第101話:しのぶやま
長い夜だった。そう思いながら、外の明るさに気付いた時には「いつの間に」とも感じる。
眠れないまま朝を迎えて、いつもの起きる時間になった。布団を出て立ち上がる。と、寒気を感じて脚もふらつく。朝が寒いなんて、まだそんな時期じゃない。完全に徹夜をすると、こんな風になってしまうのか。
数秒ほど壁を頼って、落ち着くのを待つ。今朝方になってからだけれど、なにもしないのに息が乱れるのはなくなった。
本棚の写真に、視線を向けてしまう。するとまた、胸がドキドキと自己主張を始める。これを放っていたら、なにも出来ない。「ごめんね」と言いつつ、写真を後ろ向きにした。
朝ごはんは、なににするんだったか。決めていたはずなのに、思い出せない。まあいいや。すぐに思いつく物にしよう。
卵とベーコンを取り出して、ベーコンエッグに。蓋をして蒸している間に、棚からジッパーバッグを。お味噌汁に使う色々な種類の具が、乾燥して入っている。お兄ちゃんが編集者さんだったか、どなたかからお土産でもらった物だ。
そろそろこれも、なくなってしまう。これまでは、こういう物が途切れることなんてなかったのに。
お兄ちゃんは、もう起きているのだろうか。それとも、まだ起きているのだろうか。微かに物音がするから、眠ってはいないと思う。
お婆ちゃんの一件があって以来、お兄ちゃんが文章を書く時間は減った。まだ締め切り前だった物が残っているから、それだけを書いているらしい。
祥子ちゃんの紹介してくれた、ケイ出版には連絡したのだろうか。聞いてみればいいのだけれど、たぶんそれはまだで、悩んでいるようだから聞きづらい。
自分の気持ちで頭の中がぐちゃぐちゃなのに、どうしてお兄ちゃんのことまで。
ああ、そうか。他のことに気を逸らしたいだけか。ずるい私。
私はそうやって、自分以外のことを心配する振りをして、自分自身のことをなおざりに──いや、おざなりにしてきた。
ああもう。また手が止まっている。早く支度をして、学校に行かないと。ご飯をよそって、ベーコンエッグとお味噌汁もテーブルに置いて、「いただきます」と手を合わせる。
「ん──」
食べたくない。
朝ごはんは普通に食べるもので、さっき作る時も、食べたいかどうかなんて意識をしていなかった。
無理をして卵を二口ほど食べたけれど、ダメ。吐き出しそう。
仕方ない。お味噌汁とご飯は戻して、ベーコンエッグは冷蔵庫に入れておこう。
冷蔵庫の中にお皿を入れるスペースを整理していると、なにを入れたのだか覚えていないプラ容器があった。
「なんだっけ……」
開けてみると、白っぽい液体に浸かった食パンだった。
ああ──フレンチトーストを作ろうと思って、ゆうべ置いていたんだった。
「なにやってるのかな、私……」
大したことじゃない。まだもう一日くらい置いていたって、問題ない。分かっているのだけれど、やっていること、考えていることのちぐはぐさがつらい。お腹にある重みに拍車をかける。
ぐるぐる。ぐるぐる。
フレンチトーストが、ベーコンエッグに。それがお兄ちゃんの顔に。次は祥子ちゃん。純水ちゃん。
ぐるぐる、ぐるぐる。
世界が回って、天井に音羽くんの顔が見えた。ぐるぐるぐるぐる。暗くなっていく。「どうした⁉ 言乃!」お兄ちゃんの叫ぶ声が、聞こえた気がする。
暗くて、なにも見えなくて、寒いけれど。私は少し、ほっとした。
……ふと。目を開けると、見慣れた天井が見えた。私の部屋だ。
視界になにか入り込むのは──冷却シート。おでこに貼ってあるけれど、もう乾きかけている。
体を起こすと、案の定で落ちてしまった。頭が痛い。でもズキズキするけれど、動けないほどじゃない。
「お兄ちゃん?」
部屋の間の壁は薄い。普通に声を出せば、不都合なく聞こえる。壁の向こうで、お兄ちゃんが座布団から慌ただしく立ち上がった音さえも。
