたことになる。それが気まずいのか、音羽くんは詩織さんを制しようとした。
「あ、ごめん。ええと──それで、見つからない感じ?」
「そうだね。委員会はなにか言ってた?」
「まだ、これってことは。どうするのか、そろそろ最終を出してもらわないと。とは言ってたかな」
「そうだろうね」
純水ちゃんの奥歯が、噛み締められる。校内の見取り図を出して、悔しそうに見つめている。
「考えよう!」
「えっ、どうしたの。言乃ちゃん?」
黙っていても、一人ずつが悩んだり悔やんだりしても仕方がない。みんなで考えれば、なにかあるかもしれない。
まだ時間は残っているのだから。
「まだ間に合うから、考えよう。委員会のことが分かる、詩織さんも来てくれたし。まだこのみんなでは、意見を出し合ってないよ。早瀬くんの意見を、まだ聞けてない。音羽くんの意見もだよ」
「そうだけど……」
「私たちはたった今、学校中を回ってきたよ。新鮮な記憶があるよ!」
もう無理だと、私も薄々は感じている。でもそう言いたくない。最後にダメだったとしても、その瞬間まで頑張ったって言いたかった。
「──あははは! 言乃ちゃん、面白い! あはははははは!」
「詩織さん?」
「あははは! しん──新鮮な! き、記憶! あはははははは!」
「おいおい。詩織、ちょっとこっち」
私にはちょっと久しぶりに感じる、詩織さんの笑い上戸。懐かしいような感覚さえあって、落ち込んだ雰囲気よりは良かったと思う。
そんなに面白いことを言ったかなとは思ったけれど、ともあれ早瀬くんが向こうに連れていった。
「……うん、考えよう。まだ間に合う。野々宮、それ俺にも見せてくれ」
「ああ、うん。そこに置こう」
四人で教卓を囲んで、そこに置いた見取り図をじっと眺める。
……ダメだ。これじゃあ、さっきとあまり変わらない。なにか言わなきゃ。なにか──。
「どうしたの? なにか問題?」
「手伝うことあるか?」
まだ教室に残っていた、何人かのクラスメイト。さすがにこれだけ賑やかにしていれば、「なんだろう?」くらいは感じる。
心配して声をかけてきてくれた。
「実はさ、まだ営業場所が確保出来てなくて。どこか穴場がないかって、考えてるんだ」
「そうなのか? 早く言えよ。なんでもやるって言っただろ」
「あ、じゃあ。見取り図出すね」
早速に、案を考えてくれる男の子。見取り図が一枚では足りないだろうと、資料の束をめくってくれる女の子。ほかの人たちも、そこここで考えてくれているみたい。
「露店を出すクラスとかは、教室使わないんじゃね?」
「休憩したり、すぐには使わない物を置く場所が要るんだよね」
「特別棟なら、広い部屋が多いよね」
「どこも、なにかのクラブで使ってるんだよー」
私たちが思いついたこと。同じ道を、みんなも繰り返す。体育館や、食堂。露店でやればいい、ということも。
二、三人で一枚の見取り図を見ながら、意見が一つずつ潰されていった。そして遂に、誰からも新たな意見が出なくなる。
「ここまで考えても出来ないって。無理ってことなんじゃないか?」
「野々宮さんたち、頑張ってくれてたんだね。精一杯やったよ」
「いや……うん」
もう一人と、片方ずつの手で持っている見取り図。悔しくて、震えそうになる。この人は、まだ見ているのに。気になって、顔を覗く。
──音羽くん?
私の隣で、肩を寄せあって見ているのは、音羽くん。案を出そうと思うあまりに、隣が誰かを見ていなかった。
「ん──?」
私の視線に気付いたらしい音羽くんが、怪訝な顔を向けてくる。
「あっ。ご、ごめんなさい!」
「……いや、俺のほうこそごめん」
音羽くんは、私だと分かっていたみたいだ。当たり前か。
けれどもなにがごめんなのか、音羽くんの言った意味は分からない。
「えと──」
「あっ」
聞こうと思ったら、音羽くんが声を出して固まった。彼の目は、私の顔を見つめている。
どうしたんだろう。なにかまた、私が変なことをしたのかな?
音羽くんに見つめられるなんて、今の私には気が気でない。さっきまで隣に居たことにも気付かなかった身で、そんなことを思う。
「野々宮! ここ、どうなってたって⁉」
「なっ、なに? どうしたの急に」
「いいから、もう一回教えてくれ!」
「だからー。ぎゅうぎゅう詰めだったし、予定もぎっちりだったんだってば」
「そこだよ!」
なにか思いついたらしい音羽くん。大きくなった声を非難する純水ちゃんと、同じくどうしたのかと呆れ気味の祥子ちゃんに、まあ聞いてくれと説明を始めた。
いい案だと自分で思えたのだろう。とても嬉しそうに。
「……いいじゃん」
「そうだよ、それでいけるよ!」
「すごい、すごいよ音羽くん!」
祥子ちゃん、純水ちゃん。私も、音羽くんが嬉しそうな理由に納得がいった。みんな見落としていたけれど、その場所ならば営業は十分に可能だ。
むしろ好立地と言っていいのでは、と思える。
「よく思いついたな、音羽」
「ああ、ええと──偶然だよ。詩織、委員会の誰か残ってるか?」
「うん、まだ居ると思う。連れてく?」
その場所を使っていいかは、文化祭の実行委員会に届け出て、最終的に生徒会の承認が要る。
だから向こうに届け出るのは、早いほうがいい。
音羽くんの「それでいいか」と問う視線が、純水ちゃんに投げられた。彼女がそれを、否定する理由はない。
「あたしたちも行こう。すぐに」
みんな走り出して、私も走った。走りながら、複雑な気持ちに迷わされる。
音羽くんは、偶然に思いついたと言った。でも私には分かる。あの場所を思いつく、きっかけがあった。
それを良かったと言っていいのか、どうにも判断がつかなかった。
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