第100話:くたかけ

 それから私は、どうしていただろう。なんだかそれなりに、やることはやった気がする。

 ほとんど覚えているのだけれど、あれは最後にどうしたのだったか。これは結局どちらにしたのだったか。

 そういう最後の詰めの部分が、かなり怪しい。

 自分の家の自分の部屋で、携帯電話に表示された純水ちゃんからのメールを見て、いつの間に家に帰ったのだろうと驚いたくらいだ。


『調子悪い?』


 というタイトルのメール。風邪だったら、きちんと食べる物を食べて、暖かくしているんだよ。とかなんとか、先日とは逆のことが書いてあった。

 ありがたいなあ、と。表情の緩むのが分かって、我ながら強張っていたんだなと思う。

 そうしていると、部屋の入り口の戸がノックされた。


「言乃、いいか?」

「うん、どうぞ」


 どうぞと言いながらも、自分で戸を開けに行く。お兄ちゃんも、ぶしつけに開けたりはしない。


「これ」

「なに?」


 差し出されたのは、USBメモリ。お兄ちゃんがお話の構成に行き詰まった時に、こうやって原案を見せてもらうことはある。

 でも今は、そういうこともないはずだ。


「祥子ちゃんが、言乃に見せろって送ってきたんだよ。動画みたいだよ」

「祥子ちゃんが? ごめんね、連絡係になって」

「構わないよ」


 それだけ言うと、お兄ちゃんはそそくさと自分の部屋に戻った。

 司さんは、とっくに東京へ戻っている。誰も居ないダイニングを眺めていても寂しいだけなので、私もすぐに戸を閉めた。


 私の部屋には、お兄ちゃんからお下がりのパソコンがある。ネットには繋がっていなくて、ワープロと表計算のソフトくらいしか入っていない。

 それを起動して、USBメモリを読み込んでみた。

 言っていた通り、動画ファイルが入っている。ファイルを起動。


「よいしょっ──と」


 いきなり祥子ちゃんの顔のアップ。撮影しているカメラを、操作したところらしい。


「コトちゃーん。見ててね」


 どうやら彼女は、自分の部屋に居るようだった。やたらにピンクの目立つ、広い部屋。

 フリルやレースの付いた布製品も多くて、いかにも女の子という感じがする。旅館の布団部屋みたいな、私の部屋とは大違いだ。


「あれは今から八年前のこと。うちは恐ろしい体験をしました。お城の前で倒れた馬車。そこに乗っていた少女を、我が家で預かることになった。あの月夜の晩から、それは始まったのでした」