「入るぞ──どうだ?」
「えと、私。覚えてないんだけど」
戸を開けたところで聞くお兄ちゃんに、事情を聞いた。
冷蔵庫の中の物をいくつか巻き込んで、私は倒れたらしい。お兄ちゃんはその音で気付いて、熱のある私を部屋に移動させた。
苦しそうではあったけれど、救急車を呼んでというほどには見えない。だから市販の頭痛薬を飲ませて、様子を見ていた。
お兄ちゃんの説明は、家電品の説明書のように丁寧だ。
「まあまあ。おとなしく寝てるのがいいよ」
「うん、そうする」
熱はそれほどでなくて、だるい感じはするけれど、これから悪くなるぞという感覚もない。
その会話のあと、お兄ちゃんは冷蔵庫のほうに行った。すぐに戻ってきて、よく冷えたペットボトルを渡してくれる。
「さっき買ってきたんだよ。水分補給はちゃんとしないとな」
「ありがと」
お兄ちゃんが部屋に戻って、急にしんとなった気がした。よく聞けば家の周りの音がたくさん聞こえるのだけれど、心理的なものだろうか。
離れたところで、竿竹屋さんの声がする。今どき、わざわざ呼び止めて買う人が居るのだろうか。
近所の小さな子たちが遊ぶ声も微かに。きっとその近くでは、お母さんたちがお話してもいるだろう。
ときどき車の音もする。世界は動いているなと、私が倒れたことなんて関係あるはずもなく、進んでいるなと思う。
あっ。
急に感覚があって、トイレに行った。なるほどそれで頭が痛いのか。謎は解けたけれど、こんな感じは初めてだ。悩みすぎたり、徹夜をしたせいだろうか。
布団に戻って、なるべくなにも考えないように。お兄ちゃんに言われた通り、おとなしくしていた。
時計を見ると、午後三時に近い。そろそろまた、文化祭の準備を始めるころだ。
寝転んでいてそれはないけれど、気持ちだけは座禅をしているような時間が過ぎた。なにも考えず、窓から覗く空を見つめ続けていた。
無駄に大きな音で、チャイムが鳴る。ピンッ、ポンッと。ボタンを押した時と離す時とに、それぞれ音がする。木琴の高音を乱暴に叩いたような、心臓に悪い音。
いつもなら私が出るのだけれど、こんな時だからお兄ちゃんが出てくれる。
「ああ純水ちゃん」
どうやら親友がお見舞いに来てくれたらしい。外はまだ明るい。時計は五時過ぎを指している。
今日は準備をしなかったのだろうか。などと、そんなはずはない。準備はさておいて、私のところに来てくれたのだ。
「コト。ホントに風邪だったんだ」
「ううん。風邪じゃないんだけどね」
「──ああ、そういうことね」
上がってきてくれた純水ちゃんを、布団の中で出迎える。起きようとしたのだけれど、止められた。
ひんやりした手が、額に当てられる。外はまだ暖かいはずなのだけれど、純水ちゃんの手はいつもこの温度だ。
「熱もちょっとあるっぽいね。いつもひどいの?」
「ううん、こんなのは初めてだよ。ゆうべ、よく眠れなかったからかな」
「寝てないんだ?」
「寝てない、ことはないんだけど……」
言い淀むと、額に当てられた手がペチンと音を鳴らした。
「あいたっ」
「そういう気を遣わないの」
「ごめんなさい──」
その言葉が嬉しいけど気まずくて、話を変えさせてもらうことにした。
「祥子ちゃんは? 準備してくれてるの?」
「そうだよ。あたしたちのクラスの中心はコトだから、みんなが様子を見てこいって。あたしだけ抜けてきたの」
「ええっ、私が中心? それは純水ちゃんだと思うよ」
また突然に、なにを言い出すのだろう。たしかに私は、これまでになく参加出来ていると思う。クラスみんなでとか、そういう共同作業にどう近寄ればいいのか、これまでは分からなかったから。
けれどもそれは、あくまで「こうしなければいけない」とか、「こうしてくれと頼まれた」とか、必然に従っているだけ。
その辺りを取り回しているのは、やはり純水ちゃんだと思う。
