第98話:あさまのたけ
気のせいだ。
誰かが見ている前で転んでしまったら、それはとても恥ずかしい。私もその場から、なるべく早くに逃げようとするだろう。
それを私は、引き留めていた。
それがきっと、恥ずかしかっただけだ。
だから、謝らないと。もう見えなくなった背中を追って、急いで教室に戻った。
──居ない。
クラスメイトが何人かずつに分かれて、教室のあちこちで作業している。その光景は、見慣れたはずの教室を広く見せる。
一つの机に、五人ほどが顔を突き合わせている中に──居ない。床に大きな布を広げて、みんな下を向いている中に──居ない。
行方を知っているかと思ったのに、早瀬くんの姿も見えなかった。
そうだ、学生寮に向かう道。あそこに居るのかもしれない。前にそこで見つけた時は、たぶん音羽くんは落ち込んでいた。今がどんな心境か分からないけれど、なんだかそこに居る気がする。
でも私たち五人が、教室に誰も居ないのは良くない。なにか特別なことが出来るわけではないけれど、ここまで方向性を示してきたのは私たちだ。
「お、監督。戻ってきてたんだ。ちょっと見てくれよ」
「うん!」
大道具も、小道具も、衣装を作るのも。お芝居の内容も、調理だって。なんでも答えられる。私はなんでも知っている。
だってそれは、私たちが決めたことだから。
クラスみんなの意見を取りまとめて、五人で一つの結果にして、資料に書き留めたのは私。音羽くんや純水ちゃんが、そんなこと決めたっけと言うことも、私は書いたから覚えている。
「カントクー、これなんだけど」
「あ、これはね。三つ目にしか使わないの」
クラスのみんなが、私に聞いてくれること。言ったことを、なるほどそうかと行動してくれること。
すごく。すごく嬉しい。
私は、ここに居ていいんだと思う。ひっそり隠れて、居るのだか居ないのだか気配を殺していなくていいと思える。
……けれど、寂しい。
心配しなくたって、祥子ちゃんと純水ちゃんは、もうじき戻ってくる。
彼女たちが、なんのきっかけもなく私を遠ざけるなんて、あり得ない。起こるはずがない。
それはもう確信で、それはとても幸せなことで。十分に、十二分に、満足していいのだと思う。満足するべきなのだと思う。
私はいつから、こんな強欲になったのだろう。いつでもみんなが居てくれないと寂しいなんて、どれだけ欲張りになったのだろう。
これまでいつだって、自分で決めて、自分で実行してきたのに。目の前にみんなが居ないことで、こんなにも不安になるなんて。
そのみんなの中に、音羽くんまで入れてしまっているなんて。
「監督、こっちも――」
「カントク――」
嫌だよ。
音羽くんが居てくれないと、嫌だよ。
今という時間を、偶然にどこかへ行っただけならいい。誰だって、ずっと同じ場所に居るわけにはいかない。夕方には家に帰るし、それこそおトイレにだって付き添うわけにはいかない。
変だった。今日の音羽くんはなんだか様子がおかしくて、さっきは私を避けようとしていた気がする。
私がなにかしてしまったのかな。
それならやっぱり、謝らなきゃ。
「コトちゃん、忙しそうだね」
「コト、ごめんね。遅くなった」
「ううん。平気だったよ」
私はどんな顔をしているのかな。戻ってきた二人に、心配をかけたくはないのだけれど。
「どうかした?」
「え、ええと。なにか変だった?」
「いや、そういうわけでもないけど。テンパってる?」
「そうかな。音羽くんたちが居ないなって、探してはいたけど」
良かった。ひと目で、おかしいと思われるほどではないらしい。
「あれ、ホントだねー。どこでサボってるのかな」
「なんでもないならいいよ。それでね、対策としては場所を移すのが手っ取り早いと思うんだ」
「ああー、そうだね。そうすれば解決だね!」
なんだ、そんなに簡単なことだったんだ。どうして思い付かなかったんだろう。
安易に褒める私に、純水ちゃんは「だといいんだけど」と、細く息を吐いた。
「舞台もある程度の広さが要るし、それを見る席と調理スペースとなると──なかなかないよね」
文化祭の準備のために、委員会が発行したしおり。これがほとんどそのまま、来場者に配られるパンフレットになる。
そこに印刷された校内見取り図には、どこでどんな催しがされるのか、番号で一目瞭然だ。
「隙間が……」
「ねー、早い者勝ちだもんね」
祥子ちゃんの眺めるそれを見ると、一般棟に数字の入っていない部屋はほとんどない。空いている部屋はあっても、他の場所でやっている催しの準備には使うだろうから間借りすることは難しいように思う。
特別棟ならあるいはと思ったけれど、そちらは完全に埋まっている。予定のない部屋がない。
「体育館も講堂もダメだしねえ……」
「外でオープンカフェみたいにする?」
「露店は数が決められてるから、もう無理みたいだよ」
演劇部や音楽系のクラブで、大きなステージのある建物は使われている。空き時間もあるだろうけれど、そんな隙間だけではカフェの営業なんて出来ない。
「ああもう。やっぱり、こんなギリギリになって言われても無理だよー」
「そうだね……でもまだ、考え始めたばかりだからさ」
「分かってるよ。あーちゃんが諦めるまでは、うちも諦めない。あーちゃんが『このやろー』って怒るまでは、うちも怒らない」
二人は──なんだか、いい。
なにがどうとはうまく言えないけれど、すごくいいと思う。
見ていると切なくて胸が苦しくなる。決して嫌な気持ちではなくて。
──乾いた喉に、よく冷えたミルクたっぷりのカフェオレを流し込みたいような。
焦りのようなものの混ざった欲求が、どこからともなく湧き出てくる。
「音羽くん──」
「え?」
「ねえ。演出家って、どんな場所でお芝居をするのかも考えるのかな」
「ええ──? うーん、必ず出来るとも限らないだろうけど、そうしたいんじゃない?」
「分かった」
駆け出した私を、祥子ちゃんが呼び止める。
「コトちゃん、どこ行くの!」
「音羽くんに考えてもらうのがいいと思うの! 探してくる!」
たくさん勉強していたもの。それが夢なんだって、言っていたもの。
仲のいい二人を見ているのに、私の頭には音羽くんの顔が浮かんでいた。それがどうしてなのかは、考えなかった。
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