 今日の稽古で言っていたセリフ。とても真面目に表情を作っていて、なのに一人称が「うち」になっている。

 ふざけているのでないのが、余計に微笑ましくて笑ってしまう。


 そのまま冒頭のシーンが一通り演じられて、「明日、感想聞かせてね」という言葉で終わっていた。

 可愛かったとか、セリフもだいたい覚えられていたとか。感想くらいは、いくらでも言える。

 でもどうして明日なのだろう。祥子ちゃんの性格ならば、見たらすぐに連絡してとでも言いそうなのに。


 そう思うのは、我ながら白々しい。

 初めて見る祥子ちゃんの部屋は、とても広い。画面の中を左右に行ったり来たりしているけれど、足元につまずく物はなにもない。

 それでも彼女は転んだり、よろけたり。逆に意味なく、踊ったりもしていた。


 私の様子がおかしかったから、元気付けようとしてくれているんだね。

 純水ちゃんのメールも、本当に風邪を心配してのものではないのだろう。

 私が音羽くんに嫌われてしまったかもと動揺しているのを、二人とも察しているのだと思った。

 本当に私の考えていることは分かりやすいんだなと恥じる反面、とても心強い。友だちってすごいなと、もう何度感心したか分からないことをまた感じる。


「そうだね。落ち込んでいても、始まらないよね」


 学校では会えなかったけど、おとはでは会える。あそこは音羽くんの家なのだから、居ないはずがない。

 そこで勇気を出して聞いてみよう。私はなにをしてしまったのか。

 それとも私の思い込みかもしれない。今日はなにか特別な考えがあって、居場所を教えられなかったのかもしれない。

 全部、聞いてみよう。どこまで聞いていいのかも、聞いてみよう。


 お兄ちゃんの夕飯の用意を、今日ほど億劫に感じたことはない。今日ほどというか、たぶん初めてだ。

 申しわけないとは思いながらも、格安で買い溜めている冷凍食品だらけにしてしまった。

 自転車でおとはに向かう途中、一台の自販機を馴染み深く感じてしまう。幹線道路の先に見える、電車の駅も。おとはに近い、コンビニも。


「おはようございます」

「お。おはよう、言乃ちゃん」


 いつもと同じに、調理場のお父さんが声をかけてくれる。


「言乃ちゃん、おはよう」

「言乃ちゃん、調子はどう?」


 お母さんとお婆ちゃんも、片付けなどしながら笑ってくれる。

 同じでないのは、音羽くんが居ない。私がここに来て、彼の姿がないのは初めてだ。


「あの、音羽くんは──調子でも悪いんですか?」

「あれ? 文化祭の出し物のまとめ役になってしまったから、暇がないって言ってたけど。違うの?」

「あ、いえ。違いません。まだ残ってるんですね、代わりに私が頑張ります!」


 水仕事の臭い。優しくて頑張り屋の、お母さんの匂い。

 一瞬だけ香って、解放される。「助かるわ」と、軽く私を抱きしめてくれたから。

 私をこの家の娘のように扱ってくれる。最初は随分と遠慮をしていたはずなのに、慣れ過ぎてしまったのかもしれない。

 ここはあくまで、音羽くんのお友だちとして来ている場所。音羽くんとの繋がりがなかったら、こんな風にしてもらえる理由がなくなる。

 分かりきった事実が、たまらなく悲しい。

 だから、頑張ろう。もしも突然に、今日が最後だったとしても、後悔しないように。


 私はいつも、お客さんの足が鈍ったあと、きりのいい時間にお手伝いを終わる。今日は午後八時だった。

 その時間になっても、音羽くんは帰ってこない。もしかすると、家には帰っているのかもしれない。でも脱衣所までを行き来させてもらう時にも、そういう気配を感じなかった。

 自分の家に帰って、お風呂に入って、宿題をすませる。

 その間じゅう。布団に入っても。音羽くんの顔が、ずっと頭にある。

 音羽くんの声。音羽くんとしたこと。たくさんの記憶が、何度も、何度も。繰り返して、繰り返して、目に浮かぶ。


 待って、私。よく考えて。

 学校で、ちょっと行き違ってしまっただけ。彼の家でただ一回、姿が見えなかっただけ。

 たったそれだけ。

 なにをそんなに焦っているの?

 なにをそんなに動揺しているの?


 布団の中で、天井を見ていられなくなった。右の壁を見て、息苦しくて左の壁を見る。

 なぜだか荒くなってしまう息を、指先で止め……られない。

 私、変だ。こんなのは、きっとおかしい。

 純水ちゃんが心配してくれたように、本当に風邪でもひいているんだろうか。

 苦しい。胸が締め付けられて、お腹にはおもりが入っているようで。

 横になっていられない。体を起こして、照明を点ける。息が切れるのに、目だけは動かしてしまう。

 机の上と、本棚と。そこにあるのは、海へ行った時の写真。スマホのない私に、祥子ちゃんがプリントアウトしてくれた。


 親友の二人を見ると、苦しさが少し和らぐ。でもどうしても目を向けてしまうのは、音羽くんの顔。

 ──きっと、そうなんだ。これはそういうことだ。

 嫌だな。気付くなら、こんな不安な時でなければ良かったのに。

 写真の中で笑っている、音羽くん。

 ごめんね。音羽くんは、私に会いたくないのかもしれないのに。ごめんね。なにも取り柄のない、私なんかが。

 でも、分かってしまった。もう、知らない振りは出来そうにない。

 音羽くんのことが。私は、音羽くんが好きなんだ。きっとこれが、好きってことなんだ。


 どうすればいいんだろう。

 こんなに苦しい気持ちを、自分でもどうやって操ればいいのか分からない。こんなどうしようもない物を、どうすればいいんだろう。

 避けられているのに、音羽くんに伝えるなんて。それが無茶なことだとは、私にも分かる。

 ……苦しい。苦しいよ。どこにも持っていきようのない、こんな気持ち。

 最初に迷惑をかけてしまったのだから、その立場のままで居れば良かったのかな。

 こんなことなら、こうなってしまうのなら、出会わなければ良かったのかな。


 図々しい。空気が読めない。身の程を知れ。

 厳しい責め句。なじる言葉が、私を襲う。それは何度も。留まるところを知らない。

 いつまでも、いつまでも。自身の苦しさと、縛る言葉が、私を苛む。

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