「あたしがあれこれ指図してるから?」
「指図って言うとなんだか──だけど、そうだよ。みんな純水ちゃんを頼りにしてるもの」
「うーん。まあそれが、全然違うとは言わないけどさ」
うひひっ、と軽快に笑う。照れ隠しだろう。でもそのあとに「けどね」と続けられる。微笑みはそのままで。
「例えばここに、小さな会社があります」
「か、会社?」
「そう会社。中に工場もあって、社長はあれやれこれやれって、指示を出してる」
「純水ちゃんだね」
「そうかもしれない。でもそれだけじゃ、物は作れないんだよ」
指示があって、もちろん指示を受ける人も居るのだと思う。それで物が作れないとは、なぜだろう。
「社長って、社員に指示を出すだけじゃないよねきっと。他の会社とか、お客さんとか、色んな人と話さないといけない。社長だから全部を分かって、全部の責任を背負ってさ。コトのお婆ちゃんは、そんな感じだった」
「──うん、すごく話し慣れてた。純水ちゃんも、そんなところあるよ?」
いやいやっ、と純水ちゃんは両手を振る。そこまではないと。
もちろん本物の経営と、文化祭のこととを同じに考えることは出来ない。でもその片鱗はあるような気がする。
それを言ったら、純水ちゃんはまた照れて「へへっ」と笑う。
「ありがと。でもさ、あたしがそうだとしてもやっぱりダメなんだよ。社長がよその人と自信を持って話すには、工場がちゃんと回ってくれないとね。そこには優秀な工場長が要るんだよ」
「ええと、私?」
話としては、そうなる。
いくらいい商談をもらっても、出来上がる商品がダメでは意味がない。その話も分かる。
「そうだよ。みんなコトが作りたいものを、いいって言ってる。自分たちで形にしたいって、頑張ってる。
それはコトがあんなに頑張って、あんなに一所懸命にやってるからだよ。それがどんなものなのか、みんな分かりたいし、分かる。だからだよ」
「そうなのかな。それならいいな──嬉しいな」
「そうなんだよ」
私も純水ちゃんみたいに「えへへ」と笑った。彼女も釣られて笑ってくれる。
「じゃあ明日は行かないと。平気だよ、さっきまで寝てたし。今日はちゃんと寝るし」
「うん、寝ないとね」
「あっ。でも社長と工場長が居ないと、今日は休業?」
抜けてきたと言っていたから、なにもしてなくはないのだろう。けれどあれこれ判断がつかなくて、困るかもしれない。
「いや、変わりなくやってる。全体的には、祥子が頑張ってる」
「祥子ちゃんがやってくれてるんだ。さっきの話だと、祥子ちゃんはなにになるの?」
「ええ? 急に言われても、思いつきで言ったんだよさっきのは」
そう言いながらも、純水ちゃんは考えていた。「うーん」と唸って、十秒ほどで答えが出たらしい。
「会社だとどうだか分かんないけど、たくさん人が居ても目立つ人って居るよね」
「居るね」
「その人が居るとなんだかうまく行くし、その人もあれこれやってくれるんだよ」
「うん、いるいる。祥子ちゃんはそんな感じ」
祥子ちゃんの名を出すと、純水ちゃんは一度、口を閉じた。好きな人を手放しで褒めるのが、恥ずかしくなったのかもしれない。
でもそこで話が終えられることはなくて、純水ちゃんは頬を染めながら言った。
「スポーツ選手とかでも居るでしょ、そういう人。スーパースターって。
祥子はね、それなんだよ。みんなを勝利に導く、スーパースターなんだよ」
きらきらと目を輝かせて、純水ちゃんは祥子ちゃんを語る。
いいな。祥子ちゃんも、純水ちゃんも。想われること。想うこと。通じ合えている二人が、羨ましい。
「いいね。本当だね。祥子ちゃんは、いいよね」
納得して笑いかけたつもりなのに、顔は笑えていたはずなのに、涙がこぼれた。
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